13


 長い廊下を右に折れ、いくつかの部屋の前を通り過ぎる。
 前を歩くロザリアが立ち止まったのは、突き当たりの手前にある小さな扉の前だった。
「応接室ではありませんけれど、よろしいですわね?」
 屋敷に入ってから初めてかけられた言葉には、有無を言わさぬ響きがあった。
「もちろんだ」
 小ぶりながらも細かい細工が施されたノブが回され、オスカーは部屋に招き入れられた。


 生活の気配が感じられない殺風景な部屋は、ロザリアと自分の繋がり方を象徴しているように思えた。
「何事ですの?」
 挨拶もせず、厳しい口調で言い放つ。
「君は、一人娘ではなかったか?」
「…ええ、そうですわよ」
 表情を決めかねている様子で、やや遅れて返答した。
「ご令嬢に取り次いで欲しいと言ったら、通じなかった」
 得心がいったように頷く。
「この屋敷に令嬢はもうおりません」
 ロザリアは暗い笑顔を見せた。
「カタルヘナの現当主は、わたくしですの。父も母も亡くなりましたから」
「……すまない」
「いえ、構いませんわ」
「ご両親はいつ亡くなったんだ?」
「2年ほど前に、交通事故で」
「知らなかった。俺には何も言ってくれなかったんだな」
 ロザリアは、瞳を見開いた。
「言う必要があって?」
 他意はないのだろう、ただ驚きのために出されたその声によってオスカーの胸に小さな空洞が作られたが、その後に続けられた言葉で救われた。
「とにかく座って下さいませ。飲み物は何が良いかしら?」
 何気ない問いかけだったが、オスカーを心強くする。
 ありふれてはいるが、日常生活と地続きの台詞。
 主人が、訪ねてきた客にかける声。
 決まった時間の決まった場所にだけ現れる、非現実的な存在としてではなく、生身の彼女が生きる世界で、正式な手続きを踏んでここにいる。そう思うと、喜びに似た感情が湧いてくる。
 だが、自分のこの行動によって、ロザリアの生きる世界に割り込んだことによって、二人の関係を今すぐ断ち切られることになるのかもしれない。
 不安を振り払うように、心の中で何度も呟いた。
「それでも、繋げろ」
 


 着席を促しても反応しないオスカーに、もう一度座るようにロザリアが勧めたが、オスカーは座らずに口を開いた。
「…君と逢えなくなるかも知れない」
 ロザリアの顔から血の気が引き、表情が変わった。
 空虚な会話を交わしている時に、必ず貼りつけていた顔だ。
「…わざわざそれをおっしゃりに?」

 何度も見た、内心を悟らせない瞳だった。
 まるで、高く聳える鉄の扉のように思える。
 彼女から錠を外すことは、ない。

 ――――――扉を開いたその先がただの廃墟でしかなくとも、俺は開かなければならない。

「俺は、君を知らないまま終わりたくない。君は早すぎるとは思わないか?」
 踏み出すと、オスカーの足に小さなテーブルが当たった。自分とロザリアを隔てる障害物のように彼には感じられた。

「でも、しかたがないのでしょう?わたくしが終わらせるわけではないのに、わたくしに言われても困りますわ」
 ロザリアは、表情を崩さない。
「それに、早過ぎるとも思いませんわ。あなたと再会してから三年が経っているのですもの。十分な長さだわ。…もちろんこちらの時間で、ですけれど」
 言い終わるや否や何かに思い至ったように、突然大きく頭を振った。
 その拍子に、彼女の付けていた髪飾りが音を立てて床に落ちた。

 オスカーは、テーブルを避けて大股でロザリアに近寄り、一気に距離をなくした。
 驚いて動きを止めたロザリアの足元にある髪飾りを拾うと、すぐに立ち上がる。
 そして、それをあるべき場所につけ直そうと手を動かし始めた。
「あなたは何がしたいの?」

 髪飾りに付けられている石が触れ合って、しゃらしゃらと音を立てる。
 直立した姿勢のロザリアは、やや苛立ったように視線だけを上に向けた。

「君は、俺をどう思っている?」
「…何をおっしゃるかと思えば。オスカーらしくないわね」
「駆け引きはもう十分だ」
「それはこちらの台詞です。もう一度聞きますわ。あなたは何がしたいの?」
「君と、もっと一緒にいたい」
 勢いよく胸を押されたオスカーの手から、再び髪飾りが落ちた。
「バカなことをおっしゃらないで。わたくしを混乱させて楽しい?」
 もう一度不運な髪飾りを拾おうとしたオスカーを無視して、それを素早く拾う。
「それを渡してくれ。君の髪に付けたいんだ」
 伸ばした手は、撥ね退けられた。
「もう夢は見られないのでしょう?それを伝えに来たのでしょう?用がお済みでしたらお帰り下さいな!」
 声を荒げ、親の仇でも見るような瞳で睨みつける。
「頼むから、教えてくれ」
「何も言うことはないわ。早く帰って」
「俺をどう思っている?」
「帰って!」
「俺をどう思っている?」

 壊れた再生機のように繰り返すオスカーが恐ろしくなったのか、ロザリアは後ずさった。
「俺は君が好きだ。許されるなら愛という言葉を使いたいくらいにだ。笑ってくれてもいい。蔑んでくれてもいい。だが、それが事実なんだ。どうすることもできない事実なんだ」
 ロザリアは、聞きたくない、というように首を振る。
「お嬢ちゃんだった頃の君を、俺は深く傷つけた…」
「呼ばないで!」
 オスカーの言葉を遮って、ロザリアは叫んだ。
「お嬢ちゃんと…この家で呼ばないで!あの頃のわたくしは、わたくしにとって人生の汚点でしかないの。あなたと違ってね」

 汚点。
 オスカーは、自分が傷ついていることを確認できなかった。
 客観的に自身を見る冷静さなど、残っていなかった。

「…それではなぜ、そう呼ばせようとした?」
 浮かんだ疑問を推敲することもできず口に乗せたオスカーに、ロザリアは笑った。
 悪意のみで作られた顔で、お望み通りに、とばかりに笑い声をあげる。
「自分の強さを確かめる絶好の機会だと思ったからですわよ。あの頃の自分を上手く殺せているか、試したかったのですわ。もちろんその自信はありましたけれど」
 
 痛みは遅れてやってきた。次々と新しい傷が作られていく。

 ――――――俺は今、プライドも、ロザリアも、失いつつあるのか。

 オスカーは、無意識に瞼を閉じた。
 

 候補時代のロザリアが浮かぶ。

 ――――――初めて出会った時は、俺に見蕩れてくれたな。
 俺を知りたいと頬を染めながら言った時、唇が震えていた。
 からかうとすぐに怒るから、宥めるのに苦労したんだ。
 冗談を言うと、無邪気に笑った。
 
 あの頃のロザリアと、今のロザリアは別人だと思っていた。
 だが、今は、君のあの頃の姿を思い出すと、胸が甘く痺れる。
 それほど、君に惹かれてしまった。
 今の君に繋がる全てのものを、愛しく思えるほどに。
 
 ――――――涙が出るほど懐かしい君よ。君にもこんな思いをさせていたのか?
 


 だが、オスカーは謝罪しようとは思わなかった。
 気が狂わんばかりに悔やんでいるくせに、そこだけは譲ろうとしない自分の頑なさがいやになった。
 どちらにせよ、もう意味などないのだ、そう考えて、折り合いをつけようとした。

「愛していると言う資格はない、か」

 わかっていたつもりだったが、やっぱり胸は痛むんだな、とオスカーはまるで他人事のように思おうとしたが、無駄な努力だった。胸を押さえて、オスカーはため息をついた。

 ――――――なあ、図々しく、当然の権利だというように主張してくれるなよ。
 どうすることもできないようだぜ。諦めるしかないだろう。
 …なあ、本当に、どうすることもできないのか?

「最初で最後の賭けをしにここまで来たんだが、勝ち目など最初からなかったんだな」
 自分に言い聞かせる役割も兼ねた質問だったが、ロザリアは返事をしなかった。
「俺は、君に取っては過去を清算するための道具にしか過ぎなかった」
「そうでしたわ」 
 目を開けると、ロザリアは俯いていた。

「今日、いえ、今この時まで、あなたは完全にその役目だけを果たしてくれていた」
「…そうか。最後の最後で君の期待を裏切ってしまったんだな」
「戻らせないで、と言っても遅いですわね」
 緊張の糸が切れたように、ロザリアは力なく笑った。
「11年前にわたくしが愛した男と同じ顔で、同じ声で、愛していると言わないで。わたくしを無力な少女に戻して、また去って行くのでしょう?」
「君は…」
「それなのに言って欲しいと思ってしまうだなんて、自分で自分が信じられませんわ」
 伸ばした手はみっともなく震えていたが、今度は払われなかった。
 戸惑いながら、ロザリアの肩に手を置いた。
「今の俺は、君がいないとおかしくなりそうなくらいに、君を愛している」
「…オスカー」
「君は、俺を愛してくれているのか?」
「言いたくないけれど、そのようね」
「頼む、聞かせてくれ」
 振り絞るように言ったオスカーをしばらく見つめてから、ロザリアは言った。
「愛しているわ、オスカー」
 諦めたように笑ったロザリアを、オスカーは信じられない思いで見た。
「…君を抱きしめてもいいか?」
「聞く前にそうなさったらどう?」
 言われて、そうした。
「ありがとう」
 ロザリアを抱く腕に力を込めながら、言った。











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