彼は三人の女を鋭い牙で引き裂いた。また一年が経っていた。

 食事の回数は、明らかに減っていた。
 この街に来る前までは、積極的ではなかったにせよ、機会さえあれば食欲を満たしていたのだが、今は違った。
 個性、生活環境、生い立ち、家族構成。そのどれも知らない女だけを、彼は選ぶようになっていた。
 必然的に、見知らぬ通りすがりの女のみが対象になる。そう広くない街であるため、数が限られる。
 さらに、運よく見つけることができたその女達を前にしてさえ、食欲が殺がれるようになっていた。
 元々不快だった叫び声は、彼により大きな苦痛を与えるようになった。
 女達が最期に浮かべる苦悶の表情が、厭わしくてたまらなかった。
 …女であるというだけで、シスター・ロザリアの顔が重なるのだ。
 以前よりもずっと神経質になったゼフェルは、栄養が不足しがちなこともあり、苛立ちとの共同生活を強いられるようになった。


「ヴァンパイアがこの街にいるらしい」
 その噂を耳にした時、ゼフェルはもう半年も食事をとっていなかった。
 飢餓状態の中で、恐れていたことが現実になり始めたことを知った。
 長く留まり過ぎている、そう思ってはいた。だが、そうせざるを得なかったのだ。

 人間達とて無力ではない。一人ひとりは弱くても、それが集まれば強大な力と なる。
 ましてや、彼らはここ数百年で身体的な非力さを、知恵で生み出した火力を使 った武器によって補うことを覚えたのだ。
 そして、自分は力を失いつつある。
 今日にでも住処を変えろ、本能がそう警告を発している。今のままだと、明日にも死ぬことになる、と。
 それでも、この街を離れたくはなかった。

 この街で死ぬかもしれない。
 その思いが連れてきた純粋な恐怖は、すぐに全く逆の感情にとって代わられ、この時は消えた。
「それも悪くねーかもな」
 生きるためには、食事をしなければならない。
 食事をすれば胸を突き破られるような痛みに苛まれる。
 自分の生が苦痛の上にしか成り立たないのであれば、全うした先に何があると いうのだろう。天国があるならいざ知らず。…例えそれが存在したとしても、自分にはその扉を開く資格がないに違いない。

 繰り返し、同じ模様を編む機織り機。その動きを止める術を見つけたと、ゼフェルは喜びさえした。
 意味のない生から開放されることを想像すると、心に羽が生えたように気持ちが軽くなった。迷宮の出口だ。
 もちろん、シスター・ロザリアに話を聞いてもらえないまま生を終えることは 、悲しかった。
 だが、彼女に自分の全てを打ち明けることと、やがて来るだろう彼女の死を知 らずに済むことは、同程度の価値があるように思えた。

 シスター・ロザリアは死ぬ。考えたくないことだが、考えなくてもあと60年もすればそうなる。ごく近い未来だ。そうなった時、オレはこの街にいる意味を失 う。
 そこまで考えて、彼は虚しさを覚えた。
 二言三言言葉をかけてくれただけの人間がいなくなるだけで、全てが崩れてしまうと確信している自分自身を哀れんだ。
「本当に、オレは何も持ってねーんだな」
 そう呟いた彼は、苦笑いと呼ぶには厳しさが多すぎる表情を浮かべた。

 自分の命よりも、彼女の命を大切に思うわけではなかった。全ては自己中心的な考えの元にあった。
 とにかく、彼は疲れていた。そして、空腹だった。
 抗い難い誘惑に、彼は身を任せることに決めた。
 そんな日々の中でも、彼は彼の恋する女性に会うために公園に足を運んでいた。
 この時、シスター・ロザリアは20歳であり、少女ではなくなっていたが、彼女の”太陽さん”に対する挨拶は続いていた。



 そして、その日は訪れた。






 日差しの強い真夏日だった。
 初めて聞いた時と何一つ変わらぬ優しい声を頭の中に満たしていたゼフェルは、ふいに眩暈を覚えた。
 目に映っていた美しい世界が揺らぐのを知覚すると同時に、彼は昏倒した。
 不規則な足音に聴覚を刺激されて目を開けた彼は、心配そうに自分を覗き込む、シスター・ロザリアの姿を見た。
「ああ、よかった。意識が戻られたのですね!」
 安堵を顔いっぱいに広げた彼女は、子ども達の存在を思いだして、後ろを振り返った。
「すぐに人を呼んでくるから、みんな、この方をお願いね」
 そう言って彼女が踵を返したその時、ゼフェルは立ち上がった。
「行かないでくれ。…いや、オレは大丈夫だから、人を呼ばなくていい」
 彼は辛そうに息を吸い込んで、言い直した。
「オレには構わず、続けてくれていい」
「そのようにおっしゃらないで下さい。ほら、子ども達も心配しておりますわ。 きっと、お話を再開しても、あなたが気になって耳に入らないと思いますわ」
 子ども達へと視線を走らせたゼフェルは、彼らが皆一様に不安そうな顔をして いることを認めた。

 もう自分は長くはないだろう。もってせいぜい今日明日だ。自分でも驚くほど穏やかな気持ちで、そう思った。
 彼女が自分にかける声。彼女が自分に向ける視線。それらを意識すると、胸がどこまでも高鳴る。
 死へと続く道を歩きながら、彼は生の喜びを確かに感じていた。この瞬間がいつまでも続けば、と願った。
「…だったら、皆揃って帰ってくれると助かるんだけどよ」
 そっけなく聞こえるようにと注意を払いながら言った言葉もまた、本心だった。
 今のこの気持ちのまま、満ち足りた気分のまま、生を終わらせようとしたのだ。

 ロザリアは、彼の希望を半分だけ叶えた。子ども達を帰したのだ。もちろん、彼女は帰らなかった。
「とにかく、病院に参りましょう」
「医者にかかっても意味ねーから、気にしないでくれ」
「ご病気…なのですか?」
 答えに窮して黙り込んだゼフェルに、ロザリアは息を呑んだ。
「…まあそんなもんだ。シスターが帰らないなら」
 言いながら、彼女がシスターであってよかったと考えた。名前で呼べるはずがないし、『お前』や『あんた』と呼びたくもなかった。
「オレが帰る」
 言い切ると、ロザリアは悲しそうな顔をした。自分のために作られたその表情 を、ゼフェルは不自由な目に焼き付けた。
 最後に彼女と再び言葉を交わせたことは幸運だったと、ゼフェルは改めて思った。
 そして、彼は想いを断ち切るように大股で歩き出した。

『オレに向けてくれたシスターの表情や声を忘れないうちに、どっかそのへんで光にあたって今日中に死ぬ』
 上手く働かない頭が短時間で立てた大雑把な計画に従うべく、彼は前に進んだ。
 だが、彼は何歩も歩かないうちによろめいた。サングラスが落ちて、光が彼の目を刺した。うめき声をあげて、ゼフェルは眼を覆った。小走りに近寄ったロザリアが、彼の体を支えた。
 
 痛覚が、死への恐怖を蘇らせた。麻酔が切れたように、じわじわと不安が彼の胸を侵食していく。
 遠くから見続けてきたシスター・ロザリアの手が、肩が、唇が、至近にある。
『なんでそっとしといてくれねーんだよ。せっかくオレは幸せに死ねたのに』
 熱く痛む目を手で押さえながら、彼女への憎しみが生まれようとしていること を彼は知った。
「目が痛むのですか?」
 助産婦は、シスター・ロザリアの生気に溢れた声。
 
 痛みが治まるのを待ってから、彼は光を弱めるために手を翳して彼女を見た。
「オレの目は、光を見ると痛むんだ」
 醜い目を彼女に見せつけるように、大きく見開いた。自虐的な欲望が、みるみる膨らんでいく。
 ロザリアの瞳が、何度かまたたいた。長い睫毛も、大きな瞳も、彫刻のように 美しい。
 ”神に愛されし子ども”だ。
 そう思いついた時、彼は彼女に嫉妬した。それは、彼の身を焼ききってしまいそうなほど、強烈な感情だった。
 …ああ、オレとは正反対だ。何も持たないオレ。全てを持つ女。神に忌み嫌われているオレ。神の寵愛を受ける女。
 美しいシスター、悲鳴をあげてくれ。オレから目を逸らせろ。そうしたら、オレは死なないだろう。
 彼女の首元にある忌々しい布を引き裂いて、白い喉に牙を立てる。
 それだけでいい。それだけで、この気が狂っちまいそうな空腹が消えるんだ。
 …シスター。オレを生かすために、オレの幻想を打ち砕いてくれ。

 相反する願いと、極限にまで達している空腹。
 今や制御が不可能になってしまった想いによって、彼の体は小刻みに震え始め た。
「赤い…目」
 ロザリアはそれだけを呟いて、彼の目を見つめた。ゼフェルは、いつまでも視線を外そうとはしない彼女に苛立ちを覚えた。
「汚ねーだろ?」
 彼の声は小さかったが、すぐ傍で彼を支える彼女の耳に届いた。彼女は、彼の顔を見た。
「わたくしには、そうは思えませんわ」
 思い通りにならない歯痒さの中で、ゼフェルは声を搾り出した。
「キレーごと言うんじゃねーよ」
 シスター・ロザリアは、眉根を寄せた。理解できない、というように頭を振る。
「汚いとも、美しいとも思いませんわ。それはただ、あなたの目でしょう?それとも、人は必ずあなたの目に美醜の評価を与えなくてはいけませんの?」
 咎めるように言われてゼフェルの勢いは殺がれたが、簡単に引き下がるわけにもいかなかった。
「気持ち悪い、汚い。そう思うのが当然だと思うぜ?色が見えないオレにも、それがわかるんだからよ。色つきの世界を見てるヤツらにはなおさらのはずだ」
「たしかにあなたの瞳の色はまばらだわ。でもわたくしは…」
 強い口調はそこまでだった。しばらく沈黙したロザリアは、再度口を開いた。
「きっと、心ない人々からそう言われ続けてきたのでしょうね…」
 悲しみと憤りに彩られた彼女の呟きによって、急速に凝固した悪意を支えていた柱は折られた。

 自分のために悲しんでくれる人間は、過去一人しかいなかった。彼女は、二人目になってくれるのだろうか。

「確かにそういう人間も何人かいた。でも、それは死ななければならないほどの罪だと思うか?」
 唐突過ぎる質問に、ロザリアは混乱した。なにかの比喩だろうか、と考えながら、とりあえず彼女は首を横に振った。
「だが、オレは殺した。憎かったわけじゃない。都合がよかったからだ」
 唖然としたロザリアに、彼は続けた。
「殺すきっかけになったってことだ」
 彼の話す内容を理解できないながらも、彼女は恐れを抱いた。そんな彼女の心の移り変わりを、ゼフェルは彼女の体によって知らされた。ゼフェルの身の震えが伝染したかのように、彼女は震え始めていたのだ。

 悲鳴を聞きたいと願う想いは、消えていた。シスター・ロザリアに誤解されたくなかった。
 彼は、誤解ではない、とすぐに思い直した。確かに自分は殺しているのだ。
 それでも、彼はいやだった。嫌いにならないで欲しかった。同情でもなんでも欲しかった。
 彼の心は一巡りして、本来の願いを叶えたいと欲していた。やはり、ヴァンパイアであると言う勇気はなかったが、孤独を慰めて欲しかった。寂しさをわかって欲しかった。

「…殺したくて殺してるわけじゃねーんだ」
 その低い声は、彼の胸で脈打つ痛みを多少なりともロザリアに伝えた。
 彼と彼女が向かい合ったのは、あの雨の日ただ一度きりだったが、集会に必ず姿を見せる彼に対して、辛い生活を送っているのであろうと彼女なりに想像していた。悪い人間ではないと、信じていた。
 二年強。ゼフェルにとっては違ったが、彼女にとっては長い月日だった。助けたい、そう願うようにもなっていた。
 ロザリアは、表情を改めて口を開いた。
「あなたの苦しみを」
 彼女の声に促されたように顔を上げたゼフェルに、ロザリアは続けた。
「…あなたのお話を、聞かせてください」

 彼の望みは叶えられようとしていたが、彼は突然振って湧いた幸運をすぐに信じることができなかった。

「なあ、無理しねーでくれよ」
 そう返して、聞いて欲しいと言っているようなものだ、と思った。
「わたくしは、小さな女の子に言ったことがありましてよ。いつか、お話をしてみたいと。”太陽さん”」
 ゼフェルの心の堤防は、あっけなく瓦解した。
「あなたのお名前を教えて下さい」
 堰きとめられていた膨大な水がとめどなく流れ出して、彼を飲み込んだ。
「ずっと聞いて欲しかったんだ。オレの傍には誰もいねー。でも、シスターなら聞いてくれるかもしんねーって思ったんだ。…だから、シスターが老人になってから聞いてもらおうと思ってたんだ」
 しがみつくように抱きしめられたロザリアは、彼の背に手をあてて頷いた。
「わたくしが老人になってから、と思っていらっしゃったのは、なぜ?」
「オレはいつまでも年をとらねー。そういう風にできてんだ。だから100年くらい待つのは苦にならねー。それに、オレが人間じゃないってことを言うのが怖かった」
 感情の赴くままに吐き出して、ゼフェルは自分の愚かさに気づいた。
 彼の言葉の一語一語を丁寧に拾いとっていたロザリアの耳は、彼の失言を聞き 逃さなかった。
「人間じゃない…?」
 彼女の声を聞きながら、ゼフェルは胸の激情が冷えていくのを感じていた。
「赤い瞳の…その魔物は…太陽を厭う」
 ゼフェルの背中におかれていたロザリアの手が宙に浮いた。
 その僅かな動作と”魔物”という言葉が、彼に二度目の絶望を与えた。彼の心の奥にある柔らかな部分に、大きな穴が穿たれた。青年とロザリアの姿が重なる。繰り返しだ。オレが死なない限り、機織り機は止まらない。

 美しい言葉だけを発するはずの彼女の唇から出た、禍々しい言葉。
 魔物。
 それは自分のことだ。シスター・ロザリアから向けられた言葉。魔物。
 混乱と苦痛の時が過ぎ、ゼフェルはその布に手を伸ばした。
 驚愕と恐怖が、彼女の瞳に宿る。
 ゼフェルは笑った。笑うしかなかった。
「オレの名を聞く必要はねーぜ。ヴァンパイアと呼べばいーんだからな」





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