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 とりとめのない会話の中で、彼女が聖地についての話題を一切出さないことにオスカーは気づいた。オスカーが口にすれば特にわだかまりのない様子で応えるので、尚のこと不自然に感じられる。
 とりあえず控えるように意識してから10分と経たないうちに、二人の間には沈黙だけが残った。
 オスカーとロザリアの関係が女王試験の期間内にしかなかったことを思えば、当然だろう。
 旧友であれば、共に過ごした時を懐かしく語り合うことができる。
 初対面の相手なら、互いを知ろうとする気持ちから言葉が生まれる。
 嵐のように過ぎ去った時間のみを共有している二人は、それでも帰ろうとはしなかった。

 店内に流れるクラシックに聞き入っていたロザリアは、思い出したように顔をオスカーへと向けた。
「恋人はいるのかしら?」
「世界中の女性が俺の恋人なんだが、これでは答えにならないか?」
 嬉しそうにロザリアは笑って、そうでしたわね、と呟いた。
 ロザリアに同じ質問をしようとしたオスカーは、一瞬戸惑った。
 だが、僅かにできた会話の隙間をロザリアの言葉が埋めたために、オスカーはこの日その質問をすることはできなかった。

「それでは、今夜はわたくしの恋人になって下さらないかしら」
 
 オスカーの頭にまず浮かんだ言葉は……『なぜだ?』だった。
 彼女の思考が全く読めず、オスカーは呆然とロザリアの顔を見た。

 オスカーには、ロザリアと一夜を共にするつもりはなかった。
 女性の正体に少なからぬ衝撃を受けたオスカーは、彼女に声をかけた時点での目的を忘れ、以降は考えがそれに及ばなかったのだ。

 まるでビックリ箱のような夜だ、とオスカーは思った。何が出てくるか、見当もつかないじゃないか、と。
「…驚いたな」
 実感として出た言葉だったが、ロザリアは笑う。
「あら、わたくしはオスカーのその言葉に驚きましたわ」
 見ると、言葉どおり意外そうな顔をしている。
「ひどいな。その言い方だと万年発情していると思われているようだが…」
「あら…そう言われましたら、確かに。…でも、否定できませんわね」
 悪戯っぽい笑顔に、血が騒ぎ始める。
「しかし、君のようなレディから誘ってもらえるとは、嬉しいぜ」
「せっかくお会いできたのにこのままお別れするのも寂しいですわ。でも、朝まで飲み明かすには話題が足りませんもの」
「会話の代替品のように言わないでくれ。俺はそうは思っていないんだぜ?美しい人」

 彼女が半年前に抱いた少女だと確認したのは数十分前のことだったが、それは男女としての会話を重ねる度に薄れていく。
 全くの別人。
 ロザリアという名の、上品で、挑発的な大人の女だ。
 
「もちろんオスカーには、拒否する権利がありますわよ?」
「そんなに急かさないでくれ…俺はわが身の幸運をゆっくりと味わっているところなんだからな」
 安上がりな方だこと、と笑う姿も憎らしいほど様になる。
「では、レディ。お手をどうぞ」
 差し出された手を躊躇もせずにとり、ロザリアは立ち上がった。





 シャワーを浴び終えたロザリアは、バスタオルを体に巻きつけただけの姿で、ソファでくつろいでいたオスカーの横へ座った。
 明かりを落として、抱き上げようとロザリアの体に手を廻す。
 ほのかに甘いソープの香りと、しっとりとした肌の感触に酔いしれながらごく近い距離で顔を見つめると、ロザリアの視線とぶつかった。
 自然な動作で目を閉じた彼女の口角は僅かに上がり、オスカーを誘う。ソファの前に膝を着き、口づけた。
 重ねた唇は柔らかくひんやりとしていて、アルコールが抜けきっていない体にはその冷たさが心地よく感じられる。

 ――――――冷たいのも悪くはないが、俺は炎の守護聖だ。

 ロザリアの唇を割り舌を進入させると、求めていた温度があった。

 嬉しいぜ、レディ。俺の心も熱く燃えているからな。互いの存在だけを感じて、快楽を与え合うんだ。

 とろとろと静かに舌先を動かして口腔を舐めまわすと、ロザリアは身を捩った。
 出口を見つけることができなかった声が、振動となってオスカーに伝わる。
 白い手が伸びて、頬に当てられた。
 オスカーはその手を優しく撫でた後、彼女の細い指先を口に含んだ。

「わたくしの指はどんな味をしておりますの?」
 小さく聞こえたその声は、オスカーを喜ばせた。
「幼い頃に初めて食べたキャンディみたいに、甘い」
 時間を惜しむように早口で吐き出して、また指先を口にする。
「…オスカー、ふやけてしまいそうですわ」
「そのキャンディはとても大きくて、まだ小さかった俺が一度に食べられるものではなかったんだ。だが、止めることができなくてな。ずっと舐めていたら母親に叱られた」
 執拗に舐め続けながら、途切れ途切れに話を続ける。
「でも、俺はキャンディを離さなかった。棒だけになってしまっても、いつまでも咥えていた。麻薬中毒者のようだろう?」
「かわいらしいお話ですわ。麻薬中毒だなんて、幼い頃のオスカーが可哀相ではないかしら」
「今の俺は、どうだ?君の指は、俺をもう一度中毒者にしてくれたが」
「止められないと言うあなたを全面的に信用すると、確かに中毒者ですけれど…そうではないでしょう?確信犯の守護聖様。けれど」
 上擦った声が、ロザリアの昂ぶりを余すことなくオスカーに教える。
「けれど?」
 その声がもっと聞きたくて、オスカーは続きを促した。
「あなたのそういうところが、女性達を惹きつけているのでしょうね」
 楽しそうな声音が、オスカーの心を刺激する。
「ジェラシーによって口にしてくれたのであれば媚薬にも成り得る言葉だが、そうではないらしいな」

 ――――――今夜の俺は、君だけを愛している。君もそうだろう?

「ここには、君と俺しかいないんだ。他の人間は誰もいない」

 ――――――そうでなければ、悲しすぎるじゃないか。

 オスカーの思いに応えるように、ロザリアは頷いた。
「そうですわね。今夜のオスカーの恋人は、わたくしただ一人ですものね」

 いつもそうだった。
 世界の全てと切り離されているように思える場所で女性と過ごす夜、彼は恋をする。
 朝が余韻を洗い流すまで、確かに恋をしている。
 その女性を愛しいと、守りたいと、心身ともに一つで在り続けたいとすら思うほどに。
 
「今夜の君の恋人も、俺一人だ」
 指先から手の甲へ、薄く血管が見える腕に唇を這わせる。
 鎖骨、喉、頬、そして耳まで辿りつき、ほおばった。
 やや荒い息遣いが、オスカーの左耳に届く。
「君の性急さがうつってしまったようだ。今すぐにでも君を味わいたい」
「ふふ、かまいませんわよ」
 唇を小さな耳元に寄せ、囁いた。
「だが、ソファでは君を余さずに愛すことは難しい。相応しい舞台へとお連れしていいかな?」
 芝居がかって言ったオスカーを、嬉しげな表情で見た。
 オスカーはその表情がどのような想いから作られているのか、気づかない。
「どこでもかまいませんわ…。オスカー様さえいらっしゃれば」
 オスカーは気づかない。
「嬉しいことを言ってくれるんだな」
 気づかない。
「喜んでいただけて、わたくしも嬉しいですわ」
 気づかない。

 満足気にロザリアを抱き上げ、幸せそうに微笑んだ。
 かつての自分を見事に再現していることに、気づかない。

 それを確認して、ロザリアもオスカーと同じ表情へと変わった。




 広く柔らかなベッドの上で、波打つ髪。
 
 互いを昂ぶらせるために立てられる音。
 囁き合われる愛の言葉。
 探り当てる。
 ぬるぬると、光る。
 艶かしく動く瞳。
 深く割り入れる。
 大きく仰け反った肢体を撫で上げる。
 男は、自らの全てを打ちつけるように激しく動く。
 それに応えて、歓喜の声が上がる。
 
 女は喘ぎながら、時折男の名を呼ぶ。
 悦楽の中、男は違和感を覚える。
 
 だが、ささやかな異物は女の体内と己の欲望に飲み込まれて消えた。

 幸福な恋人達の夜は更けていく。











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