彼をモノのように扱われたような気分になったのは、『ないものねだり』という言葉が持つ音のためだ。

 『もの』と『モノ』
 言いがかりもいいところだ。
 彼女に悪意がないことはわかっている。彼女がわたくしの幸せを願ってくれているのも知っている。
 彼がわたくしを大切に思ってくれていることも、彼女とのことが過去の思い出になっていることも……全て、理解していた。それなのに、押さえきれなかった。
『誰も悪くない』
 幾度も自分に言い聞かせてきた言葉は、堰を切ったように流れ込んできた感情に飲み込まれた。

 そう、誰も悪くなかった。
 だからこそだ。
 この時のわたくしはわからなかったが、結局のところ、揚げ足をとってでも、誰かを悪者にしたかったのだろう。

「だいたい、あなたは物事を簡単に考えすぎなのよ」
 女王の、綺麗な緑色の瞳を見る。
「ロザリア?どうしたの?」
 わたくしの声音の険しさだけに驚いている女王が痛々しく思えたが、止められなかった。
「女王試験の最中にお付き合いを始めて……」
 そう切り出しても、彼女は笑顔のままだった。彼女の動揺が、手に取るようにわかる。笑顔を作り続けているわけではなく、ただ崩し損ねたのだろう。
「たった数ヶ月で、お別れになりましたわよね?」
 そこまで言うと、彼女はようやく笑顔を消した。
「…どうして、そんなことを言うの?」
 どうして?まったく、どうしてだろう。その答えは、自分が知りたいくらいだ。
 黙っていると、女王は新しい表情を顔に浮かべた。どちらかと言うと悲しそうなのだが、わたくしへの敵意はまったくないように見える。それがどのような気持ちから生まれたものなのかは、わからなかった。
「…彼と、なにかあったの?」
 そう聞かれて、彼女が心配していることがわかった。わたくしは、思わず笑ってしまった。笑いを止めようとも思わなかった。
 ゼフェルと名前で呼ばず、三人称を使ったのは、彼女なりの気遣いだろう。それもなぜだかやたらにおかしかった。
「何も問題はないから、そのことについては安心して頂戴。問題があるとしたら、わたくし自身ね」
「ロザリア自身?」
 女王は、わたくしが持つ悪意を感じ取っている様子だったが、それにも関わらず、彼女の声からは労わりが感じられた。どこまでいっても、彼女は優しい。
 さすがは女王陛下だと、素直に賞賛する思いが生まれたが、同時に、女王候補であった自分を思い出してしまった。
 気づかれないように唇を噛んだが、すぐに唇を舌で湿らせた。先ほど質問されたことの答えがわかったのだ。
 ”どうして、そんなことを言うの?”
 その答えを、教えてやらなくてはならない。
「ああ、そのことはどうでもいいのよ。先ほどのご質問に答えるわね。どうしてこのようなお話をしているか、というご質問でしたわよね?」
 わたくしは、淀みなく続ける。
「あなたを見ていると、苛々するからよ」
 瞬間、彼女はわたくしを凝視した。その瞳からは何も読み取れなかった。女王の心には、果たして何が生まれたのだろうと思った。
「では、わたくしの方からも質問をさせていただくわね。あなたと彼のあの短いお付き合いは、いったいなんだったの?」
 肩を震わせて俯いた後に顔を上げた女王は、わたくしが初めて見る表情を浮かべていた。
 自分を傷つけるもの。外敵から身を守ろうとするように、わたくしを睨んでいた。
「…女王になろうと思ったからよ」
 その声はか細かった。一息で吹き飛ばしてしまえる、小さな抵抗だ。
「それなら、お付き合いを決めるのを、もう少し待てば良かったのよ。だから」
わたくしが話している間に、彼女は身構えるように体を後ろにひいた。しかし、それは遅過ぎた。
「あなたは考えなしだと、言っているのよ」
 女王は、突然大きな音がした時のように目を固く閉じた。


 もちろん、わたくしは大声など出してはいなかった。静かに話しているだけだ。淡々と、しかしはっきりとした発音で。
「…ひどいわ」
 一度目は小さな声で。次に、やや大きな声で彼女は同じ言葉を繰り返した。
「ひどいわ。確かに、あなたから見るとそうなのかもしれない。でもね、先のことなんて誰にもわからないじゃない。ロザリアは、常に最良の選択をしているっていうの?」
 わたくしを見る彼女の瞳からは鋭さが消えていた。その代わりに、深い悲しみが宿っていた。彼女の左右の眉の間に、そして眉と瞳の間にも、小さな皺がよっている。
 見上げた彼女は、わたくしに縋っているように見える。彼女を悲しませている張本人にだ。
 可哀想で、みっともない。
「わたくしだって間違った道を選ぶことはあるわ。でもね、あなたは軽率過ぎるのよ。先のことはわからないからこそ、よく考える必要があるのではなくて?簡単にお付き合いを始めて、簡単に別れて……”お相手”の方がおかわいそうですわ」
 言い終えてしばらく待ってみたが、返事はなかった。
 黙り込んでしまった女王を前にして、わたくしの気分は良くなった。今にも泣き出しそうなのを懸命に堪えている女王の瞳は、もうわたくしを見てはおらず、そのことが尚更わたくしを喜ばせた。これまで、胸に立ち込めていた霧が消えたようだった。
 一言で言うと、『すっきりした』のだ。
 高揚した気分のまま、別れの挨拶をするために立ち上がった。自分の衣擦れの音が、耳に心地よく響いた。





 気がつくと、目の前で通信機器のランプが光っていた。
 どうやら、机の上に頭をもたせかけて眠っていたらしい。わたくしは、まずそのことに驚いた。仮眠をとる場合でも、必ず化粧を落として、ベッドで眠る習慣が身についているのだ。
 次に、机の上に頭を乗せるのが得意な女王を思い出して、わたくしは笑った。
 そうしているうちにランプは消えたが、すぐにまた点滅を始めた。わたくしは、慌てて手を伸ばした。
 短い挨拶を交わした後、彼は少し黙ってから、心配そうに言った。
『なんか、声が変だぜ?』
 寝ていたからだ、とも言えず、わたくしは「そうかしら?」とだけ答えた。
『風邪でもひいたんじゃねーの?』
「いえ、体調は良好よ。それより、今日はどんな一日でしたの?」
 眠気を振り払ってはきはきと答えると、ようやく安心してくれたのか、彼は嬉しそうに話を始めた。発つ前はいやがっていたが、彼はこの短い出張を楽しんでいるのだ。それが少し悔しいけど、微笑ましくも思える。
『そーいや、おめーは今日はどこにもいかねーで部屋にいたのか?』
 聞かれて、わたくしは言葉に詰まった。眠る前までの出来事を、すぐには思いだせなかったからだ。
『おい、聞こえてるか?』
 通信機器の調子が悪いのかと訝っている様子の彼に、慌てて返す。
「少し待って下さらない?」
 …わたくしは、何をしていたのかしら?
 先ほどまで寝ていたせいもあるだろうが、頭の回転が遅過ぎる。
『客でも来たんだったら、またかけ直すぜ?』
「いえ、そうではないのだけれど…あっ」
 ようやく思い出すことができた。今日は女王と二人でお茶をしたのだ。けれど、これは彼には内緒にしているはずだから、適当に誤魔化さなくてはならない。
「そうですわね。一日中読書をしていましたわ」
 くだらない嘘をついている自分に呆れながら、瞼を閉じた。女王の顔が浮かぶ。その瞬間、胸がざわついた。浮かんだ女王の表情が、時系列に沿って変化していく。
「ああ…」
 今度こそ、全て思い出した。
「今日、わたくしは」
 女王の瞳。悲しそうな、縋るような、緑色の瞳。
『おい、どーしたんだ?』
 彼の声が耳に届くが、何も答えられなかった。
 何度もわたくしの名を呼ぶその声が怖くなって、通信を切った。
 











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