もう、この場所には何もない。
自分の居場所すら、ない。



アンジェリーク…女王陛下。
わたくしがあなたを失う前に、あなたはわたくしを失っていたのね。

全てを奪った、とあなたはオスカー様に言った。だけど、わたくしにはそうは思えない。
きっとあなたも、わたくしに対して同じように思っているのでしょうけれど。

アンジェリーク、あなたを傷つけてしまってごめんなさい。
でも、こうして心の中で謝るのも最後にするわ。

あなたの抱える喪失感がわたくしのそれと寸分違わずとも、分かち合いたくはない。

もう、あなたを見たくない。




オスカー様。
あなたと出会ったことすら後悔しているわたくしを許して下さるかしら?…許して下さるわよね。

わたくしがあなたに対してどのような気持ちを持とうと、あなたは傷つかないのですもの。
傷ついて欲しい。
そう願う浅ましいわたくしの心をご覧に入れても、あなたは同情をくれるでしょう。

これからあなたがたくさんの女性達と時間を共にすることを想像すると、少し気持ちが楽になります。
おかしいとお思いかしら?
魅力的な女性達と、数え切れないほどの思い出を作って下さい。
そして、わたくしを消し去って下さい。

わたくしと過ごした時間を、コレクションとして愛でられるのは耐えられませんの。
まだあなたの中に何らかの形でわたくしがいるのだとしたら、早く手放して下さい。
何百、何千と綺麗な思い出を作って、そしてわたくしをすり減らして…消し去って下さい。

そして、わたくしも忘れましょう。
糧にできる程度のものではないのなら。
覚えておくのは、女王試験に敗北したことだけでいい。
 
わたくしにとってこの世界は、なにもない場所。
だからわたくしも消えてしまわないといけない。

この場所にいる全ての人間の記憶からも。

わたくしの名前を、わたくしの存在を、わたくしに纏わる全てを。





6





 女王交代の儀の直前にも関わらず、下界に戻りたいと願い出たロザリアをディアは許した。
 許可を出さなければ着の身着のままで飛び出してしまいそうな様子であったし、補佐官になるつもりはないと言うロザリアを無理に引き止めておかなければならない理由はなかった。

 新女王となるアンジェリークにだけは伝えておこうと候補寮に出向いたディアを、アンジェリークはいつもの人懐っこい笑顔で迎え入れた。

 しかし、ロザリアの名を出した途端に顔を強張らせ、ディアから視線を外した。
 話が終わっても、俯いたまま沈黙を続ける。

 何度呼びかけても返事をせず、顔を上げようとしないアンジェリークを心配したディアが彼女に近づくために足を一歩踏み出した時、アンジェリークはようやく顔を上げた。
 そして、何も言わずに首を縦に振った。




―――――――――――――――――――――――――





 連絡も入れず、突然家に戻った自分に驚きを隠せない様子の父と母に、ロザリアは何も言わずに頭を下げた。
 父は「違うんだよ、ロザリア」ともどかしそうに言った。
 夫よりは幾分落ち着いているように見える母親は、おっとりと笑った。
「お帰りなさい、ロザリア」

 ぎこちない挨拶を一通り済ませて、互いに様子を窺いながらも表面上は淡々と会話が進む。

 父親は、ロザリアが女王になれなかったことに驚いていた。
 愚かしいと自覚はしていたが、娘以上に女王に相応しい人間がいるとは思えなかったのだ。それに、聖地に留まらずに戻ってきたことも理解できなかった。

 何一つ言葉にできず戸惑う父親に、母親はそっと首を振った。
 
 試験の勝敗に関しては触れない方が良さそうだと判断し、当たり障りのない話題として試験が行われた場所について尋ねると娘は黙り込んだ。
 父親は、声を失った。その様子は、それまで浮かんでいた疑問を忘れてしまうほどの衝撃を彼に与えたのだ。

 どれほど都合の悪いことがあろうと、問われて答えなかったことなど一度もなかった娘だった。
 優秀であるからこそ、ごく稀に残った不本意な結果によってプライドを深く傷つけられたこともあっただろう。
 それでも、娘は客観的に事実を述べることを信条としてきたのだ。
 つかえながら、唇を震わせながら、それを守っていた。

 しかし今、それまで生活をしていた場所について質問しただけで彼女の顔は青ざめ、時間を止めてしまったように動かない。

 改めて娘を見る。
 少しこけた頬。艶やかだった髪も、栄養が不足しているように見える。
 動こうともしない唇は、荒れている。

 胸が痛んだが、それを顔に出さないように努めて瞳を見た時、違和感を覚えた。
 感情が全く読み取れない。

 どういうことなのだろう。
 シャッターを閉めるように自身の心と外界を遮断しているのではなく、感情そのものが存在しないために、映しようがないように見える。

 感情を隠しているのではなく――――――――― 隠すものが、ない?

 しかし、父親はその考えを頭から追いやった。
 父として、それを受け入れるにはあまりにも辛過ぎた。

 娘の身の上に何が起こったのか。
 聖地、飛空都市、守護聖、女王…想像もつかない人々、想像もつかない場所。
 娘がこのような瞳を持つようになったのは、果たしてどのような出来事のためなのだろうか。
 その内容を知る機会はないに違いないが、神にも等しい存在達に対して僅かに怒りが芽生えた。

「よく帰ってきてくれたね」

 思わず口にした言葉に最も驚いたのは、他ならぬ自分自身だった。
 ストレートに娘への愛情を表せたことなど、これまで一度もなかったからである。
 生気が戻った瞳のまなじりが僅かに光った気がしたが、ロザリアがもう一度深く頭を下げたため確認できなかった。

 再び顔を上げた娘の瞳に涙はなかった。
 注意深く見なければわからない程度ではあるが、表情が柔らかくなっているように父親には感じられた。
 理解してくれている…そう、今までもずっとそうだった。
 自分の分かり難い愛情表現を丁寧に拾い上げて、受け取ってくれていたのだ。娘に甘えて、それを良しとしていた自分を恥ずかしく思った。

 女王になれず、そしてその補佐官にも就かず戻った娘には辛い道が待っているに違いない。
 特権階級特有の、上品に飾り立てられた暴言。
 持ち上げているように見せながら貶めるのが、彼らの、いや我々のやり方。
 心ない言葉が小さな体に繰り返し浴びせられるのであろう。

 確かに、ロザリアはカタルヘナの名に傷をつけた。
 実際には胸を張って明言できることばかりではなかったが、外の者からみればカタルヘナ家は非の打ちようのない歴史を有しているように映っているはずだ。
 誰の目にもはっきりと見える形での不祥事を起こしたのは、今回が初めてのことである。

 だからこそ、これまでの鬱憤を晴らそうとばかりに殊更声高に言い立てる者は少なくないだろう。
 これをきっかけに、カタルヘナ家を失脚させようと企む者も。
 祖父が、父が、自らが、政敵を様々な手を使って陥れてきたように。
 だが、娘に罪はないのだ。

 不祥事?
 不祥事などではない、と思い直す。名誉ある女王候補に選ばれ、ライバルと競い、及ばなかったというだけだ。
 しかし、最も彼女を理解していなければならないはずの自分にすらその単語が自然と思い浮かぶような世界が、今後娘が生きていかなければならない場所なのだ。

 これからは、娘が自分自身の力で火の粉を振り払えるようになるまで盾にならねばならない。
 妻と二人で娘を支え、守ってやろう。そう決意して、娘に向かった。


「今日はゆっくりと休みなさい。明日は夕刻から語学の先生が見える日だったと思うが、どうだったかな?」
 まるで何事もなかったかのような夫の言葉に抗議をするために口を開きかけた母親だったが、娘が笑顔になったのを見て口を噤んだ。
「その通りですわ。水の曜日ですものね。学院に行くのも久しぶりですから、少し緊張してしまいますわ。準備もございますし、お言葉に甘えて下がらせていただきますわね」

 すらすらと言葉を並べ、ロザリアはその場を後にした。










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