3



 翌週も、さらにその次の週も何事もなく過ぎた。
 それから何度目かの月の曜日に、それは突然始まった。

 サイン済みの書類を手に、補佐官室の扉をノックした。
 どうぞ、と彼女の声が応じる。
 室内に入ると、意外な先客がいた。
「オスカー、アンタも書類持ってきたの?」
 笑って彼を出迎えたのは、夢の守護聖だった。
 人の顔を見るなり憎まれ口を叩いてくるこの男にしてはまともな応対だ、とオスカーは思い、驚いた顔をしてみせた。
「いや、俺の恋人に悪い虫が寄り付いている気がしてな。慌てて来てみると、どうだ。まったく、俺の勘はよく当たる」
 呆れたように肩を竦めながら、オリヴィエは言う。
「一番悪い虫は、アンタなんじゃないの?」
 見たくもないものを見てしまった、と言わんばかりに視線をオスカーから外した後、ロザリアに向けて真面目くさった顔を作った。
「アンタも、ホントによく考えた方がいいよ」
 心から彼女を案じているような、優しい口調がオスカーの勘に触った。
 …悪い男に騙されている、無垢な少女を諭そうとする親切な男といったところか。
 だが、演技にしては真に迫り過ぎているように彼には思えた。
「俺の恋路を邪魔するお前は、俺の愛馬に蹴らせた方が良さそうだ」

 舌戦に興じる目の前の悪友に、オスカーは違和感を覚えた。
 改めてオリヴィエの顔を見る。見慣れた顔に浮かぶ見慣れた表情。
 ああ、目だ。
 挑むような瞳の色を、彼らしからぬ大雑把さで隠している。いや、隠すように見せつけている。
「アンタじゃ無理だよ。…先はどうだか知らないけど、今のこの子を幸せにできない」

 オリヴィエの投げかける視線の意味を正しく理解したにも関わらず、オスカーは絶対の自信を持っていた。
 その理由もまた、視線だった。
 不穏な空気に満たされた部屋の中でロザリアが見つめているのは、オリヴィエではなく、オスカーただ一人だったから。
 だからこそ、彼の胸にはオリヴィエへの苛立ちだけが刻まれた。


 その夜、オスカーは大木の下にいた。
 新しい名を捨てて、また少し考えた。

 彼は肉体を信じない。







 白い朝。繰り返される朝。
 だが、胸に生まれた忌々しい塊を消せない朝。
 
「今日はカプチーノだけでいい」
 素っ気無く給仕に言って、彼は乱暴に椅子に腰掛けた。

 それはロザリアに対するものではなく、いつの間にか笑みを消し、口元を結んで自分を睨みつけていたオリヴィエに対する憤りから生まれた感情だった。
『お前ほどの男が、なぜこんなにくだらないことをする?』
 親友と呼ぶには抵抗があるが、オリヴィエとは親しい仲だと思っていた。
 妙に老成した同い年の友人は、得難い話相手だった。
 気楽な会話。青臭い理想論。自分達の存在意義。女の話。任期が終了した後の予定について…数え切れないほどの話題が卓上に上った。
 気の置けない、同時に気の抜けない同僚。

 生命すら脅かす可能性のある、危険な任務を共に任されたこともあった。
 誉められた事ではないが、示し合わせて良からぬ遊びを楽しんだこともある。
 その帰りにろくでもない男達に絡まれて、大立ち回りをする羽目になった。時々懐かしむ思い出だった。
「何を考えているんだ?」
 挑発的だった彼の瞳を思い浮かべながら、混乱した頭で問いかける。
 本気でロザリアを奪い取るつもりなのか?
「やれるものなら、やってみればいい」
 呟いて口の端を上げてみたが、すぐに”本日の定位置”に戻る。
 本当にくだらない。
 一人の女を巡って争う?馬鹿馬鹿しくて笑いが漏れる。
 
 くだらない。


 出されたカプチーノに申し訳程度に口をつけて席を立ち、屋敷を出た。
 やはり変わらぬ好天。
 恋人を迎えにいくため、彼は足を速めた。
 今日は定例会議だ。


 彼女は既に門の前で待っていた。
 控えめな刺繍が施された日傘を差して立っている姿は、貴婦人そのものだ。
 オスカーの姿を認めるなり心細そうな顔を作ったロザリアは、昨日の出来事を気にしているのだろう。
「今日は日差しが強いな」
「ええ…本当にそうね」
 普段と全く変わらぬ様子のオスカーが意外だったらしく、拍子抜けしたように頷いてから遠慮がちに続けた。
「オスカー、昨日のことだけれど…」
「なぜ浮かない顔をしているんだ?日に焼けることを恐れずこうして待っていてくれたことに、俺は感動してるんだぜ」
 言葉が途切れた隙に、彼は会話の主導権を握る。
 余計な心労をかけたくない一心で陽気さを装ってみたが、暗く曖昧な表情を浮かべたロザリアを見て思い直す。
 このままうやむやにしてしまう方が、彼女にとっては負担になるのかもしれない。
 ならば、聞くだけ聞いておこうか。そう考えて、彼は口を開いた。
「ロザリア」
「なにかしら?」
「オリヴィエは、君のことが好きなのか?」
 突然核心を突かれて動揺したのか、ロザリアはオスカーから瞳を逸らした。
「勘違いかもしれないけれど…そう感じるわ」
 どことなく肩の力が抜けたように答えた彼女は、重い荷物を降ろした時のように息を大きく吐いた。視線はオスカーに戻っている。
「何か言われたのか?」
「言われてはいないけれど…」
 言いづらそうに口籠もったロザリアの姿が、彼の神経を逆撫でた。
「そろそろ行こうか」
 不安げに顔を上げたロザリアに、笑顔を向けてキスをする。
「遅刻なんてしちまったら、陛下を叱れなくなるぜ?」
 手を取って強引に歩き出す。彼への怒りを彼女にぶつけるのはお門違いだと、自分に言い聞かせながらひたすら歩くオスカーは、彼女の顔を見てはいなかった。


 それからしばらくの間、オリヴィエと話す機会は得られなかった。
 意図的に避けられているのかも知れないと思うと、彼の胸は軋んだ。オリヴィエもまた、自分にとって必要な人物だったのだと思い知らされる。
 オリヴィエの部屋に怒鳴り込んで行く気にはなれなかった。
 そもそも、怒鳴るために必要な台詞が思い浮かばない。
 俺の女に手を出すな?
 無駄なことは止せ?
 何を言っても鼻で笑われるだろうし、本気でそんなことが言いたいわけでもなかった。

 何もできないまま、時間だけが過ぎて行く。
 ロザリアと過ごす時間は増えもせず、減りもしなかった。
 壊れてしまったオリヴィエとの関係を残して、いつも通りの日常が続く。彼女が原因ではあるが、彼女には関係のない憂鬱を見せたくはなかった。
 だが、そう考えるオスカーとは逆に、ロザリアは徐々に言葉を減らして行った。
 宥めても賺しても困ったように笑うだけのロザリアに、オスカーは困惑した。ゼフェルが聖地を出た日に浮かべたものと同じ笑顔だと思ったが、それが持つ意味まではわからなかった。
 誰かに話を聞いて欲しいと思う気持ちはあったが、相談相手として真っ先に頭に浮かぶ人物はやはりあの男で、そのたびに胸に重い石が積み重ねられた。
 一月以上も借りっぱなしだった書物を返すことを口実に、地の守護聖の執務室に向かうオスカーは、自分が置かれている状況を未だ理解できていなかった。
 彼の思考と行動は、この恋において全て後手に回っていた。

 
 少し時間を取ってほしい、というオスカーの頼みをルヴァは快く了承した。なにかにつけて飲ませようとする緑茶とかいうやたらと熱くて渋みのある飲み物と、塩っぽい上に固い煎餅という名の菓子を出されるかとオスカーは危惧したが、テーブルに置かれたのは意外にもコーヒーだった。
「聞きたいことがある」
「なんですかー?」
 前置きもなく切り出したが、特に不審がっている様子はない。やはり、彼は何かを知っているのだろう。
「ロザリアについて、何か気づいたことはないか?」
 言葉を選ぶように長く沈黙した後、ルヴァは短く言った。
「あなたはロザリアが好きなのですか?」
「決まっているだろう」
 苛立たしげに吐き捨てたオスカーに、地の守護聖は哀れむような視線を向けた。
「わかりました。聞きたいことというのは、ロザリアとオリヴィエのことでしょうかー?」
「わかっているのなら、余計なことを聞くな」
 テーブルを指で叩きながら言うと、ルヴァは首を振った。
「余計なことなんかじゃないですよー。とても大切なことです」
 
 ロザリアからもオリヴィエからも何も聞いてはいない。
 そう言ったルヴァに短く礼を言って、オスカーはすぐに席を立った。自分でもあまりな態度だとは思ったが、長くて退屈な説教もどきを我慢強く聞く気は全くなかった。
 オリヴィエとロザリアがよく会っているらしいことだけはわかったが、それは元々予想していたことだった。とんだ無駄足だ。

『私などに相談している暇があるのなら、彼女に会いにいくべきです』
『あなたとロザリアは、確かによく似ています。ですが…』

 なおも話し続けるルヴァに背を向けて、オスカーは扉を閉めた。










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