5
物憂げな瞳をあらわにするロザリアを前に、オスカーは時間を持て余していた。
声をかけても気のない返事を寄越すだけの彼女は、自分の残酷さに気づかないのだろうか。
自分ではない誰かの…恐らくはオリヴィエの面影を振り払おうともしないで、自分と共にいるロザリアの全てがわからなかった。
「ロザリア」
何度目かの呼びかけで、ようやく彼女はオスカーの顔を見た。
「ごめんなさい、ぼうっとしていたわね」
柔和な笑顔を浮かべたロザリアから、オスカーは思わず視線を外した。
罪悪感すら持たない様子の彼女の笑顔は、彼に苦痛しか与えない。
「君にとって、全ては1か0のどちらかしかないんだろうな」
「え?」
「…そして、もう0だ」
気分が悪かった。喉に手を入れ、胃の中のものを無理に吐き出そうとする時に酷似している。
吐きたくてたまらない。疲労しきった胃を捻じ曲げたところで、絞り出されるのは濁った息だけだ。吐き気と悪寒からは、永遠に逃げられない。
オスカーは、ふらつく体を押し留めて彼女を抱き寄せた。
だが、彼女の心は砂のようにさらさらと零れて消えていくように思えた。
心を通わせようだなんて考えもしていないだろうこの女が、女王補佐官であり、恋人でもある”ロザリア・デ・カタルヘナ”であることを信じたくなかった。
彼女のこの温もりすら非情だと思った。
この女は確かにロザリアなのだと認めざるを得ないほど、馴染み深い肌と息づかい。
彼の脳から体へと出された信号は、まだ末端には届いていないようだった。何も知らない彼の指先は、いつものように彼女の背を優しく撫ぜた。気持ち良さそうに小さくため息をつく彼女もまたいつも通りで、それを耳にした瞬間、彼の胸に激しい怒りが生まれた。
…終わるその日まで何も言ってはくれないのか?終わりは既に決定していて、そのタイミングすらも君が決めるのか?
どれだけ俺を傷つければ気が済むんだ?復讐をしているのか?
そうであるならば、何に対しての?
君の心を計りながら関係を続けられるほど、俺は器用じゃないんだ。
それなら今、俺が終わらせよう。
”終わらせよう” そう頭で繰り返すと、うすら寒くなった。彼の怒りは、発生した時と同じように唐突に掻き消えた。
唾液を飲み下して、オスカーは終わりを始めるために口を開いた。
「君はもう、俺を好きではないんだろう?」
耳に入る自分の声は哀れなほど震えていて、その事実は彼を打ちのめしたが、次に彼女が吐き出した台詞ほどの威力はなかった。
「…やっと、ね。やっとそうなれた…と思うわ」
予想外の返事は、衝撃に耐えるべく準備していたオスカーの心の一角を崩した。
力を失くしてだらしなくぶら下がった彼の両腕を、彼女は気遣わしげに見た。しかしそれだけだった。
「今までごめんなさいね。あなたは優しい人だったわ」
言葉、態度、彼女の全てがオスカーに混乱を与えた。彼は、不条理な悪夢にでも巻き込まれているような気分になっていた。
「もういいのよ。わたくしのために無理をして下さらなくてもいいの」
「…頭脳明晰な補佐官殿、馬鹿な俺にもわかるように説明してくれないか?」
棘を含んだオスカーの声に、ロザリアは驚いて目を瞠った。
「同僚に戻ってさしあげる、と言っているのよ?…本当は前から言いたかったの」
一つだけわかった、と彼は思った
何一つ理解し合えていなかったことだけがわかった、と。
「あなたの生き方の邪魔になることがわかっていても、言えなかったの。言うには、あなたを愛しすぎていたみたい」
「…過去形になっちまったのか」
オスカーの声には悲壮感が滲んでいたが、ロザリアはにっこり笑って首を振った。
「今見せてくれている、あなたのその優しさにすがっていれば、いつかわたくしだけを見てくれる日が来ると信じていたの。最後まで残れば、きっとなんとかなる…なんて。愚かね」
オスカーは言葉を持たない者のように、必死で首を振った。彼の発声器官は蝋で固めたように動かない。
「オスカー?なぜそんなに…悲しそうな顔をするの?」
何もわかっていない彼女に教えてやらなくては、と思ったのと同時に、彼の喉の蝋は溶けた。
「俺達は恋人同士だったよな?別れの台詞の選び方を間違えているんじゃないか?」
最後まで一緒にいる女はロザリアだと、彼も信じていた。彼女が信じることを止めてしまってからも。
「君が好きだったんだ」
「ええ…知っているわ。あなたを取り巻くたくさんの女性の中からわたくしを恋人にし続けてくれていたのですもの。感謝しているわ」
恋人の座を与える程度の愛情をくれて、ありがとう。
彼女の目は、そう言っていた。
「違う。君を愛していたんだ」
「嘘…でしょう?」
「君だけを愛していたんだ」
「嘘」
「嘘なものか!」
誰に信じてもらえなくてもよかった。その前に、彼には誰にも言うつもりはなかった。だが、自分が叫んだ瞬間のロザリアの顔を、オスカーははっきりと見たのだ。
嬉しそうなロザリアの笑顔を。
欲しがっていたおもちゃをようやく買ってもらえた子どものように笑った彼女の顔を。
彼女の表情が変化していく。
たった数秒の間に、忙しなく動く。
無邪気な笑顔の次に浮かべたのも、笑顔だった。
肉食動物のように目をギラギラとさせながら、口を大きく曲げた。
それは、勝者の笑みだった。
敗者…ロザリアにとって、その瞬間のオスカーは敗者だった。
彼を見下すように、笑った。
嘲笑うような視線が一転して、哀れむものに変わった。
悲しそうに自分の身体を抱いた。
もう、オスカーを見てはいなかった。ただ思い出に身を投じていた。
白い喉を震わせて、微かに呻いた。
そこでようやく彼女は戻ってきた。自分を戒めるように表情を改めて、言った。
「ごめんなさい」
オスカーは悟った。悟るしかなかった。
彼女に深い傷を負わせ続けていたことを。
これが最後であることを。
彼女が自分を愛してくれていたことを。
ロザリアは泣かなかった。
相応しい舞台で流すための涙を、過ぎ去った日々の中で使い切ってしまっていたのかも知れない。
何も言わなかったのは、お互い様だ。
……俺のルールに従う義理など、彼女にはない。
そうなんだな?オリヴィエ。
1から10まで自分で作り上げた自分の虚像に振り回されていたはずの俺は、今もそれから逃げ出せずにいる。
未練がましく彼女を追いかけることもできず、かといって恋しい女の再度の心変わりを待ち続ける愚直で誠実な男にもなれなかった俺は、最も安易な道を選んだ。皆がイメージする通りの俺を演じることで、手っ取り早く全てを上手く収めた。
失恋の痛手など次の女が癒してくれるさ、などと嘯き、オリヴィエと連れ立って歩くロザリアに『横にいる男に飽きたらいつでも戻って来いよ』と軽口を叩く。
あの日の俺は少なからず彼女の中の”俺”を変えたはずだったが、その翌日から俺が演じ続けている”彼女の思う俺”によって、あっけなく元通りになったと見える。
彼女に似た女と夜を共に過ごすことが多くなった。今はデスクの引き出しの中で光る指輪は、頻繁に手のひらの上に乗る。典型的な道化者に成り果てた自分を一通り嘲笑っては、彼女と過ごした日々を丁寧に辿る。何度かあった”幸福な一日”を思い浮かべると、焦りによく似た感情に追い立てられる。
なんとかしなければ、とんでもないことになる。大声で俺に忠告する誰かの声。
そうだ、何か手を打たなければ。そう思う。
思いつく限りの案を吟味して、実行するにあたっての優先順位をつける。何もしないよりはきっといいはずだ。
『いい加減にして下さらない?』
隣の男を気にしながらうるさそうに言う彼女の中にあった俺の虚像は、一日やそこらじゃ崩せないほどに強かったらしい。精々僅かに震えたくらいか。
短い単純なやりとりで、俺は俺の選んだ選択肢が正しかったことを知る。
声が警告する通りの未来が既に現実となったことを示す証拠は、雄弁な彼女の態度だけではない。それはあらゆる場所に潜んで機を窺っている。微かな希望を抱くたび、何度でも現れては巨大なハンマーを振るう。後に残るのは、後悔に名を変えた無数の欠片だけ。そのくせどれだけ分割されても無にはならない。
見上げた先には太陽があった。
海。吐息。水着の跡。彼女の匂い。声。手。笑顔。瞳。
瞳。俺を映さない瞳。落ち着きなく動く眼球。『嘘でしょう?』
目を伏せようとした時、視界の隅に赤い色が入った。その赤は、小さな靴の色だった。
蜂蜜色の髪の少女が屋敷の門の傍に立っているのを認めて、俺はようやく不毛な連想ゲームを終わらせることができた。10代半ばにしか見えない、本当の”お嬢ちゃん”に、俺は笑いかけた。
待ち伏せという大胆な行動を取ったはずの少女は、慎ましく頭を下げた。
あらぬ方向に視線をやって、たっぷり一分はそれをさ迷わせた後、ようやく俺の胸あたりに止めた。
彼女の瞳に涙がみるみる盛り上がるのを見て、俺は笑顔をほどけないまま首を軽く傾げた。
「…私、ロザリア様を見損ないました」
そう言って、彼女は顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。彼女の感情の振り子は自分に会うより早く、既に往復運動を繰り返していたようだ。
「ロザリア様はひどい方です。よりによって、オスカー様の親友でいらっしゃるオリヴィエ様と、なんて」
強い口調で話し始めた彼女は、好意を隠すこともせずに潤んだ瞳で俺の顔を見つめた。
それは違うぜ、お嬢ちゃん。何も知らないお嬢ちゃんが言う台詞じゃない。
冷静にそう答えようとしたが、少女の小さな唇から発せられた言葉がそれを許さなかった。
「オスカー様が…おかわいそうです」
見等違いも甚だしいと思ったのはつかの間だった。心の中のどこかにあったらしい膜が破れた。
少女はなおも涙を流し続ける。
嫉妬と、少女故の潔癖が吐き出させたのだろうと考えた自分を厭な男だと思った。
それが例え正しくとも、彼女の涙の裏に潜む心理などどうでもいいはずだ。
彼女は確かに、俺のために泣いてくれているのだから。
「…君の言うとおりだ。優しいお嬢ちゃん」
俺達に足りなかったのは、この涙によく似たものだったのかも知れない。
そう思ったが、”涙に似たもの”の正体を追求することは止した。考えずとも、そう遠くないうちに、自然にわかる日が来るような気がした。
なにより、今はただこの少女の好意に甘えていたかった。
「胸が痛いんだ。彼女がもう俺を見てはいないなんて、認めたくない」
いつの間にか降ろされていた瞼を上げると、少女の姿は霞んで僅かに揺らめいていた。
「彼女の振る舞いが、全て俺への復讐であるならばどれほどいいだろうと思うんだ。…なあ、お嬢ちゃんにはわかるか?」
「ごめんなさいオスカー様。私には……わかりません」
少女の遅い返答は、俺に何の感慨も抱かせなかった。そもそも、意味のある音として認識してもいなかった。だが、彼女の高い声の音は、心地よかった。
音の余韻を楽しむために沈黙した俺を見て、彼女は『気の毒に』とでも言いたげな顔をした。勘違いをしているのだろうが、間違いでもない。振られて平静を欠いている、気の毒な男には違いないのだから。
みっともないだろうが、しょうがないじゃないか。気取って笑い続けていられるはずがない。
今ロザリアを包んでいる腕は、俺のそれより居心地が良いようだ。彼女は毎日幸せそうに笑っている。そんなものは見たくもない。当たり前だ。
非はどちらにより多くあった?決まっている。優しく美しい彼女の方だ。
理由なんてない。逆に否定材料は山ほどある。
でも、そうだろう?とにかく今はそうなんだ。
「オスカー様…?」
怖々と、だが心から心配そうに自分の名を呼んだ少女に、俺は感謝を込めて礼を言った。
「君のおかげで、俺は正しい役割をようやく演じることができそうだ。ありがとう」
言葉のひとつひとつをはっきりと発音して、俺は彼女に背を向けた。無事に礼を言い終えることができたのは幸運だと思いながら門をくぐる。
瞼が痙攣して熱くなり始め、景色が歪む。自分が泣こうとしていることを、俺は知っていた。ぼやけきった視界の隅がクリアになると同時に水滴が落ちた。体が軽くなったような気がする。錯覚にしては、リアルだ。
味をしめてもう一粒落とす。かわいそうなオスカーの涙だ、と擦れ声で呟いた。
無数の風船がはじける音が頭の中に鳴り響いた。何かの答えや、ありとあらゆる感情が飛び出して、大きなうねりになった。
その波に飲み込まれるのは、そう悪い気分ではなかった。
end
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