遠くで鐘の音が聞こえる。 いつから鳴っているのかはわからないが、夢の中でも響いていたように思う。 目を閉じたままやり過ごそうと努めていたが、いつまでも止まないその音にいよいよ眠っていられなくなり、しかたなく瞼を上げた。 無理やり起こされたようなものだったが、不思議と苛立ちは感じなかった。 ベッドに寝転んだまま、一定のリズムで鳴るその音に耳を傾けていると、開け放しの窓から入る澄んだ空気と相まって、どこか懐かしいような、寂しいような気分にさせられた。 このまま、いつまでもこうしていられたら。なぜかそう思った。 ゼフェルが辺境の小さな町に来て、一週間になる。 システムの入れ替えで忙しいところに、それとは無関係なトラブルが頻発し、半年ほどは休日返上でほとんどフル稼働だった。 ようやく落ち着いたのが一ヶ月前。交渉の甲斐あって、三週間の休暇をもぎ取ったのだ。 万一の事態が起きた時にすぐに戻れるよう、主星にいるならという条件つきではあったが。 三週間もあればいろいろな場所に行けたが、とにかくゆっくりしたかった。 リュミエールから偶然この町の話を聞いて、深く考えないまま旅先として即決したのだが、今のところ満足していた。 コンピュータもほとんど触らず、食事や散歩、そして午睡などをして穏やかに日々を過ごしている。 老人のようだと彼自身もおかしく思っているが、それだけハードな半年間だったのだ。 「お客さん、今日は秋祭りだよ。いろんな市場が立つから、時間があるなら見てくればいい」 朝食をとっていると、宿の主人が声をかけてきた。客室が十にも満たない小さな宿なので、すっかり顔なじみだ。 「収穫祭みたいなもんか?」 「その通りだ。近くの町からも人が遊びに来て、一年で一番賑やかな日になる」 分厚い指で店先で売られている絵葉書を取り、それをゼフェルの目の前に置く。 楽しそうに踊っている人々、彼らを肴にワインを飲んでいる男女、買い物をしている家族連れ、行きかう馬車。活気のある光景が描かれている。 「いいワインも出るし、かわいい女の子とも知り合えるかもしれないぞ」 離れた場所からでも、収穫祭の雰囲気は感じられた。 煉瓦で舗装された歩道のベンチに腰かけて、ワインの栓を抜く。 「確かにうめーな」 勧められて買ったワインは安価だったが、ゼフェルの舌を十分満足させた。 川の対岸が収穫祭の会場だった。 陽気な音楽が、適度なボリュームで彼の耳に届く。 色とりどりの灯を眺めながら、人々のざわめきを感じていると、自然とこれまでの出来事が浮かんでは消えていった。 その中には、かつての恋人の顔もあった。美しいその面影は、今でも胸を僅かに痛ませる。 恋愛ほど難しいものを、他に知らない。 彼女が好きだった。あの頃は、彼女しか見ていなかった。 そして、彼女も自分を好きでいてくれていた。 それでも、うまくいかなかった。 いや、だからうまくいかなかった。 まるで言葉遊びのようだ。 どうすれば良かったのかと、時々考えることがある。 あの時、彼女の心にどう触れていいのかわからなかった。 無自覚な自分自身の言動が彼女を傷つけていたことや、手遅れになるまで彼女の苦しみに気づいていなかったことに打ちのめされてもいた。 彼女が自分から離れた後、何度か二人だけで話す機会を作ろうと考えはしたが、結局何もしなかった。 日を追うごとに落ち着きを取り戻していくように見える彼女を、再び混乱させるのが怖かったからだ。 宿に戻って、久しぶりにコンピュータを起動させた。 メールの受信ボックスをチェックしたゼフェルは、思わず眉を顰めた。 「面倒くせーな」 安否の確認を求めるメールが、毎日のように届いている。 「オレになんかあったら陛下が気づくって」 返信せずに、そのままコンピュータを閉じた。 翌日も快晴だった。 セルフサービスの水とサラダを取って、いつもの席に座る。 「●●●●さん、おはよう」 女将が挨拶した相手が自分だと気づくのに、少し時間がかかった。 聖地が用意した偽名を使うのは初めてではないが、なかなかしっくりこない。 挨拶を返して、ちょうどよかったと絵葉書を差し出した。 「これ、昨日ここに主人が忘れていったんだよ。返しといてくれねーかな」 女将は人の良い笑顔を見せた。 「それ、忘れていったんじゃなくてあげたつもりじゃないかな。旅の記念に、恋人にでも送ってみたらどうだい?」 ゼフェルは苦笑した。 「そんなのいねーよ」 「モテそうなのにねえ」 中年女性特有の気安さと、旅先という状況が、彼の心境に変化をもたらした。 「なんかそういうのって、すげー難しくねーか?」 「難しい?女の子がってこと?」 「いや、違う…ってこともねーか。オレは単純なんだけどよ、そーじゃねーやつもいるだろ?」 彼女と一緒にいたかった。 でも、傷つけずにいられる自信はなかった。 「それだけじゃよくわからないけど、大事なのは覚悟を決めることだよ」 「覚悟?」 「うちの旦那もね、なかなかそれが決まらなかったんだよ」 話を聞けたのはそこまでで、チェックアウトの声がかかり、女将は慌てて仕事に戻っていった。 自室に帰って、備え付けのデスクに絵葉書を置いた。 今日は足を伸ばして街にでも行こうかと考えていたのだが、そんな気もなくなっている。 ロザリアとつきあっていたのは、もう随分前のことだ。 納得して別れたわけではなかったので、整理が済むまでに時間はかかったが、今は同僚としての会話くらいは交わすようになっている。 手持ち無沙汰をどうにかしようとコンピュータを立ち上げてみたが、例のメールが増えていることを確認しただけですぐに閉じてしまった。 しかし、ゼフェルは思い直して返事をすることにした。 メールではなく絵葉書で、女王補佐官宛に。 |