女王は、机の上に頭を乗せて、苦しげに呟いた。 「……私にはできないわ」 その体勢のまま、小さく頭を振る。 ひたいが擦れて痛まないだろうかと心配になったが、わたくしは無言を通す。 「無理よ!もう耐えられない!」 机の叩かれる大きな音が、女王執務室に響いた。 未決済の書類の山が、崩れ落ちた。 わたくしは、わざとらしくため息をついた。 「なんと仰ろうとも無駄ですわ。わたくしは、ここで見張っておりますからね」 「ロザリア〜…」 縋るような女王の瞳を正面から見据えて、息を吸い込んだ。 「ダメです!」 何をどう言われようと、今週分の仕事は今週中にやってもらわなくてはならない。 「まだ何も言ってないじゃない……」 恨めしそうな女王に向かって、作り笑いを見せる。 「泣き言以外でしたら、聞きましてよ」 ここで甘い顔をすると、大変なことになる。これまでの少ない経験からも、その確率が100%であることがわかっている。 渋々仕事に取り掛かり始めたのを確認して、窓の外の景色に目を遣った。 空は今日も快晴。明日の日の曜日もそうだろう。 ――――――――――――――――――――――――――― ゼフェルから想いを告げられた日から、一ヶ月と少しが経っていた。 わたくしを見る彼の瞳が、とても優しいものになったことと、約束はしなくても、日の曜日は必ず会うようになっていること。そして、彼を名前だけで呼ぶようになったことを除けば、わたくしたちの付き合いは、以前とそう変わりなかった。 あの日から、日の曜日は五回あったから、デートをしたのも同じ回数。友人として会っていた回数よりはるかに少ないのだから、当たり前だろう。 でも、その少しの変化が、確実にわたくしを幸せな気持ちにしてくれていた。 平日の夜にも遊びに誘われることがあるが、一度も応じたことはない。 女王とわたくしが職務に慣れていないため、毎日夜遅くまで聖殿に残らなければならないからだ。 ただ、最近は少しずつ、女王と補佐官としてのわたくし達の息も合うようになってきた。そう思えるようになったことは、わたくしにとって大きな喜びだった。 だが、その喜びを、一番大切な人に伝えられないことは残念だった。 彼とは、彼女の話をしたくない。それが理由だ。 会話の中で、彼女の話になりそうな流れになった時、わたくしは気づかれないよう、息を殺す。彼女の名前が出ないうちに、時間が過ぎるのを切望する。 だが、願いも虚しく、彼の口から彼女の名前が出ることは多い。 わたくしの公私に深く関わっている、彼女の話を避け続けることは不可能だ。 わたくしは、彼女の名前を耳が拾った瞬間に、心に膜を張ることを覚えた。 完全に武装したわたくしは、彼女の名前を親しみを込めて何度も口にすることができる。 そして、彼自身は気づいていない、彼の少し寂しそうな顔を見る。 彼の元恋人が彼女でさえなければ、わたくしの恋人が彼でなければ、わたくしは喜んで頻繁に彼女の名前を出しただろう。 好きな人に、自分のことを知ってほしい。なんでも話したい。 それなのに、それができないのがもどかしい。 恋人との会話に制限があるのは、不自然だと思う。 だが、その原因は自分の偏狭さにあるのだ。 過去を変えられない以上、わたくしが変わらなくては、どうにもならない。そして、わたくしはまだ変われそうにない。 しこりは、今も消えてはいない。 だが、大きくなってもいない。 喜びと辛さは、どちらも等しくある。途方もない大きさのそれらは、相殺されている。 愛情と友情を数値化したとしたら、これも同じ数字を表示するに違いなかった。 彼女と二人で話をするのは、とても楽しかった。 わたくしは、変わらず彼女が好きだった。 ――――――――――――――――――――――――――― 女王が書類を片付け終わったのは、三時間も後になってからだった。 十分なスペースがあるはずだった執務机の上は、散乱した書類で真っ白になっている。 それらをまとめて、端を揃えるため机の上でトントンと音を鳴らす。 この音は、わたくしの好きな音のひとつだ。 「今週の分はこれで全部ですわね。お疲れ様でした」 作り笑いではない笑顔で言うと、こりもせずに机の上に頭を乗せてぐったりしていた女王は、わたくしの顔をまじまじと見つめた。 「最近、何かいいことあったでしょ?」 「ああ、そうですわね。最近は、補佐官職にも慣れてまいりましたし、やりがいが出てきましたから」 「ちがーう!」 体を起こした女王は、駄々をこねるように首を横に二度振った。 「私の目は誤魔化せないわよ!メイクも変わったし、時々物思いにふけってるの知ってるんだから!そう!好きな人ができた!」 ゼフェルと付き合い始めたことは、まだ誰にも言っていなかった。 しかし、隠し通すつもりもなかった。どのみち自然に知れることだ。 けれど、彼女にだけは、自分の口から伝えようと決めていた。 …決めてはいるのだが、やはり言いにくくて、今日まで来てしまっていた。 女王は、ゆっくりと立ち上がった。 「ロ〜ザ〜リ〜ア〜」 わたくしの名を呼びながら、ホラー映画のお化けのようなぎこちない動きで近づいてくる。 「ちょっと…陛下!」 「言〜い〜な〜さ〜い〜」 芝居がかった低い声を発しながら、長いドレスを引きずって歩く姿はユーモラスだったが、少し不気味にも思える。 「わかりましたから!申し上げますから!」 そう言ったのに、女王は演技を止めてくれなかった。 「ほ〜ん〜と〜ね〜?」 言うや否や、手を前に突き出して、突進してきた。 本物のお化けではないことは百も承知なのに、わたくしは手を顔の前で交差させて、悲鳴を上げた。 「いやーっ!」 女王は、ピタリと動きを止めて笑い出した。 「ロザリアったら、かわいいんだから〜!」 ホッとすると同時に腹が立った。胸を押さえた手のひらに、早くなった鼓動が伝わってきている。 「陛下っ!子どもみたいなことをなさらないで下さいっ!」 声を張り上げると、女王は頬を膨らませた。 「私に隠し事してるロザリアが悪いのよ?」 腰に手をあてて言う女王を、それ以上責められなくなった。 …今言わなければ、嘘をつくことになる。 覚悟を決めて、わたくしは表情を改めた。 「実は、お付き合いしている方がいるの」 こういう話をする時は、女王と補佐官ではなく、友人同士としての口調の方を好むだろうと思って、そうした。 「えーー!?ちょっと〜!もう、そんな重大なことを私が聞くまで言ってくれなかったなんて〜!」 早口でそこまで言って、彼女は舌をぺロリと出した。 「あ…順番間違えちゃった。まずは”おめでとう”よね。ロザリア、おめでとう!」 「もちろん、執務には差し障りのないように努めますから」 「そんなの、わかってるって!で、相手は誰なの?私の知らない人じゃないよね?」 好奇心をあらわにしながら無邪気に言う女王に、頷いて見せた。 「だ…誰ー!?」 わたくしは、もう一度深呼吸をした。一旦落ち着いたはずの鼓動は、先ほどよりも速度を上げている。 「それが…ゼフェルなの」 意を決して言うと、女王は少し前のめりになった。 もともと大きな目が、じわじわとその面積を広げていく。 「ゼフェルって…本当に?あのゼフェルー!?鋼の守護聖の!?」 「他に誰がいると言うのよ」 「だって…本当に!?」 「本当ですわよ。信じないなら、それでも構いませんけれど」 答えるわたくしの声は、普段と変わらないものだった。 休憩をせがむ女王に「まだ休憩は差し上げませんわよ」と言う時と、違いはほとんどない。 どうやら、彼女が驚けば驚くほど、冷静になることができるようだった。 「なんだか…ビックリしちゃって…」 目を丸くしたまま続ける。 「とにかく、ビックリしちゃった…」 そう言って、ガックリと項垂れた。次に、お腹から息を全部吐き出そうとするような長いため息をついて、その次には天を仰いだ。金色の髪が散らばった。 彼女がティアラもヴェールもつけていなくて良かった、とわたくしは思った。 「…それにしても…私が知らないとこでそんなことに!…いつのまにー!?」 悔しそうな顔で、勢い良く叫んだ女王がおかしくて、つい吹き出してしまった。 「ちょっと!何笑ってるのよー!」 「ごめんなさい…でも、忙しそうに百面相しているのが、おかしくって…」 笑いを止められないままそう言うと、女王は少しの間だけ黙った。それから、少し眉尻を下げて、困ったように笑った。 「…今まで言ってくれなかった理由がわかったわ。文句言っちゃってごめんね」 女王……恋人の、元恋人である彼女の口からそう聞いても、わたくしの胸は痛まなかった。それが不思議だった。 「そう言ってくれると助かるわ。なんとなく、やっぱり言いにくかったの」 すらすらと口から言葉が出る。 わたくしは、笑顔を浮かべている。 自分でも気づかないうちに無理をしているのかと疑ったが、そうではないようだった。 「彼氏ができたからって、冷たくなったら怒るからね!でも、おめでとう!」 言いながら、大きく拍手をする。 ありがとう、と言おうとすると、女王は「あっ!」と小さな声を出して拍手を止めた。 「ねえねえ、今思いついたんだけどね、二人が恋人同士になったってことで、お披露目パーティーしちゃわない?」 やけに浮かれた様子の女王が出した、そのとんでもないアイデアを、わたくしは苦笑と共に却下した。 「気持ちは嬉しいけれど、それは困るわ。彼の神経は、わたくし達ほど太くないでしょうから」 女王は意味を図りかねたようで、首を小さく傾げた。 「ですから、以前の恋人にそんなパーティーを開かれたら、きっと複雑な気持ちになると思うのよ。ゼフェルとあなたは違うのだから」 ようやく理解してくれたらしく、二度頷いてから、わたくしを睨むフリをした。 「一応私だって、少しは複雑な気分なんだからー!本当に、少しだけど」 わたくしも、睨むフリをしながら返す。 「あら、気が合うわね。わたくしも複雑な気分よ。ほんの少しだけれど」 「男の人の好みも合う、なーんて」 わたくし達は、同時に笑った。 ――――――――――――――――――――――――――― この時、わたくし達はこのやりとりを楽しんでいたはずだ。 少なくとも、わたくしは楽しんでいた。 彼と話している時は、彼女のことに触れるのをあれほど恐れていたのに、彼女の前では、彼の名前を出しても平気だったのだ。 おかしな言い方になるが、女王と二人でゼフェルの話をする時は、『共犯者』のような気分にさえなっていた。 どこか愉快でもあったから、わたくしの笑顔は、まったく自然なものだった。 |