15
時間は、確実に流れて行く。
必要な一歩を踏み出せなくても、時はそれを待ってはくれない。
だから、誰しもが苦々しい思いで振り返る。
気づかずに、湯水のように浪費していた自分を。それを教えてくれようとしなかった世界を。
「レイチェル…淋しくなるけれど、私達がしっかりしなくちゃ」
栗色の髪をした女王が、補佐官に優しく声をかけた。
「うん、わかってる…」
「久しぶりに、ロザリア様に困った顔されちゃうよ?」
「…そうだネ。でもさ、なんでサクリアって尽きちゃうんだろ」
ぼんやりと独り言のように呟いたレイチェルに応えて、アンジェリーク・コレットも俯いた。
「本当ね。…理不尽だと思うわ。住み慣れた世界から聖地に。そして聖地から、もう誰も知っている人はいなくなってしまった下界へ。これってどうしようもないのかしら」
「アンジェリーク」
「どうして女王や守護聖はお役目を終えたら聖地から出なくてはいけないのかしら…」
金色の髪を持つ女王の御代は、5年続いた。
その間、彼女は一人も守護聖を失わなかった。
アンジェリーク・リモージュが聖地に来て以来、未だサクリアの衰えが見える守護聖はいなかったためである。
彼女はその限りない慈愛で宇宙を包み込み、惜しみなく力を注いだ。
歴代の女王はその姿を補佐官以外には見せなかったと記述に残っているが、アンジェリーク・リモージュは前例には従わなかった。
守護聖やアンジェリーク・コレット達、 果ては聖地に住まう人々にまで顔を見せ、気さくに声をかけた。
民から愛された女王だった。
その補佐官、ロザリア・デ・カタルヘナは、時として破天荒な行動を取ろうとする女王を上手く窘め、
政に関する采配や女王のスケジュール管理を完璧にこなし、宇宙を安定に導いた。
そして、誰よりも女王の苦しみや重荷を理解し、尊敬していた。
この二人と、アンジェリーク・コレットとレイチェルは『仲良し』だった。
『仲良し』という言葉は、あまりにも似つかわしくないだろうが、やはりそのようにしか言い表せない。
最初は、宇宙を統べる『女王陛下』と『その補佐官様』だったが、年月が経つうちにその関係は少しずつ変わって行った。
もちろん、ずっと一緒にいたわけではなかったが、様々な困難に共に立ち向かってきた。
新しい宇宙を預かった二人が悩んでいる時は、さりげなく助言をし導いてくれた。
それぞれの意見が違って、衝突したこともある。
雲の上の人ではない。尊敬すべき先輩でもあり、友達、なのだ。
だから、彼女らを縛る制度や理が憎くなる。
アンジェリークの沈んだ様子を見て、レイチェルが慌てて口を開く。
「でもさ、陛下もロザリア様も、お二人ならきっと大丈夫だよ!」
「…ねえ、もう何とも思っていらっしゃらないのかしらね?」
「え?何のコト??」
「ほら…お付き合いされてたでしょ?」
レイチェルは、記憶を呼び起こす。
一時的にではあるが、聖地中に彼らの噂が飛び交っていたことがあった。
当時は本当に心配したものだったが、それはすぐに収縮し、雲散霧消した。
その噂は確かに真実ではなかったが、全くのデマでもなかったのにも関わらず、だ。
そうなったのは、いくつかの要因のせいだとレイチェルは見ている。
まず、当人達が噂を全く相手にしなかったこと。
(反応がないと騒ぎ立ててもつまらないものなのだろう)
スケールで遙かに上回る一般人の醜聞が毎日のように報じられていたこと。
(現在もそうだ。何のニュースもない日など、ない)
そして、何よりも補佐官の凛とした美貌が大きな抑止力となったのだ。
『あのように知的で、清廉な美貌を持つ有能な補佐官様が、そのようなことをなさるわけがない』
『噂は噂でしかないだろう。あの方の前でもお前はそれを言えるのか?自身が恥ずかしくなるのではないのか?』
このような声を方々で聞き、レイチェルは安心した。
ついでに、やはり見た目というのは最も重要なのだと再確認したものだ。
ふと、マルセルの顔が浮かんだ。
『ロザリアはひどいよ』
彼はただ、怒っていた。大切な友達と、世話になっている先輩を傷つけられたと憤っていた。
『僕は、好きな人を悲しませたりはしたくない』
そう言って、少し物言いたげな瞳でこちらを見た。
『でも、色々あるんじゃないんですか?ワタシにはわかりませんケド』
なんとなくそう言ったら、ひどく悲しげな顔をして黙りこんだ。
随分昔のことだ。
当時、緑の守護聖とは親しくしていて、二人でよく会っていた。
デートというよりは弟と遊んでいるようなものだったけれど、とても楽しかった。
今は互いに大切な人がいるが、時々一緒にお茶を飲むくらいは親しく付き合っている。
美しい青年に成長したマルセルが、いつか教えてくれた。
『実はね、僕の初恋の相手はレイチェルなんだよ?』
とても嬉しかったから、半分冗談、半分本気で応えたものだ。
『あーあ!じゃあその時にさっさとワタシのものにしちゃえば良かった…もったいないことしちゃったな』
そして二人で笑った。
「ちょっとレイチェル、聞いてるの?」
目の前の女王は、少し頬を膨らませている。
こういうところは変わってないな、と嬉しく思いながら会話を続ける。
「ゼフェル様とオスカー様、でしょ?」
「よう、ゼフェル」
「…どういう風の吹き回しだ?」
オスカーは、周りを見回した。
鋼の守護聖ゼフェルの執務室は、綺麗に整頓されている。
「お前こそ、どうしたんだ?妙に片づいてるじゃないか」
「うるせーよ」
座ったままでは落ち着かなくなって、ゼフェルは椅子から立ち上がった。
公的な場所では最低限の礼儀を保てるようにはなっていたが、
プライベートでは全く関わることがないままに時間だけが過ぎていた。
他の守護聖も、このことについては何も言わなかった。
ルヴァでさえ、だ。
そして今、数年ぶりに一対一で言葉を交わしたが、ゼフェルの心は揺れなかった。
オスカーへの憎しみの残滓を、自分の中に見つけることはできない。
それは結局、やはり彼女がオスカーをも選ばなかったからなのだろう。
しかし、正直なところ今日だけは会いたくなかったというのが本音だ。
「で、何の用だよオッサン」
「ようやく大人の魅力が身に付き始めた俺に向かってオッサンはないだろ。…本当にお前はまだ坊やなんだな」
「オレはもう、ガキじゃねーよ。」
軽く受け流すゼフェルを見て、オスカーは微笑みを浮かべた。
「少しは成長の跡が見られるが、やはり子どもは子どもだ」
「オレとおめーが初めて会った時のおめーよりは、年上だぜ?」
オスカーは、一言一言を噛みしめるように、ゆっくりと言う。
「お前くらいの年齢の時は俺もまだガキだったよ。当時はそうじゃないつもりだったがな」
会話こそ成立しているが、ゼフェルはオスカーの意図を図りかねている。
「何が言いてーんだよ」
「お前、どこに行くつもりだ?」
「どこにも行きゃしねーよ!…オレはまだ守護聖だからな」
どこにも行けない自分の立場を苦々しく思っているところに嫌なことを言う男だ。
互いの執務室を訪ねることは一切なくなっていたから、炎の守護聖の突然の来訪には意味があるのだろう。
おそらく、不和の原因となった彼女に関わりがあるに違いない。
…明日、彼女は聖地を後にするのだから。
質問を質問で返されて、ゼフェルは苛立っていた。
言いたいことがあればはっきり言えばいいのに、なぜこの男はこんなに回りくどいのだろう。
「一体何なんだよ!さっさと用件を言いやがれ!」
口調が荒くなる。
「おいおい、そんなに怒るなよ。なんだ?何かあるのか?」
今度こそ怒鳴りつけてやろうとオスカーを見ると、ひどく神妙な顔をしている。
「…少なくとも、今日は彼女に会いに行くんだろう?」
怒りが急速に冷めていく。
「ああ。止めても無駄だぜ。てめーも行くってんなら止めるけどな」
自分でも気づかないまま、牽制する言葉が出た。
オスカーは破願して笑い声を上げ、そしてすぐに真顔に戻って言った。
「こうやって、彼女の話をするのは初めてだな」
「オレはしたくねーよ。てめーとは関係ねーんだからよ」
「まあそう言うな。俺はお前に頼み事をしに来たんだ」
ゼフェルは身構える。
「…聞きたくねーな。ロザリアに関することは特にな」
『ロザリア』
他者の前では『補佐官』と呼ぶようにしていたせいで、自分自身の発したその音の響きに驚く。
「俺は彼女に会えないんだろ?」
「あ?」
「お前が言ったんだ」
戯けた表情で男は言う。
「…まあな。って、会いにいかねーのか?」
先ほどから、頭に浮かんだことを何も考えずに口に上らせてしまっている。
今更隠す気もないし、なによりそんな時間もない。
「だからな、これくらいは聞いてもらう」
一呼吸置いて、オスカーは口を開いた。
「彼女に伝えてほしいことがある」
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