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 変わらぬものなどないと思っていた。
 だが、思っている、と思っていただけだったようだ。

 誰でもない、自分自身の身の上に、安っぽい恋愛映画のような出来事が降ってくるなど、想像したこともなかった。
 つまらないことをしてしまったと後悔しながら、どこかで喝采を上げる自分がいる。
 抱きしめた時、彼女は嫌がらなかった。
 ただ戸惑っていただけなのかもしれないが、それでも僅かな時を自分にくれた。

 理性的な彼らは、順調に、冷静に道を歩んできた。
 彼らの絆は強い。互いを理解し、共に力を合わせて共通の目的に向かって進んできたはずだ。いや、確定した未来と言うべきか?
 もちろん、自分は彼らではないので想像することしかできない。しかし、あながち見等外れでもないと思う。
 少なくとも、自分が入り込む余地などなかったはずだった。

 胸に燻る想いを彼女に告げても、誰も幸せにならない。それどころか自分以外の人間を不幸せにすらできない。どうにもならない。
 立ち止まった彼と彼女から、ほんの数秒だけ同情の視線を与えられる。それで終わりだ。彼らは何事もなかったように、塗装された道の続きを行くに違いない。
 それをわかっていながら、恋愛に身を投じられるほどバカでも、ロマンティストでもなかった。だいたい、面倒事は好きではない。
 ただ臆病なだけだろうと自嘲することもあったが、間違っているとも思ってはいなかった。勝ち目のない賭けに出ることに、何の意味がある?

 それは偶然だった。

 その日、夕方になっても弱まらない日差しから逃げるように、目についた小さなカフェに入った。時間帯のせいか客はまばらだ。
 いらっしゃいませ、の後に続く台詞はなかった。どこにでも座ってくれということだろう。
 窓に面したカウンター席に向かって歩こうとした時、見覚えのある色が目に飛び込んできた。紫がかった蒼の髪を持つ人物は、自分の知る限りただ一人だった。
 胸を細い棒のようなもので突かれたような気がした。
 音にすると、『トン』というような。

 彼女に接する時、無意識に”心の準備”とやらをしていたらしいことを知って、嫌になった。さらに憂鬱にさせてくれたのは、それをしないで彼女の姿を目の当たりにした今、うるさく響いている自分の心臓の音だった。
 平静を取り戻すには十分な距離だと判断したということもあったが、なにより気づかないふりはしたくなかったから、ウェイターに目配せをして彼女に近づいた。

 一番奥に設置されている目立たない席に一人で座っていた彼女は、背筋を伸ばして壁を見つめているようだった。このような場合、多くの人々は壁を背にして座るはずだが、彼女は逆だった。礼儀正しい彼女には、常に下座に座る習慣があるのかも知れないとも思ったが、それもなにか違う気がした。
 彼女の後姿は何者をも寄せ付けない雰囲気を作り出そうと努めているように思えたが、髪を纏めていることによって露出された白いうなじは、裏腹に無防備だった。

 声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。
 こちらを見上げて、安心したような表情を作った。なぜだろう。
 同席を認めてもらって席につくと、微笑んでメニューを手渡してくれた。華やかな笑顔だ。
 
 世間話のついでに彼女の恋人について触れると、意外な顔を見せた。
 いつも通り、ただ憎まれ口を叩いてみせただけであったのに、彼女は一瞬悲しげな目をした。それから何かに耐えようとするように微笑んで、水を一口飲んだ。
 幸せなのか、と陳腐な質問をすると、彼を愛していますわ、と言った。答えになっていないと思った。そして、本人ならまだしも、他人に向けて恋人への想いを口にする彼女は、彼女らしくなかった。

 イエスでもノーでもない?まさか。
 その答えを知ったのは、つい最近のことだ。
 そう、そのまさか。

 彼ら二人にとって最も大切なものを守るために、彼女が心を押さえつけていることに気づいた瞬間、視界が開けた。なぜ自分は気づいてやれなかったのだろうと後悔した。
 理性と感情の狭間で苦しむ彼女。胸の中で体を強張らせているロザリアを、自分なら救ってやれると思った。
 理性が消し飛んで、感情の赴くまま彼女を抱きしめてしまった今の自分なら、と。

 幕を上げた手が己のものである事実を何度も反芻するうちに、色を変えていく自身の気持ちが、確信させる。
 変わる。
 どう転ぶかはわからないが、確かに変わっていくだろう。

 渦巻く嵐に身を委ねることを決意して、無理に笑顔を作った。
 もう逃げ道は作らない。






 白い朝がやってきた。

 繰り返される日常の光を受けて、オスカーは気だるげに重い瞼を持ち上げた。
 昨夜の出来事は、目を覚ます直前まで見ていた夢のように近く、だが、やはり夢のようにぼんやりと霞がかっている。現実味がまるでない。覚醒するにつれて徐々に薄くなり、シャワーを浴び終える頃には痕跡すら残ってはいなかった。

 アボガドを使ったサラダと分厚いトースト、カリカリに焼かれたベーコンを胃に収め、カプチーノで締めくくる。満足したように軽く頷いて、窓の外を見た。
 青い空に白い雲。輝く太陽。絵に描いたような好天だ。
 近々、彼女を誘って泳ぎにでも行こうか。
 平凡なアイデアではあるが、オスカーはその思いつきが気に入った。
 ドラマティックな情事には、やはり少々食傷気味のようだった。

 手早く身支度を済ませ、全身を鏡に映す。
 出かけに、デスクの上に置かれた指輪を手に取って薬指に嵌めた。全て、無意識の内に取った行動だった

 何事もなく一週間が過ぎた。
 週末、ロザリアと一泊二日の旅行にでかけた。
 白い水着を身に着けた彼女は、ゆったりとしたフォームで泳ぐ。
 優雅な彼女に満足しながら、オスカーは付けていたサングラスを外した。

 貸切の海は、広く、美しかった。
 空も、恋人も、美しかった。

 彼女がバッグから日焼け止めを取り出す度に、楽しい応酬を繰り返した。
 ロザリアは、決して日焼け止めを塗らせようとはしない。
 女の身体に触るチャンスに恵まれない、哀れな男達のように必死になる必要はないが、頑なな彼女を困らせたくて、オスカーは何度も日焼け止めのボトルを奪い取ろうとする。
「もう、止めてちょうだい」
 淑女らしく、やんわりと言う。そして、その声とはアンバランスな、年齢相応のあどけない笑顔を見せた。

 二人で来る五度目の海。
 小さな白いホテルの庭には、やはり白いイルカの像が立っている。
 磨き上げられて光を放つそれが、彼女の気に入りだった。
 イルカ自体は、あまり好きではないらしい。
 初めてこのホテルを訪れた時、しげしげとイルカの像を眺める彼女に理由を聞いてみたが、特にないと言われたことを思い出した。
『俺を好きな理由を聞いても、特にない、と言われてしまいそうだな』
 彼が冗談めかしてそう言うと、ロザリアは慌てた様子で大きく首を振った。
 その夜、彼女は彼の美点を小さな声で数え切れないほど並べた。
 罪滅ぼしをするように一生懸命口を動かす彼女は、全身で愛を伝えようとしているようにオスカーには思えた。
 たった二年と少し前の出来事のはずだが、なぜかひどく懐かしかった。

 チェックインをする必要はなく、勝手知ったる足取りで最上階の部屋に向かった。
 開放された窓から潮風が勢い良く舞い込み、二人の髪を揺らす。
 窓の外に目を向けると、美しい景色が広がっていた。

 五度目の海で彼女が見せた笑顔と、並んで眺めたその景色。
 オレンジ色の空とそこに薄くたなびく雲を、オスカーは後に何度か思い出すことになる。
 穏やかで、輝かしい日々の象徴として。


 







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