幻かと思った。 視線を感じて振り向くと、その人がいた。今にも意味のある音を生み出そうとするように口を僅かに開いて。その唇の間からは白い歯が覗いている。 混乱しながらも、わたくしは頭を微かに下げた。 注意深く見なければわからないほどの小さな会釈に、それでもその人は気づいてくれた。照れたように、困ったように、微笑んでくれた。 金色の髪が揺れるのを見て、わたくしの涙腺は緩んだ。瞳に涙の膜が張り、それが弾けてしまわぬように努めているうち、彼女の姿は視界から消えた。 「おめーから見たら、オレなんて頼りねーんだろーけど」 銀髪の彼は、そう言ってわたくしの手を握った。 久しぶりのデートは笑ってばかりだった。その楽しかった一日の終わりに、突然そう切り出された。 「悩み事があるんなら聞くから。今じゃなくても、おめーが話したくなった時でいーから」 きっと、ずっと考えてくれていたのだろう。優しい、優しい人。 ゼフェルが眩しくて、まともに顔を見られなかった。ぎこちなく気遣ってくれる彼に、別れの挨拶以外は何も言えなかった。 恋人を愛していることに変わりはない。これからも変わらないと言ってしまいたくなるほど愛している。今すぐ彼にそう伝えたい衝動にかられたのは一瞬で、結局何も言えないままだった。 わたくしは、視線に敏感になっている。 何をしていても、誰かに見られているような気がするのだ。 勘違いであることがほとんどだが、実際に見つめられている時もある。 先日は、思いもよらない人物がわたくしを見ていた。 本人の意思とは関係なくその存在に傷つけられ、わたくしが意図して傷つけた人、女王陛下。 …そして、その数分前にわたくしを見ていたのはランディだった。 あの日を境に、ランディのことを考えるようになった。 明朗活発で心優しく、日々成長するために努力を惜しまない実直な人物。 やや心配性ではあるが、性善説を信じる誠実な青年。 これまでわたくしは彼をこのように評価していたが、わかりやすい表層の部分しか見てこなかったのだろう。正直に言うと、まっすぐさを好ましく思いながら、軽んじてもいた。 あの時、彼のゼフェルに対する思いを聞いて背筋が凍るような思いをした。清潔な言葉だけを生み出すはずだった端正な口元を正視できなかった。 だが、帰宅してシャワーを浴びる頃には、積極的にそれらを胸のうちで反芻していた。 わたくしは考えなかったか? 女王がいなくなってしまえばいいと。 答えはイエスだ。何度繰り返しても変わらない。 彼は言った。わたくしに恋をしていると。 ゼフェルに全てを曝け出そうと考えた時、決別以外の未来は頭になかった。 誰にも知られたくない浅ましい考えを告げたら、ゼフェルだけではなく自分自身も恋を続ける気になれないはずだと思ったから。 『醜い心を持った俺が』 それなのに、ランディは恋する相手であるわたくしに見せてくれた。 『君は、自分以外の人間の心の奥を覗いたことはないんだね』 そう言って自らの闇を切り取って見せてくれたのだ。 もっと聞きたい。 彼が何を考えているのか、これまで何を考えてきたのかが知りたい。 そして、彼に話を聞いてもらいたい。もっと醜い自分を知ってもらいたい。 その上で、あの言葉をもう一度言ってほしいのだ。 『君は、楽になってもいい人間なんだから』と。 ランディは、わたくしを許してくれている。 許されている…そう思うとみぞおちを苛んでいる痛みが和らいだ。 この日、わたくしは久しぶりに深く眠ることができた。彼の自傷行為は、深く優しく…確かにわたくしを癒していた。 早朝は、常春の聖地においてもやや肌寒い。 普段通り、時間を十分に残して紅茶を飲んでいると、執事が声をかけてきた。 「女王陛下より、お手紙が届いております」 恭しく白い封筒を差し出されて、わたくしは瞼の上に手をやった。 おそらく、女王はわたくしを許すのだろう。ランディとは違ったやり方で…より直接的な方法で救いの手を差し伸べてくれるのだろう。 だが、どう応じれば良いのかわからない。 もちろんわたくしは彼女の許しの言葉を胸に押し抱いて感謝するだろう。 でも、それから? そう、それから…心無い言葉で彼女を傷つけたことを、謝罪するだろう。 それで、その後は? …今も胸の奥に沈殿している塊を隠して、何事もなかったかのようにお喋りに興じるのだろう。 ああ、それでは同じことの繰り返しだ。 わたくしには自信がない。 もう二度と女王に嫌な思いをさせないと誓えても、心の中で醜い嫉妬をしないと誓う自信がない。 ランディの思いを知る前に、異常な精神状態の中でゼフェルとの別れを選択しようとした時とは違う。結局まだ何も変わっていない。 時間がほしい。 けれど、与えられた時間をどのように使えばよいのかはわからない。 だが、今一番会いたい人は、別人のような顔を見せたランディで、女王ではない。 「…読み上げて頂戴」 執事の微笑みが、困惑の表情に変わった。 深い皺が何本も刻まれている彼の顔を眺めているうちに、苛々と昂ぶっていた気分が急に萎んだ。同時に、居丈高な物言いをした自分を恥ずかしく思う気持ちが生まれた。 至高の存在である女王の手による手紙を、補佐官が使用人に読み上げさせるなど、とんでもないことだ。無理難題を言われた執事は、今どのように思っているだろう。 補佐官職に就いた時、わたくしは自分に誓った。 わたくしを助けてくれる人たちへの感謝をし続けようと。 幼少の頃から支えになってくれていた、ばあやへの想いと同じものを持ち続けようと。 それなのに、たった半年ほどでそれを破っている。 強い自己嫌悪に襲われて、申し訳ない気持ちで言いなおした。 「…ごめんなさい。自分で読むわ」 わたくしがそう言った途端、部屋の空気が変化した。見回すと、執事だけでなく部屋にいた全ての者が安堵の表情を浮かべていた。彼らが主であるわたくしの顔色を窺っていたのだと気づき、再び恥ずかしさを覚えた。ここ最近の彼らは、ずっとそうしてきたのだろう。今まで気づこうともしなかった自分が情けない。 執事の手の中で、ペーパーナイフが微かな音を立てる。 手渡された手紙の内容は、想像した通りのものだった。お茶会の誘いだ。 女王の配慮だろう、二週間ほど先に設定された日程を確認して、わたくしは頷いた。 「女王陛下に返事を書くから、用意をしてくれるかしら?」 脳裏を恋しい人の姿がよぎったが、その顔は真っ白だった。 時間はやはりあまり残されていない。けれど、女王と対面するその日までに行くべき道を選び取ろう。早く心を決めなければならないことも、変わってはいないのだから。 back next top |