その布は下げられた。

 露になった喉。モノクロームの世界しか持たないゼフェルにも、その白さがわかる。
「ご冗談、ですわよね…?」
 唾液を嚥下したのか、シスター・ロザリアの喉が上下した。
 ひゅう…ひゅう。彼女の不規則な呼吸音が、空気を揺らしている。
 彼にだけは世界の崩れる音に聴こえるその音に紛れて、ゼフェルはゆっくりと彼女の喉元に顔を近づけた。
「ねえ、不謹慎ですわ。ヴァンパイアによって、命を奪われた方がおりますのに…」
 頭を振って、ロザリアは一人で話し続ける。
 ゼフェルは、衝動的に彼女の喉に人差し指をあてた。彼女は息を止めたが、何も変わろうとしない状況を諦めたように、大きく息をはきだした。
「違うと、嘘だと仰ってください」
 この指が感じる振動は、彼女が生きている証だ。この喉が、彼女の体が、すぐに動かなくことが信じられなかった。飢餓感と絶望と愛惜の念で、彼の心は乱れていた。
「嘘だと…」
 返答を得られないまま、無駄な行為に労力を割くロザリアを、ゼフェルは哀んだ。
 指を離して、舌で唇を湿らせる。唾液が口いっぱいに広がった。大きな音をたてて、彼はそれを飲み下した。湿気を帯びた蒸し暑い空気と極度の緊張によって、意識が朦朧としている。
 これを、彼女にとっての悪夢を、早く終わらせてやるべきだ。
 彼がそう思った理由はいくつかあったが、最も大きなものを挙げるならば、自分の精神を守るためであったと言えるだろう。これから犯す罪の重さを、一ミリグラムでも軽くしたいと願う心の身勝手な働きだ。
 もちろん、これは彼の意識上には上っていない。
 
「……あなたは、そんな方じゃないはずですわ」
 彼女の漏らしたこの言葉で、ゼフェルは動きを止めた。
 静止したのは、肉体的な活動だけではなかった。彼が把握している部分に関してのみ言えば、彼の脳もこの時全ての活動を止めた。
 白い閃光が、彼の脳裏を焼いた。その残像を消し去るのに、彼は数分の時を費やした。その間シスター・ロザリアは、彼の姿をただ瞳に映していた。
「そんな方、だと」
 彼の声は、強い怒気を孕んでいた。シスター・ロザリアは、ぎゅっと唇を噛んだ。
「そんな方、ってのは、どーいう意味なんだよ」
 耳元でそう言われた彼女は、両手を握り締めた。
「ヴァンパイアって意味か?シスター」
 彼女の肩が、大きく揺れた。
「そんな魔物なんかじゃないはずだって、そう言ってるんだよな?」
 ゼフェルは、煮えたぎるような怒りに支配されていた。罵詈雑言を浴びせられた時より、彼は深く傷つき、憤っていた。
「しょーがねえだろそう生まれたんだからよ!じゃーなにか?シスターがヴァンパイアだったとしたらどうしてたんだよ!」
 怒りを込めて、ゼフェルはロザリアを突き飛ばした。たったそれだけの動作で、彼の体は痛んだ。大声を上げるたびに、肺が軋んだ。だが、気にならなかった 。
 小さく悲鳴を上げ、木に背をぶつけて崩れ落ちたロザリアを、彼は睨みつけた。
「右も左もわかんねーうちから、オレは人の命を奪わないことを誓うべきだったのかよ!?そのまま飢えて死ななきゃいけなかったのか!?」
 ゼフェルは、一歩ずつシスターへと歩み寄りながら、叫び続ける。
「人間だって動物を殺して食ってんじゃねーのか!?それと何が違うんだ。教えろよ!」
 シスター・ロザリアが、肉を食べないことは知っていた。もしそう言われたら、彼は今度こそ、すぐに彼女の命を奪うつもりだった。
 だが、彼女は何も言わなかった。
 それどころか、どれだけ待っても顔を上げようとはしなかった。人形のように座り込んでしまったままだ。
 気を失ってしまったのか、とゼフェルは不安になった。打ち所が悪く、死んでしまったかもしれない。
 そう思うと同時に、怒りが消えた。取り返しのつかないことをしてしまったと 、冷や汗がどっと噴き出した。
 この程度の衝撃で人が死ぬはずがない。彼はそう思った。過去の経験に照らし合わせても、それ以外の答えはない。
 しかし、彼の汗はひかなかった。彼女の脈なり心臓なりを触って調べれば、すぐに答えは出る。そう思っても、できなかった。怖かったのだ。
 殺そうとしている女が、死ぬことを恐れている。その矛盾にも気づかない彼は、足を止めた。
 ゼフェルの影が、シスター・ロザリアの上に落ちた。
「もし、オレがそーしてたら…」
 自分の口が言おうとしている言葉を察知して、胸が詰まった。なにかに突き動かされるまま、ゼフェルはそれを吐き出した。
「シスターは、オレを許してくれたのかよ…」
 ロザリアを見下ろしながらそう呟いたゼフェルは、虚しさに包まれていた。


「…ごめんなさい」
 擦れた声が彼の耳に入ると同時に、シスター・ロザリアは顔を上げた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」
 ゼフェルの心に失望が差した。命乞いか、と苛立たしげに舌打ちをして、頭を振った。
 誰だって死にたくはないだろう。死にたがっていた自分ですらそうだった。だから彼女が命乞いをすることは、ごく当然のことだと思い直した。
 それに、死の恐怖を彼女に与えている自分が、彼女の行動を評価をするなど、どうかしている。
「…悪かったな」
 もう、どうでもよくなっていた。自分の気持ちを理解しろ、という方がおかしい。
 人として平穏に生きてきたシスター・ロザリアを、人外の自分の内的な部分に巻き込んでしまっただけだった。
 自分の勝手な期待に応える義務など、彼女には元々ない。それこそ、豚に向かって人間の都合を一方的に押し付けていることと同じだった。
 わかっていた。彼は、理解していた。真実そうだった。
 …わかっていた。それなのに、希望を持ってしまったのだ。何度同じことを繰り返すのか、と心の底から彼は自分自身を憎んだ。
 内なる声が、『でも』と言う。その後に続くのは、未練と自己弁護だ。もうたくさんだった。
 彼は、その声をひねり潰した。その途端、体中から力が抜けた。
 数十分前、彼は、幻想を打ち砕いてくれ、と願った。そしてその通りになった。
 だが、もう彼女の血を吸おうとは思わなかった。生きる気力は、もう残っていなかった。
「もう、行ってくれ」
 湿った夏の空気と対極にあるような乾いた声で、彼は言った。

 急に鳴き始めた蝉の声に、ゼフェルは耳を傾けた。
 彼の耳に入らなかっただけで、蝉はずっと鳴いていたのかもしれない。

 強い眠気が、彼を襲い始めていた。眠りたかった。
 彼女が去れば、全てが終わる。分厚い上着とも、切り抜かれた彼女の写真とも 、希望とも、古い哀しみとも、作られたばかりの絶望とも……忌々しい世界の全てと、もう関わらなくていい。

 彼は待った。地面にはりついたままのシスター・ロザリアが動き出すのを待った。夏の太陽は、いまだ落ちる気配を見せない。
 辛抱強く彼女を見つめていた彼は、低い音を聞いた。
 音源は、シスター・ロザリアの喉だった。
「わたくしは…わたくしこそが心無い者だった…」
 ゼフェルは、耳を疑った。
「…シスター?」
「わたくしは…わたくしは…」
 ロザリアは、瞼を閉じた。頬を涙が伝った。
「なんてひどいことを…」
 彼女は顔を大きく歪めた。
「なんて…なんて……あああああっ!」
 ゼフェルは、その場に膝を着いた。泣き叫ぶ彼女の手を、彼は無意識のうちに握っていた。彼女も、無我夢中で彼の手に縋りついた。
 優しく、穏やかなシスター。いつだって笑顔を絶やさなかった彼女が、子どものように泣いている。
 端正だった顔は、涙に塗れてぐちゃぐちゃだ。眉は寄り、口は歪に曲がっている。
 憚ることなく、聞くものが息苦しくなりそうな嗚咽を漏らし、謝罪の言葉を続けようとして噎せた。
 今のシスター・ロザリアを見て、美しいという者はいないだろう。ゼフェルも、例外ではなかった。
 だからこそ、幾重にも絡まっていた彼の心の糸はほぐれた。
 あらゆる負の感情が、彼女の表情…端的に言えば、彼女の醜い泣き顔によって 清算されたのだ。
 彼だけに向けられた、不完全なシスター・ロザリアの姿を、ゼフェルは愛しく思った。

「オレの名前を、聞いてくれるか?」
 しゃくり上げながら、ロザリアは何度も頷いた。
「オレは、ゼフェル。シスター、オレの名前を呼んでくれ」
 ゼフェルは、シスター・ロザリアの口元を見つめた。数秒後、彼女は唇を動かした。
「ゼフェル…様」
 胸の中央が、絞られるように痛んだ。その痛みはゆるゆると消え、彼の胸には収まりきらないほどの大きな喜びに変わった。
「ゼフェルって言ってくれねーか?」
「ゼフェル、ゼフェル…。太陽さんのお名前は、ゼフェル…」
 小さな声で、彼女は何度も繰り返した。
 ゼフェルは、瞼を閉じて自分の名を呼ぶ彼女の声を聴いた。ゼフェルの嗅覚が、草いきれの匂いを捕らえた。その匂いは、植物の持つ強い生命力を彼に伝えた。
「シスター、オレはずっとシスターを見てた。話を聞くためにじゃなくて、ただシスターがいたからだ」
 彼の言葉を聞き終える頃には、彼女の嗚咽はほとんど消えていた。
「わたくしがいたから…?」
 聞き返した彼女の顔は、もう本来の美しさを回復していた。ゼフェルは、素直にそれを喜んだ。
「ああ。オレは、シスターが…」
 ゼフェルは、そこで口を噤んだ。ふっ、という呼吸音が聴こえた。泣き喚いたため、うまく呼吸ができないのだろう。
 胸を押さえたロザリアは、続きを待つように沈黙した。
「…シスターが、オレに気づいてくれてたことを知った時は、嬉しかったぜ」
 ゼフェルは、話題を変えるためにそう言った。本当は、好意を彼女に伝えようとしたのだが、止めたのだ。シスター・ロザリアは、何も気づかなかった。

 シスターは、恋愛の対象であると同時に、信仰の対象でもあり、人間全体の象徴でもあった。今日は、嫉妬や憎しみの対象にもなった。そして、今は深く感謝している。とても一言では言い表せない。いや、どのような言葉を持ってしても、伝えることなどできない。万が一伝えることができたとしても、そうしたくはなかった。
 今はもう、彼女を悲しませたり困らせたりはしたくなかった。今後の彼女の重荷にもなりたくなかった。

 肉体が消えても、彼女の記憶には残る。

「わたくし、太陽さ…いえ、ゼフェルがとても気になっておりましたの。…僭越な考えでしたけれど、あなたをお助けしたいとも思っておりましたの」
 言葉を切って、彼女は俯いた。
「…それなのに、わたくしは」
「気にしねーでくれ。オレは今、シスターに救われた。いや、ずっと救われてたんだ」
 心からの言葉だったが、彼女は悲しそうに横に首を振った。
「シスター、オレはもう死ぬ」
 ゼフェルがそう言うと、ロザリアは彼の顔を凝視した。
 とめどなく流れていた涙が止まり、彼女は口を僅かに開けた。
「栄養失調だ。ヴァンパイアは、いなくなる」
 身じろいだ彼女の体の下で、土が音を立てた。
「そんな……」
「これからは、人間がヴァンパイアに殺されることはなくなる。安心してくれ」
「…いやです。わたくしは、あなたに死んでほしくはありませんわ!」
「人間以外にも、優しいんだな」
 誤解を恐れたゼフェルは、息継ぎをする間もなく続けた。
「違うんだ。厭味じゃねーんだ。オレは、本当に嬉しいんだぜ。シスターは、オレを許してくれるか?」
 ロザリアは、驚いて目を瞠った。
「許す…?ゼフェルは罪を犯してはいないでしょう?ただ、…生活をしていただけ…なのですわよ、ね」
「シスターに、許して欲しいんだ」
 シスター・ロザリアは、黙り込んだ。それから、はっきりと言った。
「ゼフェルを、許しますわ」
 そして、彼女は強い口調で続けた。
「ですから、生きて下さい」
 嬉しくてたまらなかった。彼女の迷惑にならない程度に彼女の傍にいられたら…、一瞬だけだったがそう夢想もした。
「オレが生きるってことは、これからも人間を殺すってことだぜ?これまでのことは許してくれたシスターも」
 彼が言わんとしていることを察知したロザリアは、強張った表情を作った。
「オレが新しい死体を生み出すことを、許せないだろ?シスターはもう、知っちまったんだ。見て見ぬフリなんてできねーはずだ。ああ、返事はしなくていーぜ 」
 ”人を殺めた”という言葉を、彼女は使わない。恐ろしくて、使えないのだろう。理解してくれたらしい今でも。
「ならば、わたくしの血を……」
 勇気を振り絞ったに違いない。シスター・ロザリアの声は、か細かった。
「それはもうできねーよ。それにまた、腹は減るんだ」
 ロザリアは絶句した。目を伏せて、何事かを呟いた。今度こそ彼女の声は聞こえなかった。神の名を呟いたんだろう、とゼフェルは想像した。
 再び、彼女の睫毛が光った。何百粒目かの涙を落とした。
 彼女の押し殺した声は、これまでに聴いたどの音よりも、ゼフェルには悲しく聴こえた。
 自分を救ってくれたシスターが、自分のせいで苦しんでいることが辛かった。あるべき場所で、幸せに笑っていて欲しかった。どれだけ状況が変わっても、巻き込んだのは事実なのだ。

 ゼフェルは、彼女が胸のあたりで手を動かしたことに気づいた。修道服の下にあるものの見当は、すぐについた。
「そうだ。シスター、オレさ、聞いたことがあるんだ。十字架ってあるだろ?」
 大きく体を震わせたシスター・ロザリアは、手の動きを止めて慎重に頷いた。
「それを持ってある場所に行けば、ヴァンパイアは血を吸わなくても生きられるよーになるって」
「初耳ですわ。ある場所とはどこですの?それに、十字架はヴァンパイアにとっては危険なものではなくて?」
 ロザリアは疑いを隠さずに、いくつも質問を重ねた。
「そのまま持ったら危ねーから、布で巻いて持つんだ。場所は人間には教えられねーな」
 彼女は、笑顔を見せてはくれなかった。じっと考え込んでいる。
「シスター、服の下になにがあるんだ?」
「…十字架、ですわ」
「じゃーそれ、オレにくれねーかな」
「それは………」
 口ごもったロザリアに、彼は焦りを覚えた。
「なあ、頼む」
「…上手く行ったら、わたくしに元気な姿を見せてくださいますか?」
「それはできねーんだ。100年くれーは、その場所にいなきゃなんねーらしいから 」
 ゼフェルは祈った。彼女の信じる神に祈った。
 お前が愛してる子なんだろ?シスターを、悲しませないでくれ。
「……ゼフェル」
「シスター、オレが嘘ついてると思ってんだろ?でも、嘘じゃねーぜ。今までやらなかったのは、十字架がなかったからだ。さすがに、教会に取りにはいけねーからな」
 ロザリアは、迷いを見せた。
「本当…ですか?」
 ゼフェルは、大きく頷いた。
 



 ゼフェルは、空を見上げた。

 高い空は、どこまでも青かった。幻覚だとゼフェルは思った。色が見えるはずがない。

「なあ、今日の空の色、すげーキレーじゃねーか?」
 ロザリアは、唐突な質問に目を丸くしたが、彼に倣って空を見上げた。
「ええ。とても綺麗な空ですわ。吸い込まれそうな青」
 同じ空を、同じ色を見ている。同じ青に抱かれている。シスターの瞳の色と、 同じ青。


 ふさわしい場所で、人の理の中で、笑っててくれ。





 漆黒の闇が覆う山の中に、ゼフェルはいた。
 山道は険しく、体力は底をつきかけていたが、なんとか安心できそうな深さまでたどり着くことができた。
 結局、シスター・ロザリアと別れたのは、夕暮れだった。その時点で、日光の力を借りることは望めなくなっていた。
 夜目が利いて良かった、と彼は呟いた。
 下げていた袋から包みを取り出す。頑丈な手袋のおかげで、痛みは我慢できる程度だ。
 野草の上に腰を下ろして、薄手ではあるが全く季節感のない黒いコートを脱いだ。今日はコートの下に、三枚のシャツを着こんでいた。
 立て続けにシャツを脱いだ彼は、夜風を感じて一息ついた。

 それを包んでいる布は、修道服の切れ端だった。シスター・ロザリアが包んでくれたのだ。
 人間にとっては神聖なものだが、自分にとっては凶器以外のなにものでもない十字架。
 別れるその瞬間まで、彼女はずっともの問いたげに唇を動かしていた。
 シスター・ロザリアは、おそらく自分の語った話を完全には信じてはいないだろう。だが、半信半疑程度には持っていけた、と自負していた。そして、自分のためにも、彼女自身のためにも、彼女はその嘘を信じる努力をしてくれるだろうとも思っていた。

『血を吸わなくても生きられるようになる』 
 本当にそんな話を聞いていれば、すぐにでも試している。十字架を手に入れる手段など、いくらでもあるのだ。
 全ては、上手く収めるための嘘だった。
 自分が死んだと知れば、彼女は悔やむだろう。彼女は、彼女自身を無力だと思い込んで、憎むだろう。
 彼女が信じている神にも、疑いを抱くかもしれない。そうなってほしくはなかった。だから、自分のために嘘をついた。
 
 生の終わりに、神は大切な子であるシスター・ロザリアを遣わしてくれた。
 礼を言う気分にはさすがになれなかったが、そのことにだけは感謝していた。
 
 立ち上がった彼は、細い木と草が群生している場所に歩いていき、仰向けに寝転んだ。
 目を閉じて、十字架を布から取り出した。右手が先ほどよりも強く痛んだ。シスター・ロザリアの修道服の切れ端を、裸の胸の上に置いた。これ以上は求め得ない終わりだと、彼は信じた。そして、満足して笑った。
 最期に、胸に十字架を押しつけた。


 





end







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