始まりと終わり
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 隠し続けてきた内心を晒し合った後、恋を終わらせてしまったことを伝えると、アンジェリークは涙を浮かべた状態のままで声を張り上げた。
「もちろんどうにかするのよね!?ああ、こんなところでお茶を飲んでいる場合じゃないでしょ!今からでも行って!」
 ティーテーブルが白い拳で強く叩かれる。繊細な器がぶつかり合って高い音を立てた。
「お茶会に誘ってくれたのはアンジェリークじゃないの」
 冗談めかして言うわたくしの声も、また涙を引き摺ったままだ。
「もう!このまま別れちゃうつもりなの!?ほら、早く!」
「このまま別れるつもりじゃなくて、もう別れてしまっているのよ」
 アンジェリークの顔色が変わった。
「ロザリア、あなた自分が何を言っているのかわかっているの?」
「ええ。本当にもういいのよ」
 もういい…自分の中で繰り返してきた言葉がひとりでに零れた。機械的に発したそれが引き金になってしまったようで、彼女は強い眼差しでわたくしを睨みつけた。
「ロザリアのバカ!ゼフェルが好きなんでしょ!?ゼフェルもロザリアが好きなんでしょう!?」
 再び女王は泣き出した。火がついたように、と形容するしかない泣き方だった。
 自分でも愚かであることはわかっているから、ただ黙るしかなかった。
 ゼフェルとの関係を修復する気力は、もうどこにも残っていない。
 自制しようと努めて、それでも嫉妬に飲み込まれた。制御できない化け物のようなその感情に振り回されて、結果自らの手で大切なものを壊した。
 何もかもを出し切って、わたくしは空っぽだった。
「聞いてるの!?」
「…聞いているし、自分の愚かさもよくわかっているわ」
「わかってないわ!あなたは自分で思っているよりずっとバカよ!ちゃんと考えないと許さないから!」
 それが彼女から聞いたこの日最後の言葉で、わたくしはその場から追い出された。



 透明な水。小さな岩にぶつかって生まれた白い小さな飛沫。息づく緑。
 何も考えられないまま聖殿を出て、細く延びる小川を道しるべにしながらかなりの距離を歩いてきた。
 急に体が重く感じられて、足を止めた。空を見上げると、寝不足の目に太陽の光が突き刺さった。ひんやりとした清涼な空気を吸い込んで、再び足を動かす。
「ゼフェル」
 意識して名を呼んだ途端、思い出が次々とフラッシュバックし始めた。
 わたくしを見つめる瞳。手の温もり。好きだと言った唇の動き。
 なぜこんなに好きなのだろう。
 なぜ彼でなくてはならなかったのだろう。どうして彼はわたくしを好きになってくれたのだろう。
 なぜランディではダメなのだろう。
 これからのわたくしを傍で見ていたいと言ってくれた人。
 わたくしのために痛みを承知で胸を開いて見せてくれた、勇気と優しさを兼ね備えた人。
 それでもやっぱり違うのだと、今ははっきりとわかる。

 高いヒールが足に痛みを齎した。目に付いたベンチに腰掛けたが、同じような景色の中でゼフェルと並んで座った記憶が蘇り、座ってなどいられなくなった。
 来た道を引き返すことにしたわたくしは、まだ涙を止められずにいたが、足の痛みと胸の痛みが交互に責めてくれたお陰で再び無心に戻ることができた。




 気持ちに応えることはできないことをランディに告げると、少し寂しそうに、それでも微笑みを見せてくれた。
 そして、その微笑みに似た静かな日々がやってきた。
 胸の痛みは断続的に生まれては消えを繰り返していたが、瘡蓋ができてくれた。
「アンタ達が付き合ってた時も言ったけど、ワタシはアンタ達、お似合いだと思ってたから残念だよ」
 ただ、笑顔の奥に苛立ちを覗かせながらオリヴィエが言った言葉だけが、わたくしをひどく動揺させた。
 そう言えば、そういった言葉をいつか聞いたかもしれない。その時は何も感じなかったはずなのに、心臓を手で掴まれたような感覚に襲われた。
 彼と彼女に対して感じたことを、他の誰かがわたくしと彼に対しても感じてくれていた!
 心臓は休む間を与えられない。手が離れると同時に、種類の違う毒を塗った複数の鋭い爪が引っ掻き始めた。焦燥と痛み、無条件に生まれた喜びに対する不快感。
 人間の意識はどこに宿っていると思うかと聞かれたら、今は迷わず胸だと答えるだろう。

 ゼフェルはその日その日で違った顔をわたくしに見せる。
 瞳に怒りを湛えていたかと思うと、申し訳なさそうに顔を伏せている日もあった。わたくしに接する態度を決めかねているようだった。
 ただ、どの表情の時も何か言葉を探しているような気がしたが、思い上がりだと考えることにした。そうでないと半年が経った今でも、瘡蓋がはがれてしまいそうになる。


「私は本当に呆れてる」
 彼とのことについて怒り続けている女王も、頑ななわたくしの態度に半ば諦めているようだった。
「アンジェリーク、そのお話をするのはそろそろやめにしませんこと?」
 聖地はいつでも晴れているが、毎日が全く同じ空というわけではない。今日の青空は特にきれいだ。
「ねえ、ゼフェルの話をすると苦しい?」
 わたくしは頷いた。
「辛くないと言えば嘘になるわ。でも、最も苦しかった頃よりは遥かに楽になってはいるわよ」
 アンジェリークが彼の名前を口にしても、あの感情は生まれない。凄まじい嫉妬を抑えて時間をやり過ごすこともない。
「彼の話を聞くのは辛いけれど、こうして何も隠さずに思ったままを口にできるのは、 わたくしにとってはとても幸せなことよ」
「ゼフェルにも、そうできないの?」
「終わったからこそ、こうなれたの。もちろん、あなたのお陰でもあるけれど」
 ありがとうと続けると彼女は複雑な表情を浮かべたが、気づかないふりをした。
 大きな窓から吹き込んだ気持ちの良い風が、頬を撫でた。

 失ったものはあまりにも大きく、その喪失感は時にわたくしを絶望させる。
 キラキラと輝く、世界に二つとない宝物。強く焦がれて切望したそれを、一度は手にし、最悪の形で手放してしまったのだから。
 早く時が過ぎてほしいと強く願う。今は痛みしか連れてこない記憶が、少しずつ変色して懐かしいと思えるようになる時がやがて来るはずだ。辛抱強く待てば、いつかそうなってくれるはずなのだ。
 それに、わたくしにはアンジェリークがいる。
 バカだと言って泣いた彼女は、呆れながらもわたくしの手を握り締めてくれている。
 時の神の救いの手を待つしかない、そう繰り返して気がついた。
 今の自分の願いが、ゼフェルの手を離した時の彼女のそれと同じであると。


 このやりとりの少し後、女王が諦めてなどいなかったことを知る。













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