窓から漏れる光に照らされて陰影を織り成している髪は、誘うように緩いカーブを描いている。
手入れにかなりの時間をかけているに違いない、つやつやとしたその黒髪に触れようとした手を止めて、眺めるだけにした。
『あなたが何者でも構わないし、一度きりでもいいわ。とても素敵だもの』
そう誘いをかけてきた女に名を聞くと、ありふれた名を名乗った。
本名ではないのだろうな、とオスカーは思った。
その女……今、腕にしがみつくようにして眠っている女に気取られないよう、細心の注意を払って彼女の細い腕をほどく。
「楽しかったぜ」
小さく言って、彼はベッドから抜け出した。息抜きは終わりだ。
回廊の出口は、鬱蒼とした森の中にひっそりと隠れている。当然、正規のものではない。
オスカーは、じゃりじゃりと音を鳴らしながら、迷いのない足取りで帰るべき方向とは逆の森の奥へと進む。
腰まで届く高さの細長い草が密生しているが、よほど注意を向けていなければ気づかない、ささやかな道がある。2年前まではなかったこの道は、オスカーが幾度も草を薙ぎ倒しながら往復するうちに、自然に作られたものだった。
目的の場所に着き、オスカーは額を手で拭った。
濁った湖が近くにあるためか、湿気がひどくて蒸し暑い。虫の羽音が耳の傍で鳴り、陰鬱な気分になる。決して心躍る場所ではないが、オスカーにはここを訪れる理由があった。
彼とロザリアは、もう三年来の付き合いになる。
試験期間中は、気障な男だと疎まれていたオスカーだったが、女王試験に敗れ深く傷ついていたロザリアを励ますうちに、彼女は徐々に心を開くようになった。
ただ単純に同僚として気遣っていたのが、功を奏したのだろう。
ロザリアの瞳が恋をする女の持つ特有のものに変わっていたことに気づかなかったのは、聖地一のプレイボーイだと自負している彼にとっては情けないことではあった。
だが、オスカーにも言い分はある。そう誤解をされがちだが、彼にとっても”女性”と”恋愛対象”が同義語というわけではなかったのだ。
…実際は、心ならずも『ハイエナのように鼻が利く』と悪友から評された彼が気づけないほど、彼女が打ちひしがれていたというだけのことだったが。
とにかく、彼女から”思いもよらなかった”恋心を告げられ、断る理由もないまま男女の仲になった。
なし崩し的に始まった関係は、傍目には何も変わらないように見える。
賢く、美しいロザリアは、彼に様々な刺激を与え、新鮮さが消える頃には安らぎをもたらした。
オスカーは、美しい女も、知的な女も、優しい女も知っていた。それら全てを兼ね備えた、魅力的な女もいた。もっとも、彼はその女には振られる格好になったが。
だが、オスカー自身も気づかないうちに(またしても、だ)、彼にとってロザリアは特別な人になっていた。
恋に落ちる瞬間の、目の覚めるようなときめきはなかった。ロザリアへの想いで胸を焦がすこともなかった。渇望するより早く、彼女が彼の腕の中にいたせいなのかも知れない。
彼は一度、順番が逆であればどうだったかと考えてみたことがある。
だが、答えは出なかった。
オスカーにとって、付き合い始めた当初の彼女と、現在の彼女の間にそう大きな違いはなかった。彼女の笑顔を好きになったのが、いつからなのかもわからなかった。理由を上げればきりがないだろうし、無いと言えば無かった。正直に言えば、やはりよくわからなかった。わからないことばかりだが、恋とはそんなものなのだろうと、納得した。
周囲の木々の生気を吸い取っているように思える、一際大きな木の幹にオスカーはもたれかかった。
この木の下で、様々な美点を備えた様々な女性達の名前を、何度となく捨ててきたのだ。
彼女達に対する罪悪感を持たないわけではなかった。
それなりに彼の胸は痛む。だからこそ、本名を名乗らなかった彼女には礼を言いたい気分になっていた。
いつもそうするように、オスカーは、その木の根元に彼女の名を捨てた。
森を抜けると、涼しい風がオスカーの頬を撫でた。儀式を終えた彼は、さっぱりとした顔で帰途に着く。
残り香を楽しんでいた頃もあったが、それを止めたのは、やはりロザリアのためだった。
聞く者を呆れさせるに違いない、本末転倒も甚だしい考え方であることを自覚はしていたが、どこかで線引きをしておきたい気持ちが生まれていることは確かだった。
今は夢の中にいるだろう彼の恋人が、彼を僅かに変えた。
星々が所狭しとひしめき合っている夜空を見上げたオスカーは、自分が腕を擦っていることに気づき、数時間前に時間を共にした女性を脳裏に浮かべた。
彼女は自分で考えているより、ずっと弱いのだろう。
割り切った女のように見えたが、行為の後に浮かべた表情はどこか寂しげだった。
…そう思いはしても、彼女の寂しさを埋めてやるつもりはなかった。
「自分の発言には、責任を持たないとな」
もう会うこともないだろう、不安定な魅力を持つ女性に向けて、オスカーは呟いた。
この上なく楽な考え方だと、自覚もしていた。
目に映る満天の星空は、彼に幼い頃を思い出させる。
父親と望遠鏡を覗いた時に感じた胸の高鳴りが、鮮やかに蘇った。
父親と同じように、大人になったら無条件に一人の女性を愛し、幸せな家庭を持つのだとぼんやりと考えていた遠い日。
その時は考えもしなかったが、きっと父親も、母親と結婚をするまでに幾人かの女性を愛したのだろう。時には、複数の女性の間でフラフラしたことがあったのかも知れない。
「そう、やはり俺と同じように」
そう呟いて、彼は考えた。
何もかもを知っていて、決して責めようとしない恋人は、良き妻になってくれるだろう。…そして、俺も良き夫となろう。
自分の考えに気恥ずかしくなったオスカーは、口笛を吹き始めた。
この宇宙に住まう者なら誰でも知っている、壮大で美しいこの旋律は、宇宙の創成期に作られたのだと、幼い頃のオスカーは、学校で習った。
それが鳴り響く大広間の最も高い場所に座す女王。
その傍で、凛とした表情で立っている年若い補佐官。
平静を装ってはいるが、その時の彼女が白い頬をやや上気させていることをオスカーは知っていた。
誇り高い瞳を思い浮かべると、自然に足が止まった。
彼女が遊びを黙認してくれなくなる日が、そのうち来るかもしれない。ふと彼はそう思った。
多分、自分は誓うだろう。それを実行できるかどうかはその時になってみないとわからないが、少なからぬ努力をするはずだ、と彼は考えた。
「…いや、違うな」
顔を上げて、再び歩き始める。
実際のところ、見知らぬ女性達との出会いやその先にある行為が、惰性になっていることは否めなかった。
「おそらく、俺は彼女の願いを完璧に聞き遂げることができるだろう。今すぐにでも、だ」
だが、そう考える現実の彼は、彼女以外の女性とベッドを共にして、私邸へと帰る道の上にいる。
ロザリアではない女性を特定の恋人だとしていた過去、やはり彼は他の女性を求め続けていた。その習慣を止めない理由は、欲望ではなかった。
もちろんそれもあったが、最も大きな理由は、彼女が何も言わないことだった。
彼は、それを自分のような男に取って都合のいい美点ではあると思っていたが、物足りなさを感じることもあった。
しかし、彼女の唇から発せられた咎めの言葉は、今の彼にとっては立派な理由になり得るはずだった。
「できれば、その日が一日でも遅く来てくれるとありがたいな」
なにげなく呟いて、オスカーは笑い声を漏らした。男というのはどうしようもない生き物だと、愉快な気分になった。
オスカーの脳裏に、少年の顔が浮かんだ。
かつてロザリアに恋をしていたらしい彼は、今はもう聖地にはいない。
赤い目の、若い暴れ馬のようだった彼が聞いたら、”男”とひとくくりにするな、とそれこそ毛を逆立てて怒り狂うだろうなと考えて、オスカーは笑った。
やっとここから出られるぜ、と安堵したような表情で去っていった少年は、何かロザリアに話をしていったようだった。
後で彼女に聞くと、最後の言葉は『さっさと目ェ覚ませよ』だったと妙に神妙な顔で言った。
最後までゼフェルらしい、と彼が言うと、ロザリアは困ったように微笑んだ。
どちらにせよ、もう少し自由を楽しむことになる。
「予定調和、か。大いに結構じゃないか」
眼下に見慣れた景色が広がっている。
あと10分も経たないうちに、木々の間から屋敷が見えてくるはずだ。
星達が俺に魔法をかけたようだ、とオスカーは思った。
「何を考えているんだか…」
俺らしくもない、と続けてオスカーは憮然とした表情を作った。
彼自身の言う通り、普段、彼は考えない。
考えるほどの悩みは、何一つないからだ。
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