始まりと終わり







 湖面に映し出された月と、少し湿った空気。
 木の根元に座り込んでいた彼は、風景に溶けてしまうかのように見えた。

 わたくしの足音に気づいて顔を上げたその人の表情は、周囲の木々と同じく暗い翳りを帯びていた。
 上げた顔はすぐに伏せられてしまったけれど、拒絶の意思は感じられなかった。
 小さく声をかけると、彼はくぐもった声を出した。
「今は、ほっといてくれ」
 それが本心からの言葉であることがわかって、わたくしは悲しくなった。
 それでも、弱々しいその声はわたくしの歩みを止めるほどの鋭さと力を持ってはいなかった。わたくしは、彼の横に腰掛けた。

 傷ついた彼を見るのは、とても辛かった。
 この時のわたくしは、恋愛感情の他に……確かに彼に友情めいたものを持っていたから、力になれない自分を情けなくも思った。

 そのうち、彼は俯くのをやめて顔を上げた。わたくしを見ずに、月を睨みつける。
 彼の鋭い瞳を見つめながら、わたくしは彼に泣いてほしいと思った。涙を見せてほしいと、強く願ってしまった。
 わたくしの願いは通じて、彼は涙を一滴落とした。

 思いを告げたわけでもなく、抱きしめたわけでもなかった。
 ただ、涙を拭った彼の右手をとっただけだった。
 でも、それが始まりだった。



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 わたくしは、ゼフェル様が好きだった。
 でも、彼を惹きつけ続けていた彼女も、彼と同じくらい好きだった。
 そして、二人はとても似合いの恋人同士だった。

 諦めの中にある恋は何も実らせない代わりに、わたくしを揺るがせることもなかった。
 何も求めないことが前提の報われない情熱は、不毛でありながらも嫌悪すべきものではなかった。
 自己完結の世界は美しく、わたくしは自分に酔ってすらいた。

 けれど、一人になった彼を前にしたわたくしは、抗えなかった。
 わたくし自身の意思はもちろんあったけれど、それは種に過ぎなかった。
 上手く折り合いをつけていたわたくしを変えてしまったのは、他ならぬ彼女。
 わたくし達の恋でさえ……わたくし自身のごく個人的な思いさえ、彼女が終わらせ、始めさせた。それは、彼女だけが成しえることだった。


 少しでも彼の慰めとなるよう願いながら、わたくしはいろんな話をした。
 その名を口にしないように注意しながら、くだらないことを話し続けた。
 ”彼の恋人だった女性”になってしまったわたくしの親友の名。
 彼女の名前を呟くと、胸に痛みが走るようになったのは、この日からだった。
 アンジェリーク。”天使”と同じ意味を持つ音。




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 三ヶ月ほどが経ったある日、彼はわたくしを飛空都市の仮住まいに招待してくれた。
「聖地の鋼の守護聖の館よりは小さいけど、オレは気に入ってるんだぜ」
 外へと通じる扉からもっとも近い部屋を通り抜けて、ささやかな庭に案内された。
「素敵なお庭ですわね」
 部屋に対する言及は避けて、その庭の美しさをわたくしが誉めると、ゼフェル様は少し嫌な顔をした。
「庭師が週に一度、手入れしにくるからな。どーせオレの部屋は汚ねーよ」
「やっぱり、あのお部屋がゼフェル様の私室でしたのね」
「いーじゃねーかよ。ちょっと食いモンとってくるからここで待っとけ」

 テーブルも椅子もない庭で待たされることになったわたくしは、庭に面した彼の部屋を眺めた。服、雑誌、メモ用紙、何に使うのか見当もつかない小さな部品。
 ふと、親友の顔が浮かんだ。
『ゼフェル様のお部屋って、本当に散らかってるの!ロザリアが見たらビックリするわよ』
 彼の姿が見える前に、顔を庭へと戻した。



 わたくし達は、窓の桟の上に並んで座った。
 そんな状態でものを食べる気にはなれなかったけれど、ゼフェル様自身には必要のないお菓子を用意してくれていたから、好意を無駄にしないためにそれらを口に運んだ。
「今日はよ、礼を言おうと思って呼んだんだ」
「お礼、ですか?」
「オレ、おめーがいてくれてよかったと思ってんだぜ」
 驚いて彼の顔を見ると、気まずそうな表情で庭に視線を移した。
 聞いた言葉を何度も胸の中で繰り返していると、彼は続けた。
「あん時も、ほっといてくれって言ったのにいてくれただろ?なんか、ちょっと助かった」
 ぎこちなくわたくしに向き直る。少し赤い顔。
「ありがとな。おめーって、見かけによらず優しいよな」
「…そうでもありませんわ」

 あなたが好きだから、あなたの前でだけ優しいフリをしているのですから。





 彼は頻繁にわたくしの部屋の扉を叩くようになった。以前アンジェリークにそうしていたように。
「おう、今日暇か?」
 第一声を発する時の彼は、必ず不機嫌そうな顔をしている。
 けれど、二人で歩き始める頃には、彼は笑顔になっている。口数もずっと増えた。
 自分の好きなもの、嫌いなもの。最近あった出来事。時には遠い過去の思い出話まで、彼はわたくしに話してくれる。
 わたくしの好きなものや嫌いなもの。それに限らず色々なことを質問するようにもなった。
 飛空都市に来る前のことも。
「ゼフェル様は、お話がお好きでしたのね」
 からかうようにそう言うと、ゼフェル様は口を閉ざした。頭を軽く振る。
「そんなことねーはずなんだけどな。相手によるのかもしんねーな」
 小さな声を聞いたわたくしは、心が階段を駆け上がっていくのを感じた。




 アンジェリークが女王になることが決定した夜、ゼフェル様はわたくしを公園に連れ出した。
「おめーさ、どーすんの?」
 シンプルな質問に、わたくしは答えられなかった。
 まだ迷っていたのだ。
 女王陛下やディア様。守護聖様方。輝かしい人々を見てしまったわたくしは、仮に主星に戻ったとしても、全てが色褪せて見えるだろうと確信していた。
 もちろん両親や友人達のことは好きだった。その思いこそがわたくしを迷わせていた。
 だが、女王になれなかった自分を暖かく迎え入れてくれるかはわからなかった。
 ”いずれ女王になる者”として、全ての人から敬意を持って扱われていた。そうでなくなった自分を見せるのはいやだった。

「オレはさ、おめーに残って欲しいって思ってる」
『私は、ロザリアに補佐官になってもらいたいの』

 ここには今の自分を必要としてくれる人たちがいる。
 そう思うと、わたくしの心は定まった。






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 補佐官としての日々が始まった。

 女王の交代や、それに付随する数多くの式典が終わった三日後、彼は手紙をくれた。
 森の湖に来てほしい、という内容を読んで、胸がどうしようもなく高鳴った。
 駆け出そうとする足を押さえながら、わたくしは湖へと向かった。緊張と期待の中で目にした彼は、片手を軽く上げた。
 近づいたわたくしに短く挨拶をして、質問をする。
「いきなりだけどよ、前におめーが、オレは話が好きだって言ったの覚えてるか?」
「……覚えておりますわ」
 忘れるはずがなかった。特別な言葉を聞いたのだから。
「今だから言うけどよ、アンジェリークにも言われたことがあったんだよ」
 甘い発熱を訴えていた胸が、急速に冷えた。
 ”アンジェリーク”
 彼女が女王になった今、もう二度と彼の口からは聞かずに済むと思っていた名。
「それ思い出して気づいたんだ。おめーに惚れてるってよ」
 わたくしの心の中で、嵐がおこる。もちろん、ゼフェル様は気づかない。
「こないだまでアンジェリークとつきあってたくせにって思ってるだろ?」
 ちがう。
「そう思うだろーなって、オレも思う」
 ちがう。
「…でもよ、今言わなきゃ言えない気がしてよ」
「それは……あの子が女王になったからですか?」
「あー、まあ、きっかけにはなったかもな。一区切りってやつで」
 わたくしが欲しいのは、そんな言葉ではなかった。
「できたら…」
 彼らしくもなく、赤い顔で口ごもりながら頭をくしゃくしゃとかきまわす。
「おめーがオレみてーなヤツ、好きになってくれるわけねーって思ったんだけどよ…。でも、どーしても言いたくなったんだ」
 身じろいだ彼の足元で、土が音を鳴らす。
「オレと、つきあってほしい」
 私の瞳を見て、彼は祈るようにそう言った。
 わたくしは、頷く他なかった。
 感激したようにわたくしを抱きしめた彼が何事かを言ったけれど、その声はわたくしには聞こえなかった。

 ただ、彼の作った表情だけは、今も目に焼きついている。
 彼は赤い瞳を見開いて、そして細めた。喜びを顔中に広げて、笑った。

 この時の笑顔を思い出す度に、わたくしの胸は痛くなる。

 生涯忘れることはない、もう見ることのできない笑顔。
 大好きな人の、大好きな笑顔。










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