17
こちらを見つめる視線がなくなったのは、あれから半年ほどが過ぎた頃だった。
彼が自分に当たり障りのない態度で接するようになったのは、何かを諦めたからだろう。
補佐官としてのロザリアにとっては、ありがたいことだった。
封じ込めた思いが溢れ出ることを防げたのだから。
我ながら、ゼフェルへの執着がおかしく思える。
だが、その想いを捨てようとはもう思わなかった。
抱え続けているうちに、それが自分の心の一部になっているような気すらするようになっていた。
彼の愛を渇望して、手に入れることはできなくて、どうにもならない気持ちを整理できない自分に嫌気がさしてはいたけれど、ゼフェルを愛さないわけにはいかなかった。
違う男性に心を奪われたことを悔やんだ夜もあったが、くだらない後悔はすぐに消えた。
自分の馬鹿さ加減にはほとほと呆れていたが、オスカーに惹かれたことを過ちだとは思えない。過去に戻っても、きっと同じ事を繰り返すだろう。
しかし、それでも常に後悔と共に歩いて来た。
何に対しての後悔かはわからないにも関わらず、悔やみ続けてきたのだ。
その人の執務室の扉の前に辿り着いたロザリアは、反射的にノブを回した。
不在を確かめるのが怖かったから。
そのまま扉は開いた。
なぜか部屋の中央に立っていた部屋の主は呆気に取られている。
突然の訪問を不審がっているのだろうか。当然だがノックもしないで入室したことにも呆れてもいるだろう。
でも今は、説明などしたくない。
ただ、好きだと伝えたい。
自分以外の者にとっては、遠い過去の話だとわかっている。
鼻で笑われるかもしれない。
過去に捕われ過ぎた女だと同情され、宥められるかもしれない。
それならそれで泣けばいい。
伝えなければ、泣くことすらできないのだから。
「ゼフェル様…」
呼び掛けたはいいが、後が続かない。
突拍子もなく想いを告げてしまいそうだ。
遅いだろうが、挨拶だけでもした方がいいのだろうか。
―――――――どんな顔をして?
「ロザリアって呼んでいーんだよな?」
困ったようにゼフェルは言った。
「様付けでおめーがオレを呼んでんだから…そういうことなんだよな?」
彼にとってもいまさらではないのだと、ロザリアは解した。
時がほどけていく。
「あなたが、好きです」
滑らかに言葉が出てくる。
「もっかい聞かせてくんねーか?」
ゼフェルは、驚きも質問もしない。ただ、嬉しそうに微笑んでいる。
「あなたが好きですわ。バカみたいですけれど」
駆け寄ってゼフェルを見上げる。そして思わず手で頬に触れた。
途端に抱きすくめられる。
「『バカみたい』とかはいらねーんだよ。…オレのこと好きだって、何回でも言えよ」
静かで、真剣な声。
「好きですわ。大好きですわ」
「まだ足りねー」
まるで何度も見た幸せな夢のようだ。
愚の骨頂だろうが、思わずにはいられない。
「わたくし、今なら死んでも構いませんわ」
「バッカ、何言ってんだよ」
「だって本当にそう思うのですもの。他に何て言えばいいのかわからないくらいに…幸せです」
「本当に…オレのこと、好きなんだな」
納得したように言う。
「実感ってやつ、ちょっとずつ湧いてきたぜ。…もっと、もっと聞かせろよ」
「…さすがに恥ずかしくなってしまいますわ」
ロザリアが小さな声で訴える。
「四年間ずっと聞きたかったんだぜ?全然足りねーよ」
更に小さな声でゼフェルは呟いて、続ける。
「誰にも気がねしなくていー、後にも先にも但し書きなんてねー…オレだけへの『好き』なんだよな?」
「ええ…ええ!ゼフェル様!」
心から頷くと、頭上から嬉しそうな笑い声が落ちて来た。
「オレも、好きだぜ」
繰り返す。
「ロザリアがすげー好きだ」
耳に心地よく響いていたゼフェルの鼓動がさらに速くなった。
「おめーに好きだって言うのも四年間我慢してたんだぜ?だからオレもおめーに嫌って言うほど聞かせてやる」
掠れた声がロザリアを熱くさせる。
幾分逞しくなったように思えるゼフェルの胸に顔を押し付けると、太陽の匂いがした。
「おっ…おい、何やってんだよ」
ゼフェルにもっと近づきたくて体を押し付ける。
体の表面を出来得る限り触れ合わせたが、まだ心許なくて力を込めた。彼の手で髪が撫でられた。
どちらともなく顔を寄せ合って、唇を重ね合わせる。
熱い唇に、頭の芯がぼうっとする。
唇を離すと、目を細めて微笑んでいるゼフェルがいて、時間が伸び縮みしているような感覚に包まれた。
騒がしくて楽しい日々の中で見せてくれた笑顔がありありと蘇る。
見る者にきつい印象を与える目はあの頃と変わりないけれど、精悍な顔立ちを持つ青年になった。
一番大切な、でも最も遠かった人。
今、その人の腕の中にいる。
額に、頬に、瞼に、首筋にキスが落ちてくる。
それが嬉しくて、ロザリアは背伸びをしながらゼフェルの頭に手を回し、引き寄せて唇にキスをした。
探るようにロザリアの唇を甘く噛みながら、ゼフェルは低く吐息を漏らす。
それすらも飲み込んでしまいたい衝動に駆られるのは、ゼフェルが言うように足りない、からなのだろう。
どんどん欲深くなっていく。
「すげー怖かった」
「え……?」
聞き返すロザリアの耳元に、口を寄せて囁く。
「オレん中だけで続いてて、おめーにとってはもうとっくに終わっちまってんじゃねーかってな」
「…わたくしもそう思っていましたわ」
「今こうやっておめーが腕ん中にいるから笑って言えるけどよ、時々変なこと考えちまってた」
「変なことって?」
もう一度聞き返したロザリアを、しばらく見つめる。
「普段仕事で顔合わしたりする時のおめーの事務的な態度見てたらよ、なんか全部夢かオレの妄想だったんじゃねーか、とかよ」
何も言えずにいる様子の彼女の手を取る。
「でもよ…おめーの中にも、オレはいたんだな」
ロザリアの胸に、ゼフェルの言葉が響いた。
笑顔を見せるゼフェルが愛しくてたまらない。
「あなたを愛していますわ」
言葉にできる幸福。
触れ合える幸福。
思いを確認できる幸福。
「長いことかかったけどよ、無駄じゃなかったって思えんだ。上手く言えねーけどよ…なんとなくそう思うぜ」
繋いだ手が強く握られた。
「オレら、これで終わりじゃねーよな?こっから前に進んでいくんだよな?」
手に力をさらに込めて、終わらせてたまるか、と呟く。
そして、握っていたロザリアの手を取り直したかと思うとゼフェルは急に赤くなった。
「…ゼフェル様?」
ぎこちないながらも恭しくロザリアの白い手の甲にキスをして、またロザリアの顔を見つめる。
「今度は、おめーがオレを待ってろ」
無茶を言ってるのはわかってっけど、と語気を強める。
「おめーじゃねーとダメなんだよ。…なあ、おめーだってそうだよな?」
どうしてこの人はいつもわたくしの望みを叶えてくださるのかしら。
「約束をする、ということですわよね?」
「ん?…なんか変なこと聞くんだな、おめー」
気が抜けたのか、苦笑いをしている。
「でも、まあ…そうだな。約束が欲しいんだ」
―――――――約束
「ええ、わかりましたわ」
「おっ、おめーそんなあっさり決めちまっていーのか?意味わかってっか?」
わたくしは何も怖くない。
出口が見えなかったこれまでに比べれば、心の拠り所があるのだから。
今、この時からは、進むべき道がはっきりと見える。
「わたくしはあなたが好きで、あなたもわたくしを好きと言って下さる。だからわたくしは待ちますわ。何かおかしくて?」
すぐに逢えることが決まっているような口調で、ロザリアは言う。
「いや、そーじゃなくて…いっか」
照れ笑いをする。
「できるだけ早くサクリア枯らして、おめーを迎えに行くからな!なんかよ、もうすぐお役御免って気がなんとなくすんだよな」
「うふふ、そうかもしれませんわね…いえ、そうなりますわ」
ゼフェルの顔が、パッと明るくなる。
「そっか!おめーがそう言ってくれると、そうなるに違いないって気がしてきちまうぜ」
もしも、そうならなくても。
「でもよ…もしもよ、10年待っても…いや5年待っても…ってかそんなに待たせねーけどよ!もしも、だ。おめーの前に現れなかったら、よ…」
言いかけるゼフェルの唇を、指で止めてキスをする。
「わたくしが待ちたいから待つのです。どうすることもできませんわ。ゼフェル様のお気持ちも、そうでしょう?」
悲しい想像をしたのだろう、ゼフェルは苦しそうに溜め息をついた。
「残酷なこと言ってんの、わかってんだ。10年なんて聖地では1年足らずで…でもよ、オレはもうおめーと離ればなれでいたくねーんだよ。本当はいつも一緒にいてーんだ。だから、せめて心だけでも、いつも一緒だって思ってたいんだ」
「ですから、御安心下さいまし。わたくしは、いつまでもあなたを待ちますわ」
待つなと言われても勝手に待ちますけれど、と誇らしげに付け足す。
「…サンキュ。おめーの好きなようにしていいって、言いてーんだけど…おめーを離したくなくて、やっと、やっとオレはおめーを手に入れて…チクショウ、何言っても情けねーな」
「ですから、わたくし達の気持ちはどうすることもできませんでしょう?サクリアの方がわたくしたちに合わせるしかないのですわ」
悪戯っぽく笑って片目を瞑り、言い放つ。
「大丈夫ですわ、すぐにまた逢えますわ。わたくしが言っているのですもの。そうなると思うのでしょう?」
躊躇って、そして大きく頷いてゼフェルは囁いた。
「ぜってーおめーを幸せにすっから」
自分の言ったことに照れたのか、そっぽを向いて言うゼフェルに、ロザリアは笑った。
―――――――そうならなくても。
「わたくし、ずっと待っていますわ」
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