「恋人はいるのか?」
 四度目の逢瀬で、ようやく口に出せた。
 もちろん、例の魔法がかかった部屋に入る前に、だ。

 一ヶ月前、再会した直後には聞けなかったというのに、どうして今、簡単に口に出せたのか。
 関係を持った女性に対して、このような質問をしたことはなかった。
 他に恋人がいる女にそう問えば、野暮な男だと蔑まれるだろうし、そうではない女なら、『あなたがわたしの恋人ではなかったの?』とでも言って泣き出してしまうに違いないだろうからと、口を滑らせないようにと心がけてすらいたのに。

「おりませんわよ」
 事もなげに言うロザリアと、その態度に満足する自分自身に、また満足した。






11





 あの夜、ロザリアと出会ったのは偶然だった。
 行為の後、また会えるかと聞くと、背中を向けたままロザリアは言った。
『あなたがそう望むなら、お相手してよ』
 その言葉に苦笑するオスカーを無視して、付け足した。
『あのバーで会いましょう』
 それだけ言って身を起こし、再度シャワールームへ向かった。

 約束とも言えない言葉だけを残して、ロザリアは部屋を後にした。


 半信半疑で出向いた一週間後の夜に彼女の姿を認めた時、律儀な女だと思った。
『来てくれるとは思わなかったよ』
 そう声をかけて隣に座ると、視線をこちらへ移して言った。
『あら、オスカーらしくないわね。お相手があなたなら、どなただって約束を守るのではなくて?』
『まあな。だが、君は違うんじゃないか?いや、相手が俺ではなくても、君は約束を守るのかもしれないな』
『一度しか会ってはいないのに、わたくしのことをよくわかっているのね。でもなぜそう思ったのかしら?』
 この時、オスカーにはその理由がわからなかった。
『なんとなく、だ』
 そう濁すと、ロザリアは興味を失ったような顔をした。

 
 やはり会話は続かない。
 グラスは既に空になっていたが、注文をするのも不自然な状況であり、変える術もないように思えた。
 ロザリアが頷くのを見て、オスカーは立ち上がった。
 そのまま二人は何も言わず、ホテルへと向かった。

 
 部屋に入ってすぐに、ロザリアは窓辺へと歩いて行った。
「星がとても綺麗に見えますわよ」
 振り向いて、無邪気に微笑んだ。
 体に纏わりついていた緊張感が薄れ、空気が和らいだ。
「君の傍に行ってもいいかな?」
 愛情としか思えないものを顔に滲ませて、ロザリアは頷いた。
「ええ、もちろん。わたくしのオスカー様」




 
 髪を撫でて、指で彼女の唇をなぞる。
「またこうして君と愛し合うことができて、本当に嬉しいぜ」
 くちづけながら、四肢を丁寧に愛撫する。
 ロザリアが、名を呼んだ。
 オスカー様、と。
 オスカーは軽い気持ちで言った。
「忘れてしまったのかな?寂しいな。呼び捨ててくれと言っただろう?」

 ただ単純に、彼女は言い間違えたのだと思った。
 これまでの習慣で、口をついて出たのだろうと。
 だから、その声音は甘く柔らかなものだった。
 
 かすかに音が聞こえた。
 枕元で鈍い光を放つライトがなければ、それが彼女が首を横に振ったために発生した音だと気づかなかっただろう。
 与えた快感によって潤んでいる瞳の中に、強い拒絶の意志が浮かんでいるのを、オスカーは見た。
 
「…まあいいさ。レディのお望みのままに」
 そう呟いて、すぐに言い直した。
「お嬢ちゃんのお望みのままに…の方がいいのかな?」
 オスカーの下で、ロザリアは首を縦に動かした。

 
 オスカーは、彼女があの、蒼い瞳の女王候補であったことを、今更ながら思い出した。
 …俺は、ロザリアがこれ以上ないほど律儀な女だと知っていたから、バーでああ言ったんだ。そして、それを忘れていたから、戸惑ったんだ。

 柔らかな乳房の先端を口に含んで、緩急を付けながら舌先で弄ぶと、ロザリアは吐息を漏らした。
 太腿に手をやり、滑らせて行く。
 唇が微かに開き、熱っぽい声が発せられた。彼女が悦んでいるのがわかる。
 
 最も敏感な場所に触れる。そこは既にぬかるみに変わっていた。
 オスカーは低く笑った。

 温かい体内に分け入りながら、オスカーは声を聞く。そして気づいた。
「オスカー様…」
 一週間前に抱いた時も、こう呼ばれていたことを。
 そして、その時に持った違和感の原因がそれであったことを理解した。
 
 愛の言葉を撒き散らしながら、オスカーはただ動く。
 無意識に、過不足無く役割を果たす自分の体に感謝しながら、オスカーは思いを巡らせる。

 ――――――俺の愛情は、夜明けまで持続する。彼女の愛情は、快楽の時が過ぎれば消えてしまう。制限時間の差が、俺を混乱させているのだろう。

 …それだけのことだ。

 オスカーの胸に冷たい風が流れ込む。
 裏腹に、オスカーの昂ぶりは頂点に達そうとしている。
 暴力的にそれを叩きつけると、ロザリアは高く長い声を上げた。
 その声に最後の堤防は崩され、解き放たれた。

 

 まだ息が弾んでいるロザリアの頬にくちづけを落とす。
「愛しいレディ。君は俺を愛してくれているか?」
 気だるげに瞳だけを動かし、オスカーを見つめる。
「愛しておりますわよ」
 それにしても、とロザリアはくつくつと笑う。
「…なんだ?」
「見事に重さを感じさせませんわね。ですけれど、それではただのプレイボーイですわよ。全ての女性に真摯な愛をお伝えになるのはお止めになったの?」
「君は手厳しいな」

 笑顔を消して、ロザリアはそっけなく視線を外した。
「眠ってもいいかしら?最近睡眠が足りておりませんの」
「もちろんだ。俺の腕を貸そう。きっと良い夢が見られるぜ?」
「嬉しいお言葉ですけれど、結構ですわ。わたくし、もう良い夢を見せていただきましたから」
 瞼を閉じるロザリアは、タイムリミットだと告げているように見える。
「もう君は目覚めちまったのか。甘い夢の中に、未だ取り残されている俺を哀れだとは思ってくれないんだな。冷たい人だ」
「…それはいつもあなたが言われていることなのではなくて?」
 唇だけを動かして答えたロザリアの台詞は、オスカーを頷かせた。
「なるほど。言葉こそ違えど、か」
 オスカーの声はロザリアの耳にも届いたはずだったが、黙殺された。
 ロザリアはすぐに、規則正しい寝息を立て始めた。
 納得したはずの心は、晴れなかった。

 オスカーは、愛の有無を聞いた時に意識して声のトーンを高くしたことを自覚していた。
 なるべく、軽薄に聞こえるようにと注意を払ったのだ。
「もう、彼女の演技は終わっていたじゃないか。それなのになぜ俺はなおも演じ続けていたんだ?」
 その答えがはっきりとした形を取る前に思考を止めたが、止めた理由もまた、その答えと同じものであることを、頭のどこかでは分かっていた。

 胸の澱みは消える気配を見せない。
 それを振り切るために、ベッドから出てシャワーを浴びた。
 身なりを整えて、ペンを手にする。
 また会おう、とだけメモに記して、部屋を出る。

 当てもなくふらふらと歩いていると、見覚えのある通りに出た。
 最近知り合った、優しい女の住まいへと続く道だ。
 きっと彼女なら喜んで迎えてくれるだろうと足を進めかけたが、興が乗らない。

 オスカーは後悔していた。
 ロザリアを置いてきたことに対してではない。むしろ逆だった。
 あのメモを、今すぐ取りに戻りたいと思った。あんなものを残してくるべきではなかったのだ。
 

 苛立たしげに舌打ちをして、けばけばしいネオンが密集している方向へと歩き始めた。




 この日オスカーは、久しぶりに金で女を買った。
 虚しくはなかった。







 バーで会って、申し訳程度に言葉を交わす。
 沈黙を合図に、席を立つ。
 特殊な空間に入り、二人は恋人同士の顔を作る。
 オスカーはロザリアを『お嬢ちゃん』と呼ぶ。
 ロザリアはオスカーを『オスカー様』と呼ぶ。
 女は、候補であった頃の仮面を、男は当時の自らの仮面を被る。
 それからようやく交わる。

 儀式めいた手順。
 しかし、それを踏まないことには、寝ることさえできなくなっていた。










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