不安げに空を見上げている子ども達の手には、雨具があった。
 空の色を見ることができないゼフェルも、湿気を帯び始めた空気によって、雨が降り出さんとしていることを感じていた。
 空と子ども達を交互に見やったロザリアは、ため息をつき、悲しそうな顔で中止を告げた。子供達もそれぞれに残念そうな表情を浮かべ、散り散りになっていった。

 子ども達の後姿を見送ったロザリアは、手を空に翳した。
 その小さな動作を合図とするように、大量の雨粒が降り始めた。土の上に生まれた丸いしみは重なり合い、地面全体を覆っていく。
 空は平等に全ての上に水を撒き散らす。ゼフェルの服は、みるみるうちに水分を吸い込んで重量を増した。埃くさかったセーターが、雨に濡れて黴っぽい臭いを放つ。
 鼻をひくつかせて、舌打ちをひとつしたゼフェルは、ロザリアへと視線を移した。
 傘を開いて空を見る彼女の姿を確認した彼は、公園の唯一の出口に向かって駆 け出した。
 凄まじい雨音と、泥水を跳ね上げる彼自身の足音が、彼の聴覚を満たす。
 ゼフェルは、足を止めた。耳障りな水の音以外の音が聞こえたような気がしたのだ。
 振り向いた彼は、それが聞き違いではなかったことを知った。

「やっと気づいてくださいましたわね」
 数メートルほど後ろに、荒い息を吐きながらも安堵した様子のロザリアがいた。視線は、まっすぐにゼフェルへと向けられている。
「どうぞ、お入り下さい」
 ロザリアはゼフェルの傍に駆け寄り、彼を傘の下に入れた。
「いつもいらっしゃいますわよね?お話を聞いて下さっていること、存じておりました。わたくし、とても嬉しく思っておりましたの」
 笑顔を向けられたゼフェルは、喉を手で押さえた。ひどく息苦しかった。
「今日は残念でしたけれど、次もぜひいらしてくださいね。もしよろしければ、教会にも」
 何も言わないゼフェルを不審がる様子も見せず、ロザリアは微笑んだ。
「…教会にはいけねーんだ」
 低く振り絞るように出されたその声は、雨音にかき消された。
 ロザリアは、微笑を絶やさずに言った。
「では、まいりましょうか」

 首を縦に振りたい衝動を抑えて、ゼフェルは傘の下を飛び出した。
 驚いて問いかけを繰り返す彼女の声を聞き漏らさないように努力しながら、走った。



 アパートメントに戻ったゼフェルは、サングラスだけを外してベッドに倒れこんだ。
 ずぶ濡れの髪や服から、何ヶ月も取り替えていないシーツに水が滲んでいく。
 息を大きく吸い込むと、上下にはりついていた喉の粘膜がヒリヒリと痛んだ。

 シスター・ロザリアが自分を見た。言葉をかけた。自分を追って走ったせいで、彼女の黒いスカートの端は濡れていた。
 傘に入るように言ったロザリアは、まず手を伸ばした。そして、自分を傘の下に収めた。そのせいで彼女は修道服の肩も濡らしてしまった。
 いつも自分がいたことを知っていた。嬉しく思っていたとも言った。そして…。



 うつ伏せになって、ゼフェルはくぐもった声で呟いた。
「オレは寂しい」
 口に出してみても、なにも変わらない。
 弱音を吐くことも、嘘をつくことも、本音を言うことも、全てが同等に無意味だった。観客は自分自身しかいない。強がることを、ゼフェルはとうに放棄していた。
 自分の求めるものについても、ゼフェルは知っていた。あの青年を失くしてから、浅はかな願いを何度もひねり潰そうとしたが、消えはしなかった。
 誰かと共にいたい。ただ、それだけだった。

 否定し、認め、その願いを抱えていることを受け入れるまでに時間はかかったが、それからまた気の遠くなるほどの時が経過した。
 その中で、寂しいと思うことや、誰かを必要としていることは、赤い目や銀色の髪と同じように、当たり前の所有物に変わっていた。

 だが、その願いが叶わないだろうという確信も、また当たり前の所有物だった。
 自分と同じ種族に出会ったことなどない。最も古い記憶を手繰り寄せても、親の影はなかった。
 人間の血が糧となること、太陽によって命を失うことを自分が知識として持っていることが、かつて親があった証であると思っていた。そして、十字架の危険性を知らなかったのは、両親がいた頃にはまだ人間達がそれを作り出してはいなかったのだろう、と想像していた。

 だが、ここ数十年で考え方が変わった。”親”は人間達から学んだ概念にしか過ぎないのだ。
 自分自身の存在が、例の神とやらのきまぐれ、もしくは悪意によって作られた玩具である可能性に思いあたり、あまりにも虚しいその考えを振り払うことができなくなったのだ。

 とにかく、この世界の上で多少なりとも交流を持てるのは人間達だけだった。


 シスター・ロザリアの顔を思い浮かべると、胸がギリギリと痛くなる。怪我をしたわけでも、病を患っているわけでもない。
 自分の全てを知ってもらいたかった。その上で、彼女に微笑んで欲しかった。名前を呼んで欲しかった。
 そこまで考えて、ゼフェルは考えを整理した。
 だから、オレは多分シスター・ロザリアが好きなのだろう。根拠は、自分の抱 えるものと、人間達の言う”恋”の症状とが同じであるからだ。

 ふとゼフェルは首を振った。
 ”愛”や”情”という概念もまた、人間達から教わったのだと思い出したのだ。
 彼らは、自分達が平凡だと信じている日常生活を送るだけで、ゼフェルにそれを知らしめた。
 若い男女、老夫婦、家族。誰もがそれらを鱗粉のように撒き散らしながら生きている。少なくともゼフェルにはそう見えていた。


 人間達の持つ感情を、自分も持っている。昔は人間が自分よりも下等であると思っていた。非力で短命な、哀れな種だと認識していた。
 今はそう思わないが、自分よりも上等な種であるとも思えない。だが、彼らと同じだと思うのは悪い気分ではなかった。

 今や”人間”という言葉は”シスター・ロザリア”と同義語だった。彼女と同 じであると思うと、ささやかな喜びが胸に生まれる。
「なのに、なんでオレだけが」
 シスター・ロザリアを囲んで笑う子供達の絵がフラッシュバックする。
 彼女が、誰にでも慈愛の微笑を向けるからこそ、ゼフェルは辛かった。
 誰にでも彼女は救いの手を差し伸べるだろう。人間であれば、誰にでも。
「オレだけが、除けモンにされるんだよ」

 どれだけ望んでも解決策を見つけられないことも、ゼフェルにはわかっていた 。
 そして、自分の生きる意味について思いを馳せる。
 思索の海に沈もうとするゼフェルは、次に自分が海面に顔を出す時、手に掴んでいるだろうものを予言することができた。
 自分の手垢に塗れた馴染みのものであるだろうことがわかっていた。
 いつも同じだ。そして、それは揺るがない。

 一時間ほどして顔を上げたゼフェルは、手のひらにある戦利品を眺めた。そして、それをそのまま言葉に置き換えて発音した。

「捕食する者と捕食される者だからだ。ただそれだけだ」

 彼が捕食する者で、人間は捕食される者。それが唯一で絶対の理由だ。
 たったそれだけのことで、と思う自分が、強者の論理を振りかざしていることはわかっている。
 だが、どうしてもその考えを消せない。たったそれだけのことで『オレは永遠に一人』だ。

 …ただ生きるためだけに生きる生。

 不毛な繰り返しだけを友として生きる生。




 もう彼女に会わない方がいいと思いながら、それが不可能であることに気づいていた。
 懊悩は二週に渡って続いたが、彼自身が予想していた通り、結局彼は公園に向 かった。

 子供達に挨拶をした彼女の視線が、ゼフェルの隠れている木へと向けられた。
 目を細め、口の両端を僅かに上げてから彼女は頭を軽く下げた。
「……オレに、か?」
 理解した途端、彼の足は震えた。


「シスター、そっちになにかあるの?」
 ロザリアは、驚いたように眉を跳ね上げた。質問をした少女は、眩しそうに目を細めている。ゼフェルが太陽を背にしているので、そのせいだろう。
 ロザリアは、少し考えてから大きく笑った。
「太陽。そう、太陽さんにご挨拶したの。ほら、いつもお空の上からお話を聞いてくれているのよ? 」
 答えを得た少女は、耳の上でくくられた二房の髪の束を軽く揺らした。
「ふーん。じゃあ太陽さんもここに来たらいいのにねぇ。あんなところにひとりでいてさみしくないのかなぁ」
「太陽さんにも、いろいろと事情があるのではないかしら?太陽さんのご迷惑でなければ、いつかお聞きしたいのだけれど…」

 立っているのがやっとだった。喜びの中で、ゼフェルは何度も彼女の言葉を反芻した。
 浮き足立っている両足を、そのまま前に動かせば、彼女の前に行くことができる。
 今すぐにでも、そうしたかった。いや、実際そうしようと彼は足を一歩踏み出したのだ。だが、子ども達への話が終わってからにした方がいいように思えて、動きを止めた。
 何から、そしてどこまで話そう。
 彼女が自分の話を聞いてくれる準備をしてくれているとは言え、無制限に全てを話すわけにはいかない。
 考えをまとめるために目を閉じた彼が真っ先に思い浮かべたのは、青年の顔だった。



 
 山に散歩に行く予定を立てていた日、青年は来なかった。
 三日後、ゼフェルの家の扉は叩かれた。待ちかねていたその音は、力ないものだった。訝しく思いながらも、ゼフェルはドアを勢いよく開いた。約束を反古にされたことに対する文句を言おうとして、口を閉じた。青年の顔色は、ひどく悪かった。
 青年は、弱々しい挨拶をして、言った。
「妹が死んだんだ」
 近しい者を亡くした経験がないゼフェルは、突然の言葉に詰まった。
 黙り込んだゼフェルに向けて、青年は、どれだけ妹をかわいがっていたかということや、彼女の美点をポツポツと話し始めた。青年の虚ろな目は、焦点がずれていた。

 目の前にいる青年だけが、ゼフェルにとって近しい人間だった。
 彼を失うことを想像したゼフェルは、彼の悲しみが少しわかるような気がした 。
 彼の妹の亡骸が発見された場所と、その状況に話が及んだ時、芽生えかけてい た同情心は消えた。
 とってかわったのは、絶望だった。
 数日前、偶然食事をする機会を得たゼフェルのこの日の体調は、すこぶる良かった。青年の妹の命を奪ったのは、ゼフェル自身だった。

 後ずさったゼフェルの足に、机があたった。そのまま、ゼフェルは床に座り込んだ。
 その音に顔を上げた青年は、重たげな足取りながらもゼフェルの前まで移動し、手を貸して彼を立たせた。
 しかし、ゼフェルは数分もしないうちにまた座り込んだ。青年は、彼の体調を気遣う声を発した。ゼフェルは、ばね仕掛けの人形のように急に立ち上がって声を荒げた。
「心配なんかすんなよ!」
「おい、どうしたんだよ…」
「オレは、妹…。血を。違う。知らなかった。違う」
「何言ってるんだ……血?」
 不思議そうに言った青年のやつれた顔は、ゼフェルに恐怖をもたらした。絶対に知られたくなかった。それなのに、今自分はなんと言った?
「妹は、失血死だったって、言ってない…よな?」
 青年の目に、不審の色が差した。
「吸血鬼に殺されたんだ…。こんな辺鄙な村に吸血鬼がなんでわざわざ来たのかって、皆不思議がってるんだ」
 ゼフェルは、激しく頭を振った。
「なあ、なにか知ってるのか…?ゼフェル、教えてくれ」
 青年は、ゼフェルの肩に手を置いて彼を揺さぶった。ゼフェルは、視線を逸らした。
「頼む。俺はアイツの仇を討ってやりたいんだ!」
 青年の目に、涙が溢れ出した。悲痛な叫びがゼフェルの胸の中で反響した。
「なんとか言ってくれ…。ゼフェル!なあ!」
 悲しみの重さに耐え切れなくなったように、青年はゼフェルにそのまましがみついた。青年の耳と、ゼフェルのサングラスがぶつかった。ゼフェルは反射的にサングラスを押さえた。
「吸血鬼…。赤の瞳…」
 呟きながら、青年は、首の方向をずらした。

 ゼフェルは逃げた。自分自身と青年から逃げた。
 口を大きく開けたゼフェルは、顔のすぐ横にある青年の首筋に、牙を立てた。
 初めて味わう男の血は、ひどくまずかった。だが、ゼフェルは熱心に青年の血を吸った。一滴も残すまいと、ただその行為だけに没頭した。
 
 ゼフェルは青年の亡骸を自分のベッドに横たえた。驚きのために見開かれた眼球は、青年が最期までゼフェルが吸血鬼であることを信じなかった証であるように思えた。
 自分の目から液体が流れていたことに彼が気づいたのは、それが乾いてからだ った。



 ロザリアを慕う子ども達の目。ロザリアを賞賛する人間達の声。
 彼女を大切に思う人間も、彼女が大切に思う人間も、数え切れないほどいるのだろう。
「ダメだ」
 若い彼女には、自分の知らない親類縁者も多くいるだろう。自分には、それを見分けることができない。
「絶対にダメだ」
 人間を殺すことを罪だと思ってはいるが、許されないほどの大罪であるとは思ってはいなかった。
 だが、もう二度と、あんな思いはしたくなかった。

 
 

 帰途につきながら、彼は考えた。一度生まれた希望を完全に消すことはできなかった。
 シスター・ロザリアが言ったように”いつか”今日できなかった行動を実行すればいいと思いつき、彼はようやく落ち着いた。
 例え、今現在、彼女が天涯孤独であったとしても、結局言えなかっただろうと冷静になったゼフェルは思った。
 醜い目と、汚れた沼のようなこれまでの生を曝け出すには、彼女は美しすぎた。
 彼女を取り巻く人間の幾人かがこの世を去り、残った者を完全に把握してから彼女に話を聞いてもらうのだ。
 年をとり、老婆になった彼女になら、全てを見せることができる気がした。

 早く時が過ぎればいいと、これほど強く願ったことはなかった。





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