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 女王との約束まで一週間を切った。
 手紙のやり取りをしてからは、ぎこちないながらも短い世間話を交わすようになっている。
 ランディとは、あれからまた一度お茶を飲んだ。仕事の合間だったせいもあり、とりとめのない会話をしただけだったが、穏やかな時間を過ごすことができた。

 ランディといると心が安らぐ。
 彼の傍に身を置くと、痛みが緩和される。
 孤独な人間が、理解者を得たらこのように感じるのだろうか。もちろんわたくしは孤独であったはずはないが、そうも想像する。
 無意識に彼の姿を探している自分に気づいた時、恐ろしくなった。
 ランディに恋をしているわけではない。わたくしが恋をしているのはゼフェルで、それは疑いない事実なのに。
 彼は、まるで麻薬のようだ。不安定な精神を落ち着かせてくれる、時間制限付きの麻薬。
 ああ、またランディと目が合った。全てを許してくれている笑顔。
 柔らかくて、強い笑顔。

 笑顔。

 ゼフェルが笑う。
 心臓が縮んだような感覚が胸に走る。
 笑顔が歪む。喉仏がゆっくりと上下する。
「なあ、なんか言ってくれよ」
 搾り出すように言われて、わたくしは我に返った。



 噴水の水面に、落ちようとする太陽のオレンジ色が滲んでいる。どこか非日常的な夕闇の中で、ゼフェルはわたくしを見つめていた。
「お話は聞いているわよ?あの猫達はどこに住み着いているのかしらね」
 時々姿を見せる猫の一家を彼は気にかけていて、今もその話をしていたはずだ。
「…おめー、オレに言えねーことがあるんじゃねーか?」
 険しいと表現できるような顔で、彼は続けた。
「なんか悩んでんだろ?」
「悩んでなどいませんわ。少し疲れているだけで」
 反射的に出た言葉が白々しく響いた。
「オレはおめーの心の中に踏み込んじゃいけねーのか?」
 女王の顔が頭に浮かんだ。次いで、蓋をしていた感情が溢れ出す。
 ランディに言われた通り、わたくしは醜い自分を見せたくない。だから踏み込ませたくない。まだランディのようにはなれない。
  まだ?本当にわたくしもいつかそうなれるの?
「陛下となんかあったんだろ?なんでオレに言ってくれねーんだよ」
 動揺のせいで、心に膜を張る準備が遅れた。その隙に最も聞きたくなかった言葉が彼の口から吐き出された。
 違う、最も聞きたくないのはあの音。陛下の名前。アンジェリーク。いや、もうどちらでも同じだ。

 どれだけ苦しんでも、誰を傷つけても、傷つけたことで深く後悔しても、ひとときの安らぎを手にしても。
 何をしても、何をしても結局ここに戻ってきてしまう。不毛過ぎる。もうこんな思いをするのはいやだ。本当にいやだ。
「…ランディには話してんだろ?」
 何も答えないわたくしに業を煮やしたのか、彼は呟いた。その声は怒りを孕んだものではなく、胸が絞られるようにせつなくなった。
「オレはそんなに頼りねーか?」
 ゼフェルはきっと、わたくしにも自分にも歯痒さを感じているのだろう。何も知らせてこなかったことを申し訳なく思うと同時に、見当違いなことで心を痛めている彼を愛しいと思った。

「あなたが好きよ。陛下のことも」
 戒めを解かれて、口が動き始める。
「ゼフェルもわたくしを好きですわよね?もちろん、それはよくわかっているの。でも、わたくしは苦しいのですわ」
 言いたくない。言ってしまいたい。二つの強い思いに揺さぶられる。
 交互に点滅する信号が神経を急速に磨耗させる。乗り物酔いをした時のように、不愉快な唾液が口内に満ちる。
「陛下とお付き合いをしていた時の陛下への想いと、今のわたくしへの気持ち、どちらがより大きいの?」
 たまらなくなって無形の吐瀉物を吐き出した。零れてしまった言葉は戻らない。

 口を動かしながら、わたくしは考えていた。
 自分はきっと後悔するだろうと。



 わたくしはなんて愚かなのだろう。



「え?」
 虚を突かれて、彼は形容しがたい表情を浮かべた。
「馬鹿な質問だとわかっています」
 そう付け足すと、彼の眉は困惑の形をとった。
 陛下に苛立ちをぶつけた日が脳裏に蘇る。同じ顔だ。
 抑えつけていた感情が小さな爆発を起こし、やがて収束する。そのあと深い自己嫌悪に陥る。そして。
「それらは比較はできないもの…そうですわよね?」
 繰り返すのだ。わだかまりは小さくなっただけで消えはしないから。
「ロザリア」
 わたくしの名を呼んで、後が続かない。
 彼はきっと、状況が掴めないながらも真剣に考えてくれているのだろう。安易に耳障りの良い言葉を並べることも、笑って誤魔化そうともしないことがそれをわたくしに知らしめる。腹立たしくてしかたがない。憎らしくてたまらない。
 この馬鹿げた喜劇から救ってくれる言葉が欲しかった。醜い汚泥の中から拾い上げてほしかった。完璧な言葉だけを求めるわたくしは、本当に気が違っているのだろう。
 彼が真摯に応えようとすればするほど、望むものは手に入らない。
 そう理解した途端、心に課していた枷が外れた。
「わたくしは嫉妬しているのです。過去にあなたが愛した女性に。あなたが彼女のことを話すたび、わたくしの心は軋んでいました。あなたには想像できないほど強く」
 昂ぶった感情のまま言葉を投げつけた。
 どこかで予想していた通り、彼は言葉を失ったが、それでも重力に逆らって口を開く努力をし、彼は成功した。
「…なんでそれを言ってくれなかったんだよ」
「言えるはずがありませんでしょう」
 大きく息を吸って、再び作業を始める。
「あなたがとても好きですわ。あなたを憎んでしまうくらいに。陛下を傷つけてしまうくらいに。自分を見失うくらいに」
 もういい、壊してしまおう。これ以上続けたくはない。

 日が落ちて、彼の輪郭は曖昧になり始めている。
 彼が見ているわたくしもそうだろう。見るたびに、触れ合うたびにわたくしの胸を高鳴らせた肌の色も、黒い影と見分けがつかない。今なら。
「このままではあなたも、陛下も、わたくし自身も失ってしまいそうなの。だから」
「ちょっと待てよ!オレはおめーが好きだ。今はおめーだけが好きなんだよ。なあ、それじゃ足りねーのか?」
 十分のはずだった。わたくしを好きだと言ってくれるだけで十分だったはずだ。
 いや、ずっと以前、まだ彼が彼女を見ていた頃は、彼がわたくしに笑いかけてくれるだけで喜びを感じていた。ほんの数分親しく会話を交わせただけで、幸せだったのだ。
 なぜ満足できないのかと、何度も考えてきた疑問がまた生まれたが、貪欲な欲求が根をしっかりと生やしていることを再認識しただけだった。種は数え切れないほどある。
「あなたは悪くないわ。わたくしがおかしいのよ」
 ゼフェルが大きく首を横に振った。ひどく混乱しているのが見て取れる。
「何言ってんのかわかんねーよ!」
 大好きな人が苦しんでいる。わたくしが苦しめている。
 でも、これで終わる。自分も含めた全ての人を煩わせる糸を断ち切るのだ。
 それでいいのかと、遠くから声がした。それでいいとわたくしは大声で答えた。
 総毛立つような感覚の中で、心からの言葉を彼に向けて繰り返した。

「だから、わたくしがおかしいのです。わたくしはおかしいのですわ」












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