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 靴音が徐々に近づいてくる。
 鼻歌を歌いながら軽やかに歩く姿が目に浮かぶようだ。
 冗談のように高いヒールで踏まれている床は、一定のリズムで悲鳴を上げている。
 半ば無意識にオスカーは足を止めて、呼吸を整えた。
 目の前の角の向こう側を歩くあの男は、十秒もしないうちに自分の姿を見るだろう。
「3、2、1…ご対面、だ」


 『極楽鳥』
 かつてオスカーがそう揶揄した男は、やはり鮮やかな色彩を身に纏っていたが、鼻歌は歌っていなかった。俯き加減で歩いていた彼は、オスカーに気づかない。
「よう、久しぶりだな」
 待ちきれずにオスカーが声をかけると、オリヴィエはようやく顔を上げた。
 一瞬だけ眉を顰めてすぐに表情を消す。自分を優位におくため、感情を悟らせないようにしているのだろう。あからさまなその態度はオスカーを落胆させた。
 お馴染みの、人を食ったような態度で受け流されるだろうとオスカーは予想していた。それには多分に彼の希望が含まれていたのだが。
「悪いけど、急いでるから」
 身体の角度を変えてすり抜けようとするオリヴィエの肩に、オスカーは手をかけた。
「待てよ。夢の守護聖ともあろう者が敵前逃亡か?」
 何気なく口にした言葉。
 敵。この男を、自分が敵だと思っていることに気づいて、オスカーは驚いた。
「アンタにどう思われてもいいよ」
 オリヴィエは、俯いたまま呟いた。卑屈にも思える態度はこの男に似合わないし、見たくもない。そうオスカーは思った。

「お前がロザリアをどう思っていようと、俺はお前を責めるつもりはない」
 最大限の譲歩をしたつもりのオスカーが終わりまで言わないうちに、オリヴィエは小さく笑った。
「当たり前じゃないか」
「ああ、そうだな。…だったらなぜお前は俺を避けるんだ!」
 なぜこいつ相手に腹の探り合いをしなければならないんだ。
 バカらしい話だが、正々堂々と宣戦布告でもされた方がよほど良かった。
「オリヴィエ。先にも言ったが俺にお前の感情を縛る権利はない。同時にお前を思い遣ってロザリアを譲ってやる義務もない」
 黙ったままのオリヴィエに焦れて、オスカーは再び大声を張り上げた。
「俺たちは対等だろう!?」
 ようやく視線を合わせたオリヴィエは、軽くため息をついた。
「しょうがない男だね。わかった、アンタの部屋に行く。だからここで大声を出すのは止めなよ」
 肩を並べて歩きながら、オリヴィエは終始無言だった。
 彼に言うべき台詞を未だ見つけられないオスカーは、せわしく考えを巡らせていたため、やはり無言だった。


「アンタのね」
 オリヴィエがそう言うと同時に扉の閉まる音がした。彼は部屋に入ってすぐに話し始めていた。
「アンタの、そういうところがダメなんだよ」
「何の話だ」
 首を振って、オリヴィエはオスカーを正面から見た。
「何もかもを上手く収拾しようとするところ。カテゴリー分けをきっちりし過ぎるところ」
「それのどこが悪い?」
「自分のやり方を人に強要するのは止めた方がいい」
 オスカーは、お手上げだというように両手を上げて椅子に座った。
「分かりやすく説明してくれるか?」
「これから奪おうとしている子の恋人と楽しく談笑できるほど、ワタシは無神経じゃないってコト」
 オリヴィエは座らない。
「恋愛も友情も、なんて今のワタシは思っちゃいないんだ」
 オスカーは天井を仰いだ。オリヴィエは、もう少し物の分かった男ではなかっただろうか。なぜこんな風になってしまったのかと悔しさのような感情すら生まれる。
「お前がそんなに必死になるとは、珍しい」
 極力柔らかく聞こえるように声を抑えてそう言うと、オリヴィエは苦笑した。
「自分でもそう思ってる。ああ、アンタと話すのも久しぶりだね」
「全くだ。久しぶりなのはお前のせいだろ?」
「さっきも言ったけど、ワタシは話したくなかったんだよ」
 こうなっちゃしょうがないけどね、ともう一度苦笑して続けた。
「せっかくだから、一つだけ言っておくよ」
 口調を変えて、オリヴィエは真剣な面持ちで言った。
「アンタが必死になる日は近いよ。わかってないだろうけど」
「ロザリアがお前を選ぶということか?」
「ご明察」
 オリヴィエは嬉しそうに笑った。この時だけは、いつも通りの彼だった。

 迷子になった時のように心細くなる。
 彼の言う通り、何もわかっていないのだろう。

「恨まないよね?」
 恨まないでね、ならわかる。
 恨まないよね?とは、どういう意味だ?
 確認するような言い方が気にかかったが、オスカーの口から出たのは当たり障りのない言葉だった。
「彼女が俺から離れていくなんて、信じられないな」
「…まあ、どう思おうとアンタの自由だけどね」
 もう十分だろ?と目で言って、オリヴィエは背を向けて出て行った。
 強い香水の残り香が、頭痛を引き起こす。
 ロザリアが自分を選ぶと確信しているような口ぶりを思い返すと、彼の頭痛はさらにひどくなった。
 多分、それなりの根拠があるのだろう。なければああは言わない。そういう男だ。

 裏切りじゃないか。
 何を持って裏切りとするかは個人によって異なるのだろうが、彼はその時そう思った。

 客観的な視点で見れば、裏切り続けていたのは彼だ。
 ロザリアが何も言わないのをいいことに、数え切れないほどの女を抱いた。
 だが、彼の心の中の、最も大切な席はいつだって彼女のものだった。
 言い方は悪いが、他の女との関係は全て遊びでしかなかった。それを知っているからこそ彼女は何も言わないのだと、オスカーは考えていた。
 ロザリアは今、あっさりとその席を捨てようとしている。
 何も言わなかったのは、自分がいつでも取り替えられる程度の男だったからなのか?そう考えて、オスカーは口を手で押さえた。
 疑心暗鬼に心臓が捻りつぶされそうになる。閉塞感は、息苦しさを生む。
 考えたくない。時間を巻き戻したい。時間を巻き戻す?できるわけないだろう。情けないことを考えるなよ。
 ああ、だがどこで間違った?どこからおかしくなった?最初から?
「俺はそんなに安っぽい存在だったのか?」
 暗い思考の渦から逃げ出せないオスカーは、身体を椅子に投げ出したまま続けた。
「もしそうだとしたら、やはりそれは俺の想いに対する裏切りじゃないか」
 
 一人で考えていても埒が明かないのは承知していた。
 しかし、彼とてもただ手をこまねいていたわけではなかった。彼女の態度が違ってきていたことはわかっていたのだ。
 だが、そのわかりやすさが彼を混乱させていた。
 彼女は彼に相談の類は一切しない。彼もまた同じだった。
 プライベートな領域に立ち入られるのを拒絶しているわけではない。相手に余計な心配をかけたくないだけだ。
 弱い部分を見せたくないと思う気持ちもある。自分だけが頼るわけにはいかないとも思っていた。
 それでも、彼らは決してクールな関係ではなかった。
 隠そうとする悲しみや苦悩を敏感に嗅ぎ取って、直接的な言葉はなくても慰め合ってきたのだ。
 少なくとも、彼はそうしてきたつもりだった。
 言葉は不要だ、なんて大それたことは思っていなかったが、しかし自分達の間に限って言えばそうなのかも知れない、と幾ばくかの喜びを持って考えたことはあった。

 近頃のロザリアは、憂い顔を隠さない。
 そのくせ、彼が何を聞いても何も答えない。

 彼と彼女はよく似ている。
 相手に何も言わないところが、特に。
 
 …知恵者の地の守護聖は、あの時何を言おうとしていたのだろう。
 オスカーは、ふとそう思った。










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