始まりと終わり
 最終話





 幸運なことに、決意した通りシャトル内では部屋から出ずに済んだ。
 到着までの二十時間ほどの間にしたことは、入浴と食事、そして睡眠を取っただけだ。

 ルームサービスを取り損ねた後、睡眠不足もあってそのまま眠りこんでしまった。意識を取り戻したのは、実に十時間も経ってからだった。
 音沙汰がないことを心配したシャトルの者がかけてくれた内線がなければ、さらに眠っていただろう。さすがに空腹が限界に達していたので、改めてルームサービスを頼んで胃を満たした。
 長い時間をかけて入浴を済ませた後、わたくしはいよいよ困り果てた。
 戴冠式で述べる祝辞は、完全に暗記している。
 山のように持ち込んだ本は、どれを開いても目が滑って頭に内容が入ってこない。
 無理やりデスクに向かってみても、仕事が手につかない。気がつくと、女王に宛てた恨みがましい手紙を書き始めている始末だ。
 慌ててそれをゴミ箱に捨てて、ベッドにうつ伏せた。深いため息をつくと同時に寝返りを打ち、そう高くはない天井を眺めるうちに、再び眠気の尾がちらつき始めてくれた。

 それからは、ただひたすら眠り続けた。こんなに眠ることができるなんて、自分でも信じられなかった。
 覚醒までの時間が徐々に短くはなっていったが、寝ようと思えば眠れた。
 目を覚ます毎に頭の重さが増しても、起きているよりは遥かに楽だった。
 ずっと眠っていたい。
 そう念じると、吸い込まれるように意識がなくなっていくのだ。
 そしてまた、内線が鳴った。

 シャトルから一歩外に出ると、まるで真夏だった。亜熱帯気候に覆われた星だと聞いていたが、聖地に慣れた体は早々にだるさを訴え始める。
 つばの広い帽子を深く被り直したのは、強い日差しのせいではなく、なるべく視野を狭くしたかったからだ。
「補佐官様、お足元にご注意下さい」
 聞き覚えのある低い声に足を止めると、礼節を保った距離で階段を降りるわたくしを見守る中年男性の姿があった。内線で何度か会話をしたスタッフだと気づく。
「船内でもいろいろと気遣っていただいたわね。ありがとう」
「いえ、至らない点があったかと思いますが…どうぞ、お気をつけて」
 切れ長の灰色の瞳が細められる。その動きが、気持ちを少し落ち着かせてくれた。
 階段を降りきった。前を向かなければならない。
 覚悟を決めてゆっくりと視線を動かすと、軽装に身を包んだ彼がいた。
 
「お疲れさん。こっから一時間くらい車に乗るんだってよ。…休憩させてもらうか?」
「わたくしは大丈夫ですけれど…あなたは?」
「オレも大丈夫だ。じゃあ、行こーぜ」
 言葉を切って、わたくしに背を向けて歩き始める。身軽な足取りを、思わず目で追った。
 彼は、同僚として声をかけてくれた。
 この道行きにおいてどう振舞えば良いかを示してくれた。
 どう接するべきなのか、どのように接されるのか、あれだけ心配していたのだ。
 それなのに、背を向けた姿に胸が痛んだ。安堵し、彼に感謝するのが当然であるはずなのに。

 車の前で、彼はわたくしを待っていた。
「先に乗れよ」
 抑揚のない声でもわたくしを動揺させるのには十分だ。彼との距離が近過ぎる。存在が生々し過ぎる。
「…ありがとう」
 赤い瞳が目に入り、不自然ではない動作で視線を逸らすのにかなりの努力を要した。
 それから一時間の間、わたくし達は無言だった。
 窓の外の景色に集中するために首の向きを窓に向けて固定していたが、彼の座る左側にばかり力が入る。目的地に着く頃には、体中のあちこちが痛んでいた。


 新たな王が力強い視線を民衆に向けると、大きな歓声が上がった。
 年若い青年王は、人格者で名高かった先王の弟の長子だ。彼自身もまた評判が高い。
 式の直前に話した衛兵は、彼と共にこの星の未来を作っていくのだと誇らしげに胸を張っていた。
 彼らの未来が順風満帆であるとは限らない。人の気持ちも状況も変わっていくだろう。
 それでも、無限の可能性を感じさせる絵が眩しかった。自分とそう変わらぬ年齢の王は、わたくしを忸怩たる気持ちにさせる。
 その地位によってではなく、多くの人々と心を通わせている姿で、彼はわたくしに目を伏せさせた。
「補佐官」
 予期せぬ声は、隣に座るゼフェルのものだった。
「この後、ちょっと時間とってくれねーか」
 乾燥した風が体を撫でたせいか、汗ばんでいた背中が急に冷えた。


 石造りの家が立ち並ぶ道を並んで歩いていると、錯覚を起こしそうになる。
 わたくし達は恋人同士で、二人で旅行に来ているのだと、おかしな勘違いをしてしまいそうだ。
 それは、かつて手に届くところにあった夢であり、今ではもう見られない夢だ。

 歩き始めて十分ほどが過ぎただろうか。
 ゼフェルの気配を全身で感じているせいか、それとも慣れない暑さのせいだろうか、身体が重くなってきた。
 日傘を持つ手もかすかに震え始めている。意識して姿勢を正した。
「なあ、オレ達って付き合ってたよな?」
 不意の質問は、わたくしを混乱させた。どう答えたら良いのかわからず、わたくしは押し黙った。
「そんな顔すんなよ。まあ、どんな顔されたら納得すんのか自分でもわかんねーけど」
 言い終わって、困ったようにわたくしに笑いかける。
 完全なものでなくても、彼の笑顔を見るのは久しぶりで、張り詰めていた糸が少し緩んだ。
「そんな顔と仰いますけれど、どんな顔ですの?」
 そーこなくちゃな、と彼は小さく笑った。
 何気なく出したわたくしの言葉で、彼の緊張も少しほぐれたようだった。
「いや、なんか、あれからオレ達ずっと話してねーだろ?だから、オレの中でわけわかんなくなってたんだよ」
 言いたいことはわかっても、気持ちを共有することはできなかった。
「わたくし達は、確かにお付き合いをしていましたわ」
 声が強張ったことに、ゼフェルは気づかなかったようだ。
「オレ、ずっとおめーとちゃんと話さなきゃって思ってたんだ。でも、何を話せばいいのかわかんなくなっちまってた」
 今までずっと考えてくれていたのだと思うと、小さなわだかまりは消えた。隙間を埋めるように生まれたのは、罪悪感と喜び。
「…ごめんなさい」
 形にならない言葉の種が胸に満ちているのに、それ以外に言葉が浮かばない。
「謝んなよ。今だって、あの時にどうすればよかったのかわかんねーくれーオレはガキなんだから。考えが足りねーっつーか、こういうとこがダメだったんだろーなとは思うんだけどよ」
 それは違う。彼はずっと正しい選択をし続けてくれたのだ。自分がおかしいのだ。
 そう伝えようとして、わたくしは息を呑んだ。
 伏せていたはずの赤い目が、わたくしを捉えていたせいではない。
 そこには、痛みやせつなさが隠されているように思えたが、それが理由でもない。
 彼の目が、わたくしではない何かを見ているように感じられて戸惑ったのだ。
「以前にも言ったことがありますけれど、わたくしが…おかしかったのですわ」
 最後に二人で話をしたあの日の夕焼けの色が蘇った。喉の奥が絞まったような感覚があって、微かに音が鳴った。
「そんなはずねーだろ。おめーのこと、マジで好きだった。好きな女のことをちゃんとわかってやれなかったのが悪かったってことだけはわかってる」
 好きだった。わたくしは意識して過去形を使ったが、彼は自然にそうしている。
 ゼフェルが今見つめているのは現在のわたくしではなく、わたくしと過ごした日々なのだとわかった。
「もうおめーを困らせねーよーに、ちゃんとするから。それがオレに出来ることだって思えるよーになったから」
 自分で終わらせたはずだった。時間が傷を癒してくれるのをただ待てばいいはずだった。
 喪失感によって、心の片隅に僅かな望みを残していたことを知る。奇跡が起こることをどこかで願っていたことを知る。
「なに泣いてんだよ。おめーと付き合えてたこと、本当によかったって思ってんだぜ」
 ゼフェルの手が、わたくしの手をそっと握った。
 彼の思考が伝播したのか、記憶が次々に再生され始める。
 ただ彼を想っていた頃の、甘さを帯びた胸の痛み。
 わたくしを抱きしめる彼の体温。
 他愛無いお喋りや、軽い口喧嘩。
 夜の記憶。何も纏わない裸の胸に口づけた日の高揚感。
 悲しみに歪んだアンジェリークの顔。ランディの真っ直ぐな瞳。また、アンジェリークの顔。心配と苛立ちが混ざり合ったゼフェルの声。
 並んで歩いた夜の公園の匂い。わたくしへの愛を伝えるために動かされた唇。

 無意識のうちに上げた右手で涙を拭うと、ぼやけていた視界が開けた。
 そこにはゼフェルがいた。
 告白を受けた時のゼフェルの笑顔。心から嬉しそうだったあの笑顔が鮮やかに浮かんで弾けた。
 ゼフェルだけが今ここにいる。ずっとそうだったのだとようやく気づく。
「だから、泣くなよ」
 労わりに溢れた優しい声。
 それは、恋の終わりを告げる声だった。



 
 





end









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