神鳥が翼を大きく広げた姿が刻まれた指示書は、最後まで読めなかった。 その内容によって、強い眩暈を感じたせいだった。 テーブルに手をついて治まるのを待つうちに、眩暈は怒りに取って代わられた。 女王補佐官である自分が、聖地に深い関わりを持つ惑星で行われる戴冠式に出席することに異存はない。 しかし、同行者がゼフェルとなると話は別だった。 女王の私情によってなされた人選であることは明らかで、しかも女王からの指示書が発行された時点で、これはもう決定したことなのだ。 手にしたままだった指示書にもう一度目を通すと、最後に日程もきちんと記されていた。 「あさってですって!?」 思わず出た声は、自分でも驚くほど大きなものになった。 立っていられなくなって椅子に座りこんだ途端、体中から力が抜けた。 それでも、嫌でも考えなくてはならない。明後日の早朝にはゼフェルと共に発たねばならないのだ。 移動時間も合わせると、丸三日はかかる遠い星。 三日間も!? 怒りは消し飛び、恐怖が胸を侵食し始める。あっと言う間に広がりきったそれは、胃を容赦なく攻撃する。 「いや…行きたくありませんわ…行きたくない…」 自分と彼でなければ解決できない事件が起きたのならともかく、言ってしまえば聖地に連なる者なら誰でも良いのだ。 まさか女王がこんな手段を取るなんて思ってもいなかった。 とにかく女王に会わなければ。その一心で執務室に出向いたが、どうやらオリヴィエの訪問を受けているようだった。 指示書を読んでから僅か三十分ほどで何度手帳を開いただろう。今日が土の曜日であることを確認してはため息をつく。今日を逃すと、もう女王に会えないかもしれない。 オリヴィエが退出したらすぐに知らせてもらうよう女官に頼んで退出し、その足でオリヴィエ付きの女官にも同じように頼んだが、とうとうどちらからも連絡はなかった。 どれだけ強く願おうと奇跡は起きない。そんな当たり前のことですら、理不尽に思う。 容赦なくその日はやってきた。 何も考えないようにしながら適当に身支度を終え、執事を呼ぶ。 「一回り小さなスーツケースにされた方がよろしいのではありませんか?」 短期間の出張には似つかわしくない大きさのスーツケースの中には、半ば自暴自棄になりながら詰め込んだ書物が山のように入っている。 気遣わしげな様子の彼に、笑顔を作って見せた。 「ほとんどシャトルの中にいるのだから大丈夫よ。わたくしがこれを持つ時間はそんなに長くないわ」 そう、ほとんどの時間をシャトルで過ごすことになる。とにかく頭の中をゼフェル以外の何かで埋めなければならない。 もちろんゼフェルとは別の部屋になるだろうが、女王のことだ。ゼフェルとなるべく接触させるために小型のシャトルを用意させているに違いなかったし、事実この予想は的中した。 搭乗したのは、決められた時間の一時間前だった。 シャトルはやはり小さかったが、割り当てられた部屋は予想より広くて少し安心した。先に届けられていたスーツケースを開け、リラックスするために動きやすい服に着替える。 窓から見える景色さえなければ、ホテルの一室にいるとしか思えないほど静かだ。 目的の星に着くまでは、この部屋から一歩も出ないようにしよう。 そう決めると、少し安心したせいだろう、急にお腹が空いてきた。不安のあまり朝食をほとんど口にしていなかったことも思い出した。 ルームサービスのメニューは豊富で、眺めているうちにどんどん空腹感が強くなっていく。 現金なものだと少し呆れながら備え付けの受話器を取ったその時、狙い済ましたように扉の向こうの廊下がざわめき始めた。 部屋に入る時に確認したが、このシャトルに個室は三つしかなかった。それぞれの部屋は隣接していないが、同じフロアにある。 時計を確認すると、出航の時間が迫っていた。おそらくゼフェルが搭乗してきたのだろう。 受話器を下ろして、ベッドにうつ伏せた。今ルームサービスなど頼んでは、扉を開けた時に運悪く彼の姿が見えないとは限らない。 それに、食欲も綺麗に掻き消えてしまっていた。 ――――――――――――――――――――――――――― 応接室に通されたオリヴィエは、ソファに深く腰掛けて女王を待っていた。 億劫そうに部屋を眺めては、女王が姿を現す扉に視線を止める。かれこれ二十分ほど待たされているが、こればかりを繰り返している。 女王はどんな反応をするだろうかと考えてみると、簡単にその映像が彼の脳裏に浮かんだ。 頭を振って、重い気分を吐き出すように大きなため息をついた。まるで、誰かに見せつけるように。 「間もなくおいでになります」 ようやく声をかけられた彼は、女王を迎えるために立ち上がった。 待たせたことについての謝罪を口にしながら席についた女王は、ひどく上機嫌だった。 「ご機嫌お麗しく、なによりでございます」 「…畏まっちゃってどうしたの?」 正式な場は別として、オリヴィエとは気軽に会話を交わす仲だ。ただならぬ気配を察して女王の笑顔は曇った。 「ご多忙の中、お時間をお取りいただいたのは他でもありません。陛下に申し上げたいことが…」 「そんな話し方をされたらややこしくってしょうがないわ。私が忙しいと知っているのなら、普段通りに話して」 わかったよ、とオリヴィエは肩を竦めた。 「…じゃあ遠慮なく言わせてもらうよ。どうしてゼフェルを一緒に行かせるんだい?」 今度は女王が肩を竦める番だった。 「あら、オリヴィエだって知ってるでしょ?あの二人のこと」 「もちろん知ってる。だけど、陛下がそこまでする必要はないんじゃない?」 話し方は崩しても、オリヴィエの表情は硬いままだ。 「陛下、もうほっといてやりなよ」 少し怯んだ様子を見せた女王だったが、気を取り直したように強い眼差しで前に座る男を射た。 「だってあの二人はお互いにまだ好きなのよ?どうにかしてあげたいって思っても変じゃないと思うんだけど」 出されたコーヒーを一口飲んで、オリヴィエは顔を顰めた。 「ねえ、ちょっとこのコーヒー苦すぎるんじゃない?」 オリヴィエの感想は黙殺された。 「二人の関係は捩れてしまってるみたいだけど、愛し合っているのよ。何かきっかけがあれば元に戻るのなら、それが一番じゃない」 聞いているのかいないのか、もう一度コーヒーを口に含んだオリヴィエは首を傾げた。 「私がそこまでする必要はないって言うけど、女王じゃなくてロザリアの友達として、どうにかしたいって思うの」 一気に言って、女王もカップに手を伸ばした。交代だとでも言うように、オリヴィエはカップから手を離す。 「その気持ちはわからないでもないよ。ワタシだってあの二人が上手くいけばいいって思ってたさ。でもね、きっかけだけじゃ戻らないものだってあると思う。それに、陛下はロザリアのことしか考えてないんじゃない?ゼフェルの気持ちはどうなるんだい?」 反論しようとした女王を無視して、矢継ぎ早に続ける。 「そりゃゼフェルだってロザリアのことを好きだと思うよ。だけど、あの子がすごく傷ついたこともワタシは知ってるし、今は少しずつ立ち直ろうとしてるんだ。恋愛は大切なものだろうけど、それ以外の感情はどうでもいいの?他のことは何も考えなくてもいいの?」 予想もしていなかったことを言われた女王は、顔を強張らせた。 彼女の唇が力なく閉じられていくのを、オリヴィエは確認した。 「キツい言い方になるけど、あの子の気持ちが陛下とロザリアに振り回されてるのを見てられないんだよ。せっかく塞がりかけた傷を開かないでやってよ」 女王が口を開くまでに、数分が必要となった。 「…それでも、私はあの二人が恋人に戻ってくれたらって思うのよ」 小さな声を聞いて、オリヴィエは表情を和らげた。 「わかるよ。だけどね、ちょっとやそっとのきっかけじゃ元に戻れないんじゃないかとワタシは思うんだよ」 「そうなのかな…」 「上手くいく時は、何もしなくても上手くいくよ。だから、もうそっとしといてあげようよ」 諭すように優しく言われて、女王はようやく頷いた。 「…そうね。これからはもう余計なことはしないでおくわ。自然に上手くいってくれるかもしれないものね」 「うん。じゃあ、この話はこれで終わり!」 笑顔を浮かべたオリヴィエは、バッグから雑誌を取り出してページを捲り始めた。 「ねえ、新しくできたカフェがあるんだけど、今から行かない?」 立ち上がって、女王の目の前にお菓子が並んだ記事をひらひらさせる。 「うん、行きましょ!…オリヴィエ、ありがとう」 様々な思いを最後の礼に込めて、女王もゆっくりと立ち上がる。 二人で幸せになってほしい。 女王は、その思いに微量ながらも不純物が混ざっていることを知っていたが、ロザリアと自分自身のために、未だ小さく燻るゼフェルへの特別な感情を消してしまわなければならないと、より強く考えるようになっていた。 今もロザリアが後悔し続けていたとしても、自分がそうなれたきっかけは彼女が感情を暴発させたことだと認識していた。 だからこそ、彼ら二人の関係が良いものに変わるためのそれを、今度は自分が作りたいと望み、行動を起こしてきたのだ。 並んで歩きながら、女王はまた考えていた。 オリヴィエの言うように、ゼフェルへの配慮は確かに欠けていた。これは改めなければならない点だ。これからは、彼ら二人を見守ることにしようと改めて決意する。 しかし、今日より前にそうする必要があるとわかっていたとしても、自分は結局同じことをしていたに違いない。そうも思った。 back next top |