結局、僕の涙は落ちなかった。
 それより先に、彼女が顔を上げたから。


 目を覚ましたロザリアは、僕のためにたくさん泣いてくれた。
 泣かないでって言いながら、本当はもっと泣いてほしいって思ってた。
 涙の数が、僕への愛情と比例しているだなんて幼稚な考えだよね。
 ごめんねロザリア。

 間もなく、僕は聖地を出て行かなくちゃいけない。
 毎日のように会いにきてくれる恋人に、何度も『一緒に来て』って言いそうになったけど、結局言えなかった。
 もし僕と一緒に行きたいと考えているのなら、きっと僕が言わなくても彼女はそうするに違いない。取捨選択ができる人だから、何も言わないことが彼女の答え。



 その日も、彼女は僕の私邸に来てくれた。
「遅くなってごめんなさい」
 仕事を終えてから急いでここに来たんだろう、息を切らせて謝るロザリアに、僕はアイスティーを勧めた。
 僕の今の仕事は、後任となる同い年の男の子への引継ぎくらいだから定時には終わる。今までと同じように補佐官としての職務を忙しそうにこなす彼女を少し羨ましく思いながら、当たり障りのない話をしていると、突然ロザリアは改まった表情になった。
「正式な退任日は、今月の二十日に決定いたしましたわ」

 補佐官の顔と恋人の顔。どちらを選ぶか悩んでる途中のような表情でロザリアは言った。

 覚悟は決めているけれど、具体的な数字を出されたら胸が痛くなる。

 どうして僕は出ていかなくちゃいけないんだろう。
 どうして僕はロザリアと一緒にいられないんだろう。
 どうしてロザリアは僕と一緒に来てくれないんだろう。

 いやだよ。

 でも、口に出せたのは、そう、という言葉だけだった。

 昔の僕なら、きっと言えたんだろう。
 行きたくないって。一緒に来てって。
 そしてロザリアに呆れられるんだ。

 しかたないでしょうって。
 あなたを大切に思っているけれど、一緒に行けないのはわかるでしょうって。
 わたくしの人生は、わたくしのものなのよって。

 君と出会った頃より、君のことずっとわかるようになった。
 そのことが、今は辛いんだ。

「マルセル、あなたを尊敬しますわ」
 声を震わせて、ロザリアは言う。
「わたくしがあなたであれば、もっと取り乱してしまうに違いありませんもの。今でさえ、少しでも気を抜くと泣き出してしまいそうですから」
 だけどもう、君は泣かないだろう。
「ありがとう」
 そう答えた僕を、眩しそうに見た。
 誇らしさと虚しさが僕の胸を満たして、上手く考えがまとまらない。
 そのまま、つい未練がましい言葉を言ってしまった。
「でも、誕生日までいられないのは残念。十八歳になった僕を君に見て欲しかったから」
 しまったって思ったから、明るい顔を作ってジョークにしてしまおうとした僕より先に、ロザリアが言った。
「そのことですけれど、一つ提案がありますの」
 緊張した顔でロザリアは続ける。
「少し早いけれど、今日、誕生日プレゼントをお渡ししようと思うの」
「…ありがとう。とても嬉しいよ」
 ロザリアは、顔を上げたままはっきりと言った。
「わたくしを、差し上げますわ」
「なに…言ってるの?」
「いや、かしら?」

 いやなわけないじゃない。
 でも、ロザリア…でも。

「僕は、いなくなっちゃうんだよ?」
「ええ。ですから…近いうちに、とこの間言いましたわよね?」
「だけど、あの時はもう少し待ってって言ってた…」
「あなたと、と決めてましたの」

 僕は、頷いた。
 僕だってロザリアとって思ってたから。








 寝室へと案内している間中、僕はドキドキしていた。
 ロザリアも緊張しているみたいで、いつもより早足で歩いていた。
「ちょっと待ってて」
 部屋に入ってすぐに、僕はキッチンに戻った。
 喉が渇いていたのもあったけど、落ち着きたかったから。

 息を整えてから冷たいお茶をトレイに載せ、ゆっくりと寝室へ向かう。
 自分の部屋なのに、勝手に入るのは悪い気がしたからノックをしたけど、返事はなかった。
 嫌な予感がしてドアを開けると、ロザリアが怯えたようにこちらを見ていた。
「…マルセルでしたの。もう、驚かせないで」
 安心したみたいに笑ったから、僕もつられて笑った。

 ベッドサイドのテーブルに飲み物を置いて、気がついた。
「ロザリア?どうして立ったままなの?」
「椅子がないのですもの」
 うってかわって眉を吊り上げながら言う。抗議してるって感じだ。
「ベッドにでも座ってくれればいいじゃない」
「そんなお行儀の悪いことはできませんわ」
 すまし顔で言うから、僕も言ってやった。
「一人用のベッドに二人で入るんだよ?そっちの方がお行儀悪いんじゃないの?」

 一瞬詰まってから、ロザリアは微笑んだ。
「ふふ、本当ですわね。では失礼しますわね」
 あっさり言い合いが終わったから、少し拍子抜けしてしまった。
「…やけに素直なんだね」
「あら、もっと続けたかったの?」
 意地悪く言うロザリアは、僕の気持ちがわかっているんだろうか。

 僕は、ロザリアが欲しかった。だけど今は、一緒にいれなくなるのにいいのかって迷ってる。
 ロザリアはいいって言ってくれてるけど、なんだか不安だから、少しでも先延ばしにしたいって思いがどこかにある。
 それに、いつものようにふざけあって話していると、僕が守護聖じゃなくなることが嘘みたいに思えるから、もうちょっと言い合いしてたかったんだ。
 単純に、なんとなく怖いって思う気持ちもある。そういうのが全部混じって、僕は少し臆病になってた。




 ベンチに腰掛ける時はそんなことしないのに、ロザリアにくっつかないように少し間を空けて、僕もベッドに腰掛けた。

「…この隙間はなにかしら?」
 やっぱりロザリアは意地悪だ。でも、なんでこんなに落ち着いているんだろう。
「マルセル?」
 動きが止まった僕に彼女がかけた声に追い立てられるように手を握って、ロザリアの顔に僕の顔を近づけた。距離は二十センチくらいしかない。
「いいんだよね?」
 ロザリアは一瞬だけ目を逸らしたけど、気を取り直したように僕を見た。
 僕は、顔と顔の距離をなくした。

 柔らかい胸の膨らみを触って、たくさんキスをした。
 こういう時にどうしたらいいのかあまりわからないから、とにかくロザリアが不愉快な思いをしないようにと、彼女の様子を見ながら少しずつ服を脱がした。
 こうなるってわかってたら、もっと勉強したのになあって変な後悔してたら、ロザリアが咎めるように言った。
「もう、そんなに見られたら恥ずかしいですわ」
「そうだよね。ごめんね」
 早速嫌な気持ちにさせてしまったと思って謝ってから、気がついた。
「電気も消した方がいいよね?」
 ロザリアは、決めかねてる様子で黙っている。
「もし君さえよければ、僕はつけてたいな。恥ずかしいだろうけど」
 怒られるかなって思ったけど、勇気を出して言ってみた。
 いっぱい覚えてたいから、ロザリアを見てたいんだ。
「…構いませんわ。少しでも多くのあなたを見ておきたいですから」
「ありがと。僕と同じこと思ってくれて」
 そう言っておでこにキスをすると、ロザリアは眉を動かした。
 喉の奥で、何か音がしたみたいだった。
 多分、涙が出そうになったんだろう。僕がそうだったから、そう思った。
 
 白い白い体。
 どこを触っても柔らかくて、力の加減がわからない。
 ロザリアは、時々短い声を出す。
 四年も一緒にいたのに、まだ知らない声があったんだって思った。
 その声はとても色っぽくて、僕はゾクゾクした。
 無我夢中でロザリアの中に入ると、悲鳴みたいな声がした。
「痛い…?」
 ロザリアは、苦しそうな顔を隠して、笑顔を作った。
「そ、んなこと、ありませんわよ。んっ…とてもきもち、いい、ですわ」
 嘘を吐いてくれてる。
 ゆっくりと動かすと、僕の体全体に甘い痺れみたいなのが広がった。
「マルセルは、どう、ですの?」
「そりゃ、僕は…気持ちいいけど…ね、無理はしないで?」
 あんまり痛そうだったから、心配になって尋ねると、少し怒った顔をした。
「無理なんてしてませんわ。わたくしは、大丈夫」
 彼女の手が僕の首に巻きついた。
「本当に大丈夫だから、ね?お願い、わたくしを信じて」
 ロザリアの顔には、強い決意のようなものが見える。
「ほら、動いて?」
 ロザリアの声に導かれて、僕は再び動き出した。
「ああ、気持ちいいわ、マルセル」
 十七歳だった君は、女王試験を経て補佐官になった。
「好きよ。あなたがとても好き」
 ファーストキスだって言ってたよね?僕がそうじゃないって知って、焼きもち焼いてくれたよね?
「マルセル……」
 優しい声を出してくれてるけど、震えてるじゃない。
 ごめんね、ごめんね。
 僕より、本当は君の方が怖いんだよね。僕がしっかりしてないから…僕が遠くに行ってしまうから…君にたくさん気を使わせてしまってるんだよね。
 貴族のお嬢様だったんだもの、一生を共にする人としかしてはいけないことだって思ってたはずだよね。
 それなのに、もう会えなくなる僕なんかにこうやって…。

 こんなに大切に想ってくれてたってこと、知らなかった。
 好きでいてくれてるのはわかってたけど、君の優しさと愛情を、僕は知らなかったんだ。
「ごめんね、ロザリア」
 一緒にいれなくてごめん。ちゃんとわかってあげられなくてごめん。
「ねえ、わたくし、とても嬉しいのよ。だから悲しまないで」
 ロザリアの顔に、僕の涙が落ちて行く。

 僕は声を上げて泣いていた。
 ロザリアに見守られながら、泣いていた。


 







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