鋼の守護聖宛の指示書を携えて入室したわたくしを、彼はじっと見つめた。
「おめー、疲れてねーか?」
 開口一番そう言われて、わたくしは返事に困った。
 心配してくれるのは嬉しかったが、とにかく忙しかったのだ。
「少し仕事が立て込んでいるせいかしら。でも、もう少しでひと段落しますわ」
 眉を少し吊り上げた彼は、腕を頭の後ろで組んだ。
「忙しいのはわかるけどよ、ちょっとぐらい息抜きしてってもいいんじゃねーの?」
「わたくしもそうしたいけれど…この後、クラヴィスに書類を届けてからジュリアスに報告に行かなければならないの。それからランディに…」
「あー!わかったわかった。引き止めて悪かったな。さっさと用事済ましてけよ」
 放り出すように言われて、腹が立った。
 話を途中で遮られるのは嫌いだ。それに、ものには言い方というものがある。
「…ゼフェルは本当に気まぐれですのね。心配してくれたかと思えば、突き放すように仰る。真面目につきあっていたら本当に疲れてしまいますわ」
 怒りを隠さずに、書類を近くにあった棚の上に乱暴に置く。
「視察、お気をつけて」
 それだけ言って、部屋を出た。指示書の内容は、一週間の出張を命じるものだ。
 遠い小さな惑星から、鋼のサクリアが突然減少し始めたため、急遽決まったことだった。
 数歩も歩かないうちに、扉が開く音がした。
「おい、これ明日から一週間も行かなきゃなんねーのかよ」
 追いかけてきた声を無視した。大人げないが、腹の虫が治まらない。
「待てって!」
 すぐ後ろで大声がした。振り向くより先に、ゼフェルがわたくしの目の前に立っていた。
「さっきはオレが悪かった。だから、機嫌直せって。…仕事なんだから、しゃーねーのにな」
「仕事…?」
「いや、だから、なんつーか……あー!理由は聞くな!」
 そうは言われても、彼が怒った理由が当然気になる。
 また同じ状況になるのを防ぐためにも、原因を知らなければならないだろう。
 嫌がられるのを承知で、理由を聞くために口を開いたが、すぐに続けられたゼフェルの言葉がわたくしの行動を変えた。
「今日はおめーに会いに行く。おめーの帰りがどんだけ遅くてもだ。一週間も会えねーんだから、いーだろ?」
 とても嬉しかったから、何も言えずに頷いてしまった。







「ったく、退屈だよな、聖地って」
 夜空を見上げて、彼は言った。女王候補であった時、彼が何度となく守護聖を辞めたいと言っていたことを思い出した。
「どのような意味で退屈ですの?守護聖という身分で聖地にいることが、退屈ということかしら」
 ゼフェルは、誰もいないベンチに視線を移して、それからわたくしを見た。
「そーじゃなくてよ、単純に遊ぶとこがねーって話だ。夜になっちまったら本当になんにもねー。オレらはまだ酒も飲めねーってことになってるし」
「遊ぶところ…ですか」
 実感が湧かなくて、鸚鵡返しをしたわたくしを、ゼフェルは笑った。
「ま、おめーにはわかんねーか。おめーが好きそーな美術館とかコンサートホールとかはここにだってあるしな」
 世間知らずだとバカにされているように聞こえて、わたくしはムッとした。
「では、明日からの視察が楽しみでしかたがないのではなくて?息抜きができて、よかったですわね」
 なにより、並んで歩く夜の公園は、わたくしにとって退屈ではなかったから…皮肉めいた物言いになる。歩く速度も自然と早くなった。
「何怒ってんだよ」
 わたくしの早足のせいで開いてしまった距離を、彼が小走りで縮める。わたくし達は再び並んだ。
「また喧嘩しちまったら、意味ねーじゃん」
 独り言のような呟きに、足を止めた。
「意味がない?」
「…今日、執務室で喧嘩になっただろ?でも、明日から会えなくなんのに喧嘩したままってのが、嫌だったんだよ」
 ゼフェルは足を止めず、大股でどんどん歩いていく。さすがに、わたくしも勘違いはしない。彼は照れているのだ。わだかまりはみるみるうちに溶けていった。
 今度は、わたくしが距離を詰めるために走る。
「わたくしだって、喧嘩したままは嫌ですわ」
 三度横に並ぶと、彼は歩く速度を落とした。
 そっとわたくしの手を握った。





 わたくしの手を包み込んでしまえる大きな手。男性の手だ。
 高揚感で胸がいっぱいになる。
 体の面積のうち、10パーセントにも満たないはずの箇所が触れ合っているだけなのに、体中が熱い。
 頭が上手く働かない。頭も胸もおかしくなってしまいそうだ。
 ゼフェルの横顔を盗み見ると、彼はわたくしを見ていなかった。
 首を不自然に曲げている彼の横顔は、仏頂面をしていたけれど、頬が赤く染まっていた。わたくしはすぐに視線を外して俯いた。彼のその様子に、どうしようもなく恥ずかしくなり、嬉しくもなったからだった。

 彼の手の感触に、全神経を集中させる。
 何も考えられなくなっていたはずだった。
 ほとんどの細胞が喜びに満たされている中にある、一点の染み。
 いつの間にか付いていたそれは、徐々にその面積を広げていく。
 わたくしと同じように緊張している彼の表情とは裏腹に、彼の手は”手を繋ぎ慣れている人”のそれだった。
 手が繋がれた時は気づかなかったのに、頭の片隅にあるスクリーンは、その瞬間を再生し始める。
 組み合わされる指と指。
 わたくしの親指とゼフェルの親指、人差し指、中指、薬指、小指…10本もの指が、ほぼ同時に交差されていく。
 複雑な動きを、彼の手はごく自然にこなした。

 再生回数が重ねられる毎に、喜びと苦しさの割合が変化していく。
 彼女の名前を口に出されてはいないのに、連呼されているように思える。
『彼も、彼女も、何も悪くないのに』
 そう思えば思うほど、やりきれなくなった。
 喜びはどんどん小さくなり、消えた。後には、焼け付くような痛みが残った。
 そんな心の動きが、わたくし自身を悲しくさせ、その先にある自己嫌悪を呼んだ。




「オレがいない間、少しは休めよ」
 顔を背けたまま言ったゼフェルの声は、優しかった。
 わたくしはやはり、彼がとても好きだと思った。
 そしてすぐに、”やはり”というのはおかしいと思い直した。
 何ら罪を犯してはいない彼への想いは、一定であるべきなのだから。
「オレは、おめーが好きだからな」
 心が見透かされたのかと、わたくしは本当に驚いた。思わず立ち止まって、彼の顔を凝視する。
「おめーの体のことも心配だし、そんでそれとは関係ねーんだけど、この一週間だけでいーから、仕事以外の時には…できたら他のヤツらとはあんまり会わねーでいてくれるといーなって思う」
 動揺していたせいで、彼が言っていることの意味がよくわからなかった。彼を見つめ続けていると、彼の表情が拗ねている子どものようなものに変わった。
「呆れてんのか?…そりゃ、呆れられてもしょうがねーかもしんねーけどよ」
 ようやく頭が働きだして、彼が他の守護聖たちに嫉妬していることがわかった。
「いえ、呆れてなどおりませんわ。少し驚いただけですわ」
「…オレらしくねーってことか?」
 そうではなかったが、そういうことにしておく方が良いと思ったから、わたくしは頷いた。
「ええ、そうですわね。ゼフェルは、わたくしのことがお好きなのですね」
 ”わたくし”とは言ったが、なんとなく他人事のように思えた。ただ単に、そう感じたから口に出しただけだ。
「そんな風に言われると、なんか恥ずかしーだろ」
 ぶっきらぼうに言う彼に、わたくしは微笑んで見せた。そうしないと、彼に悪いような気がしたのだ。
「おめーって、よくわかんねーヤツだよな」
 わたくしが笑ったことで、彼はホッとしたようだった。そんな彼がかわいらしく思えて、わたくしの笑顔も本物になった。
「あなたがいない一週間、プライベートは一人でゆっくり過ごすとお約束しますわ」
 そう言うと、ゼフェルは頭を苛立たしげに何度か振った。
「なんか、みっともねーよな。自分でもわかってるんだけどよ…心配しちまうんだよな。おめーのこと信じてねーとか、そーゆーんじゃねーんだぜ」
 みっともないなどとは思わない。恋をしている者が持つ、自然な感情だと思う。そして、それを向けられた相手…つまりわたくしがそれを嬉しく思うのだから、何の問題もない。
 けれど、わたくしが抱えているものはそうではない。感情の名前は同じ”嫉妬”だが、大きく違う。口に出すことなど考えられないくらい、不当なものだ。こんなものをぶつけられたら、彼は…いや、彼でなくても、さぞ困惑するだろう。

 繰り返す。
 彼でさえなければ、彼女でさえなければ。







 




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