始まりと終わり
10





 女王の間を前にして、わたくしは立ち止まった。緊張や恐れのせいではない。

 その扉は、変わらず威厳に満ち溢れていた。
 初めて見る者のほとんどが今の自分と同じように立ち止まり、思わず見入ってしまうほど重厚で、威圧感すら感じさせる。
 聖なる存在であると同時に全宇宙の統治者である女王と、その人以外の全ての者を隔てるその扉は、過不足なくその役割を果たしていた。
 日常的に開く権利を持っていることの誇らしさと、外から開かねばならない自分の立場への悔しさをもって何度も開いてきた扉だった。

 彼女に対する感情は、常に少しずつ変化している。
 かけがえのない友人。心から尊敬することができる女王。
 愛らしい妹のようでもあり、適わないライバル。
 心を掻き乱されもするが、穏やかにもしてくれる不思議な女性。

 傍に控える女官が怪訝そうに首を傾げた。
「待たせてごめんなさいね。少し感傷的になっていたの」
 見られているとは思わなかったのだろう。彼女は恐縮した様子で頭を下げた。

 扉が開いて、白い光が零れだす。
 高い場所に座す女王は、まっすぐに前を見ていた。愛らしい顔立ちに微笑を浮かべてわたくしを迎え入れる。
「さあ、お茶会を始めましょう」

 一通り挨拶を済ませた後、隣室に設えられた席に案内される。用意されたお茶やお菓子はひと目でそれとわかる最高級品だ。
 当然のはずのその光景に違和感を覚え、すぐにその原因に気付いた。彼女の嗜好がまったく反映されていないのだ。
 例えば、動物の形を模したかわいらしいケーキ。カラフルでポップな形のキャンディ。
 これまでは、必ずひとつ女王の趣味で選ばれたものがあったが、ティーテーブルの上は一分の隙もなく整然としている。
「いつもとは少し雰囲気が違いますわね。もちろん美味しそうなものばかりだけれど」
 女王は申し訳なさそうな顔をした。
「今日は準備を全て任せてしまったの。ごめんね」
 彼女が選ぶかわいいお菓子はやや子どもっぽいと思っていたので、そう言われたわたくしは苦笑したが、品の良いものばかりが並んでいる様子を改めて眺めてみると、少し物足りない気もした。

 ふとカタルヘナの家にいた頃を思い出した。
 わたくしは、美しく調和しているものが好きだった。生家にあるものがそうだったからだろう。
 だが、彼女や彼に出会って、彼女達に惹かれた。自分が思う完全な世界だけが美しいわけではなかったことを知った。わたくしにとってそれは大きな、そして喜ぶべき変化だった。

「ここ最近、お菓子のカタログを見ていなかったの。次はロザリアもビックリするようなすごいのを用意するからね!」
 まだ何も口にしていないにも関わらず、既に次のお茶会について考え始めた女王がおかしくて、思わず笑ってしまった。
「次も楽しみだけれど、まずは今日のお茶会を楽しみましょう」
 そう言うと、女王は笑われた理由を理解して照れ笑いをした。
 本当に、目が離せない人だ。次は何を言うのか、どんな表情を浮かべるのかと考えさせられてしまう。過去にゼフェルが彼女に恋をした理由がよくわかる。
 彼女といると、どれだけ楽しいのかがわかってしまう。

「本当にごめんなさい。あなたにひどいことを言ったわ」
 お茶を一口飲んで、わたくしは切り出した。
 女王は小さく頷いた。その顔に笑みはなかったが、責めようとしているわけではないことが読み取れた。
「ロザリアのことだからそんなことはないと思うけど、形だけ謝られても嬉しくないわ。なぜあんなことを言ったのか、本当のことを教えて。それがあなたにとって辛いことでも」
 一語一句が胸に響く。女王の言う通りだ。
 もちろん、わたくしは心の底から彼女に申し訳ないと思っている。
 取った行動は、思い出したくないほど汚く卑しいものだ。だからこそ、わたくしは彼女に懺悔しなければならない。それが今の自分にできる一番の謝罪なのだ。

「アンジェリーク、わたくしはあなたがとても好きよ。けれど、だから、かもしれないわね。あなたに嫉妬しているの」
「ロザリアが、私に嫉妬?」
「ええ」
 暫しの静寂が訪れた。恥ずべき醜い内面を吐露したにも関わらず、気分は悪くなかった。
「私の何に対して?」
 静かに聞かれて、わたくしは頭の中を整理した。家庭教師と質疑応答をしているような感覚になる。
「小さなものまで挙げていったら日が暮れてしまうほどあるけれど、一言にまとめるなら」
 ここまでは抵抗なく口に出すことができたが、次の言葉が出てこない。続きを待つ女王を見て、息を吸った。
「何もかも適わないから」
 躊躇いを振り切って吐き出すと、鳩尾がキリキリと痛んだ。
「何もかも?」
「ええ、そうよ。女王陛下なのだから、当然と言えば当然だけれど。そして、そう思えるのは良いことに違いないのに」
「ロザリア、本気で言ってるのよね?」
「もちろん」
 女王は本当に驚いているようだった。悟られていなかったことが不思議だった。
「じゃあ、私も言うわね。私もロザリアに嫉妬しているわ」
 今度はわたくしが驚く番だった。
「どうして!?あなたは何もかも持っているじゃない。女王試験も恋もあなたに適わないわたくしのどこに嫉妬をするというの!?」
 大声が出てしまったが、それを恥じる余裕はなかった。
「恋って?」
 静かに聞き返されたが、その言葉に答えることの意味も深く考えられないほどに動揺していた。
「ゼフェルとあなたが恋人だった頃、彼は幸せだったでしょう。そのことを考えると、わたくしは平静でいられなくなるの。過去と今とを比べるのは愚かだとわかっているつもりよ。それでも、どうしてもだめなの」
 言葉がすらすらと出てくる。そういえば、最近はこの話をしてばかりだと気が付いた。
 煮込み過ぎたシチューのようにどろどろとした感情。
 思い詰めてどうにもならなかったはずなのに、何度も外気に触れるうちにそれが軽くなっているように感じる。
 わたくしは幸せなのだと、突然強く思った。
 アンジェリーク、ランディ、そしてゼフェル。皆が自分を気に掛けてくれているから、こうして内心を晒すことができたのだ。
「…私ね、今もゼフェルが好きなの」
「え?」
 女王の発した小さな呟きは、場違いな感情で満たされていた胸に強い衝撃を与えた。頭が真っ白になったが、続けられた言葉ですぐに引き戻された。
「女王になる道を選んだからといって、ゼフェルへの気持ちがなくなったわけじゃないわ」
 彼女の表情は淡々としたものだったが、声は震えていた。

 わたくしが必死で本心を隠していたように、彼女もそうしていたのだろう。本気で隠し切ろうとすれば、その人の内心は全く気づかれないものなのだと納得した。
「私がゼフェルに対して個人的に何かを望む権利がないことはわかってる。ただ、彼が幸せになってくれればそれでいい。こうして話している今もそう思っているわ。本当よ」
「「でも」」
 女王の言葉に被せて言う。
「でも、どうしても胸は痛む…アンジェリーク、ごめんなさい」
 再度の謝罪の意味は、一度目とは全く違ったものになった。
「女王になったら、時間が経ったら恋心は薄れてくれるはずと言い聞かせて選んだ道だけど、あの人への気持ちは消えなかった。とても苦しかったけど、彼も同じように耐えてくれているのだからと自分を慰めてきたわ。だけど、あの人はあなたを好きになった」
 堰を切ったように話し始めたアンジェリークの顔が苦しげに歪んだ。口を動かし続ける彼女の瞳は、痛々しいほど真っ直ぐにわたくしを見つめていた。
「あなたの話をする時、とても嬉しそうな顔をするの。ああ、幸せなんだなって、本当に良かったなって思いたいの。でも思えないの。私を忘れて幸せそうに笑ってる彼が憎くて、彼のサクリアが消えてしまえばいいのにって考えてしまうの!」
 アンジェリークの振り絞るような声に打たれて、視界がぼやけ始める。
 わたくしと同じ感情を抱いていた彼女は、わたくしと同じように感情を隠していた。
 誰の目にも、おそらく自分の目にも触れないように胸の奥深くに閉じ込めていたそれを、無理やり引きずり出してしまった。
 その感情は意識に上るたび、彼女を責め苛んでいただろう。女王としての責任感や自負が、より強くそうさせていただろう。
「ごめんなさい…ごめんなさい」
 口をついて出る言葉が虚しい響きとなって耳に届く。涙が溢れて頬を濡らす。顔を手で覆うと、瞼が熱かった。
「ロザリア」
 どれくらいの時間が経過しただろうか。呼びかけられて顔を上げると、彼女は微笑んでいた。
「不思議ね。少しだけ心が軽くなったみたい。ロザリアもそうなら嬉しいんだけど」
 










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