cross 2






 結局、絵葉書には安否確認のメールには返信する気がないことと、問題なく休暇を過ごしていることだけを書いた。
  投函した翌日までは、やや感傷的とも言える感情が残っていたが、二日もするとそれも消えていた。 それでも、宿の手伝いをしている少女から封筒を受け取った時は、平静を装うのにそれなりの努力を要した。
 
 シンプルな便箋には、今後はメールの送信を行わないという主旨の他に、絵葉書への礼と、休暇中は仕事を忘れて楽しんでほしいといったことが書かれていた。
 丁寧で柔らかい文面と見慣れた美しい文字は、午後の日差しのような温かさを感じさせ、穏やかな喜びが彼の胸に満ちた。


 ゼフェルを動揺させたのは、署名だった。
 そこには、ただロザリアと記されていた。
 役職名もなにもなく、彼女の名前だけがそこにあった。



 手紙を読んでからは、何も手につかなかった。
 落ち着くために散歩でもしようと思い立ち、いったん手ぶらで宿から出たが、結局はロザリアからの手紙を取りに帰った。
 遊歩道を歩いていても、署名が頭から離れなかった。ただ歩くことに専念しようとしたが、徒労に終わった。
 考えすぎだと思おうとしたが、彼女が意味のないことをしない人間であることをよく知っていた。

 ― 補佐官ではなくロザリアとして、オレに手紙を出したかった?

 浮かんだ考えは、乾いた地面に撒かれた水のように瞬時に吸い込まれ、色を無くしていた過去に色彩を与えた。

 それをきっかけに暴力的に流れ込んできた彼女との記憶は、収穫祭の夜に浮かんだ遠い静かな思い出とは似て非なるものだった。
 無秩序で、鮮やかで、まるで嵐のように彼の心をかき乱した。


 偶然と勢いで出した絵葉書だった。
 返事が来ることを全く期待しなかったというと嘘になるが、今さら彼女との関係を変えようとは考えていなかった。
 もう思い出になっていた。 いや、やっと思い出になってくれたはずだった。

 後悔と絶望。そしてそれらに相反する希望。そのどれともつかない感情が産声を上げた。みるみるうちに膨張し、自由を求めるかのように胸を圧迫し始めたが、もちろん出口はなかった。



「なんかすごい顔してるよ。大丈夫かい?」
  出迎えてくれた女将にそう言われて頬に手をやると、顔がひどくこわばっていた。
「時間が時間だからたいしたものはないけど、何か出そうか?それとも外で食べてきたのかい?」
「いや、食ってねーけど」
 かなりの距離を歩いたが、食欲は全くなかった。
 夕食はいらないと続けようとして、女将の早口に遮られた。
「じゃあ今から用意するから、食堂で待っててちょうだい」
 
 出された魚介のスープとパンを無理やり口に運んでいるうちに、少しずつ興奮が収まってきた。自分の腹の音によって強い空腹をやっと知覚すると、食べ終わるまではあっという間だった。
「よっぽどお腹が減ってたんだね」 
 見上げた女将の嬉しそうな笑顔を見て、胸の息苦しさがいくらか緩らいだ。
 宿というより友人の家で、その母親と話しているような感覚になる。
 
「なあ、前によ、主人の覚悟が決まらなかったって話してくれたよな?それってどんな覚悟なんだ?」
 女将は少し考えて、ああ、あの話のことだねと頷いた。
「旦那はね、自分のやりたいことや欲しいものがあっても、それを押し通すことをあまり好まない人だったんだよ」
 ピンときていない様子のゼフェルに、女将は言い直した。
「これじゃわかりづらかったね。例えば、付き合ってる子がいるけど、どうしても遠くに引っ越さなきゃならないとするだろ?それで、本当は彼女に一緒に来てほしいんだけど、それを言うことで、彼女に負担をかけたり選択に影響を与えたりするのが嫌なんだよ」
「一緒に来いって言うならまだしも、来てほしいって思ってることを言うくらいは良さそうなもんだけどな」
 女将は、違う違うと言いながら、二人分のカップを持ってゼフェルの前に座った。

「言うくらいはいい、じゃなくて、来てほしいって思ってることは言わないとだめなんだよ。独りよがりも良くないけど、踏み込む勇気が必要なときがある。欲しいものには覚悟をもって手を伸ばさないといけないこともある。はいお茶」
 ゼフェルは続きを待った。もう少し聞きたかった。

「目の前に彼女がいて、抱きしめていいのか悪いのかわからなくても、抱きしめるような覚悟って言えばわかりやすいかもしれないね。もちろん自分がそうしたいのが前提でね。うちの旦那は優しい人だけど、それを持つまでに時間がかかったんだよ」

 女将はいったん話を中断して、正面に座る青年を見た。
 彼は混乱していて、とても疲れているようだった。
 お茶を飲むように促すと、そこで初めて目の前に置かれたカップに気づいたようで、頷いて口をつけた。
「抱きしめたら、彼女が傷つくかもしれなくてもか?」
 女将は頷いた。
「相手がいることだし難しいけど、私はそう思うね」
 


 とりとめのない会話を少ししてから、礼を言って食堂を後にした。
 シャワーを浴びると嘘のように頭がすっきりしていて、不思議な気持ちになった。
「女将に感謝しねーとな」
 ひとり言を呟いて、窓際のデスクの前に座った。


 暗い夜空には、星は見えなかった。ただ、灰色の雲が棚引いていて、それを眺めているうちに昂りの残滓も消えていった。
 ロザリアからの手紙を読み返すと、デスクの右端に置かれているメモ用紙を手に取った。手紙を書くにはやや小さかったが、それがちょうど良いように思えた。
 
 メモ用紙は、全部で三枚になった。
 食事やワイン、宿のことから始まって、収穫祭のことなどを書くと思ったよりも長くなった。
 自分はあまり興味はないが、少し足を延ばせば歴史的な建造物や、神秘の泉と呼ばれる場所もあるようなので、リュミエールにでも聞いてみて、気が向けばロザリアもいつか来てみたらいい。
 彼女の名前を意識しながら、そう結んだ。

 書き終えてベッドに横たわると、全身が沈み込むように重く感じた。そうしてすぐに眠りに落ちた。
 

 





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