もとより、彼の生の上にあった喜びは片手の指が余る数しかなかったが、それらは砂漠の砂粒のほどにある痛みを伴う思い出に埋もれて、彼の記憶から消え去ろうとしていた。
さして目的もなく、生命を維持するためだけに彼は生きていた。彼の心象風景は、漆黒に近い灰色と毒々しい赤で構成されている。
外見上は同種族にしか見えない人間達を犠牲にし続けている彼は、生に倦み飽
きていた。
彼よりもはるかに短い寿命しかもたない人間ですら、時折言うではないか。
「何のために生きているのかわからない」と。
意思を持って生きている女達の断末魔は、彼にとって食事時のバックミュージ
ックにしか過ぎなかった。
長ずるにつれて、音程の定まらないその音を不愉快だと感じるようになり、しかしいつしかそれにも慣れた。
だが、やがて人の言葉を解するようになった彼は、助けや許しを求めるその声を再び恐れるようになっていた。
物心がつき始めた頃、十字架を見た彼の目は直接火に炙られたような激痛に襲
われた。目を押さえた両手からは液体が噴き出し、痛みと失明への恐怖に彼は泣き叫んだ。
どうにか失明を免れた彼の目は、生まれ持っていた色素の薄い灰色を失い、赤色を手に入れた。『吸血鬼は赤い瞳をしている』と囁かれ始めたのはこれ以後だ。
遠目から見ると美しくも見えるらしいその赤は、間近で見ると美とは最も遠いところにある。
ひび割れた表面からは、人間の血のような赤い色と、錆びた鉄に似た汚い茶色が覗いている。まるで、気の狂った彫刻家が偏執的に彫り上げた無秩序な作品のようだ。泥のついた擦り傷にも似ている。
小さな光すら直視することができなくなった彼は、光を遮断するためにサングラスを常に着けるようになった。
人間達に作られた小道具を着けた鏡に映った自分の姿は、彼にとっては道化以
外の何者にも見えなかった。
だが、両目の機能が著しく損なわれなかったとしても、そのグロテスクな目を衆目に晒すわけにはいかなかっただろう。
目立たないよう、彼はひっそりと生きていた。
人間の血を糧としている以上、人間達の中に埋没しなければならなかったのだ。
この世界を作った神なる存在を彼は信じている。もし自分と同じ人外の者がいたとしたら、きっと嘲笑されるだろう、と彼は考える。
しかし、創造主がいないのであれば、十字架や太陽によって視力や生命を失う、といった馬鹿げた現象が起こるはずがないと思うからだ。
赤ん坊が成人し、老い朽ちるほどの時が経過しても、彼の外見は変わらない。
当然、ひとところに居続けるわけにはいかなかった。
新しい街に流れ着いた彼が初めになすべき仕事は、教会の位置の確認だった。
それを滞りなく済ませたゼフェルは、いつもそうするように教会の見えないアパートメントを借りた。
そして、無感動に新しい街での生活を始めた。
忌避すべき教会に住むシスターの名は、この街に流れ着いて数日もしないうちに知った。
ベンチに置き去りにされた新聞から場末の酒場まで、その名が溢れていた。知らずにいられる方がおかしい。
ロザリア・デ・カタルヘナ。20歳にも満たない少女だ。
とある街の名士であるカタルヘナ卿の長女でありながら、神と呼ばれるものに仕えるために修道女になったらしい。
「なるほど、ご大層な名前なわけだ」
彼はそう呟いたが、特に悪意はなかった。人間の身分など、どうでもいい。
彼女の優雅な立ち居振る舞いや美貌、献身的な行為を人々は賞賛していたが、
彼は少し違っていた。
それらの美点を否定する気はなかったが、それ以上に見るべきところがあったのだ。
偶然が重なって写された細い首筋。
それは、美味な料理が乗るにふさわしい、美しい器に見えた。
食欲を喚起されたゼフェルは、少女の名を求めて外出するようになった。
写真と無個性な文字。そして人々の口を介してしか知らない端正な顔立ちを持つその少女は、いつしか彼の中で近しい存在になっていた。
そのうち、彼女が二週間に一度、公園で子供達を集めて話をしていることを知った。
木の陰から見た実際の彼女は、年齢にそぐわない落ち着きを持っていた。
口々に彼女を呼ぶ子供たちに笑顔を向け、頭を撫でる。
小さな唇は美しい言葉だけを紡ぎ、瞳は優しさを湛えている。
黒いフードを目深に被り、コートの襟を合わせながら、彼はその光景を熱心に見続けた。
ささやかな集いが終わりを迎えた後も、ゼフェルはいつまでも彼らがいた場所を眺めていた。
彼女を中心とするその世界を、もう少し見ていたかったと思った。なぜそう感じたかは、彼にもわからなかった。
たかだか17年かそこらを生きただけの小娘が偉そうに、と思わないでもなかったが、ただ長く生きているだけの自分が何を語れるわけでもないことも知っていた。
彼女の情報を得るためだけに、街の新聞を取ることにした。
配達された最初の新聞を手にとった彼は、遠い過去に特定の人間に興味を持っ
たことを思い出した。
今はもうこの世にはいないその人物は、山あいの小さな村に住む人の良い青年だった。
ゼフェルが一人で住んでいることを知ると、青年は理由を聞きたがった。
相手にしないでいると、勝手に生い立ちを想像したのか、許可も得ないうちに節介をするようになった。
ゼフェルがどれだけ邪険にしても、青年は彼の住む古ぼけた家のドアを叩くことをやめようとはしなかった。
そして、ゼフェルはいつの間にか微かな希望を持つようになった。
一人きりの生に虚しさを感じている自分自身がいることに、ゼフェルはその時初めて気づいた。
ある日、ゼフェルは青年の前でサングラスをとって見せた。
「綺麗な赤じ
ゃないか」
そう言った青年は、よく見ようと近づいて息を呑んだ。彼の顔中に驚愕が広がっていくのを、ゼフェルは黙って観察した。
それはゼフェルの予想通りの反応だったが、次に青年が言った言葉は、ゼフェルの予想の範疇にはなかった。
「痛むのか?」
ゼフェルは戸惑ったが、質問に対する答えだけを舌に乗せた。
「光を見るとな」
その後も青年はゼフェルの瞳の具合に関する質問を続け、考える時間を与えられないままゼフェルもまた答えを返し続けた。
一通り質問が済んだ後、青年は寂しそうに言った。
「草や川の色を見るこ
とはできないってわけだな」
「…ああ」
少し考えて、青年は笑顔になった。その笑顔は、毎朝ゼフェルが家のドアを開いた時に見せるものと寸分変わりなかった。
「色を楽しめないなら、肌で楽しむしかないよな。明日は川に行こう」
「なんでそーなるんだ!?」
突拍子もない提案に、ゼフェルは思わず大声を出した。そんな声を出すのも久しぶりだった。
「水遊びは気持ちいいぞ!お前、したことないだろ?」
「ねーよ。だいたい、オレは光を浴びることもできねーんだぜ。…そういう体質なんだ」
「じゃあ、日が落ちてから行こう。お前はただでさえ損してるんだ。知らないことを知るのは楽しいぞ。お前、それも知らないだろ?生きる喜びってやつを少しでも取り返すべきだ」
それからの日々を思い出す前に、ゼフェルは目を閉じた。
子供達のための集会に、ゼフェルは通い続けた。
わかりやすいようにと彼女によって簡略化された『神の御言葉』は彼に何の感慨も抱かせなかったが、彼女の口から漏れる音は、遠い昔に見たきりの青い空を思い出させた。
「あの夕焼けをごらんなさい」
彼女の声に、子供達は一斉に空を見た。太陽を背にする格好で立っていたゼフェルも、思わず後ろを振り向いた。
だが、サングラス越しに見る夕日は、薄暗い灰色の円でしかなかった。
感嘆の声を上げる子供達と、それを受けて嬉しそうに笑う彼女を見て、ゼフェルは自分の胸が軋む音を聞いた。
何百年かぶりに、色を失った目と人外の者である自分の身を呪った。
半年ほどが経過した。その中で、ゼフェルは一人の女の命を奪った。
シスター・ロザリアへ向けられた食欲は消えてはいなかったが、彼にとって魅惑的に過ぎる美しい喉に牙を立てる日は、永遠に訪れないだろうと考えるようになっていた。
時折過ぎる強い欲望に任せて彼女の喉を喰いちぎるのは、得策ではなかった。
食欲が満たされたその後に、またいらぬ苦悩を抱えることが容易に想像できたからだった。
ゼフェルの住むアパートメントの前に建つあばら屋には、年頃の娘が一人いた。
娘は彼に興味を持ち、なにかと話しかけるようになった。
しばらく経ったある日、娘は街に出ようとするゼフェルの前に立った。
どこに行くのかと問われて、ゼフェルは適当な店の名を言った。すぐに歩き始めたゼフェルの横に並び、娘も歩き始めた。
「一緒に行こう」
図々しく言う娘を一喝して追い返そうと思ったが、ゼフェルは空腹だった。前の食事から三ヶ月は経っていた。
その気はなかったが、横を歩く娘の首筋を盗み見たゼフェルは、栄養を摂れという体の訴えに耳を貸す気になった。
「勝手にしろ」
そう言うと、娘は嬉しそうに笑って、世間話を始めた。
絶え間なく動かされる娘の口に辟易したゼフェルの食欲は、徐々に消えていった。
やはり追い返そうと考え始めた時、娘は何気ない口調で質問をした。
「あなた、私と同い年くらいなのに一人で住んでいるのね。親はいないの?」
「いねーから一人でいんだよ」
そう答えた彼に、娘は同情するような視線を向けたが、すぐに視線を地面に落とした。
「私にはいるけど、いない方がマシなくらいの親なの」
娘が語った家庭環境はひどいものだった。一生懸命話す娘を置いていくこともできないまま、店に着いた。
長い話が終わるまで店に入らず立っていたゼフェルに、娘はこう言った。
「私、ずっと誰かに話を聞いてもらいたかったの。ありがとう。思った通り、あなたは優しいのね」
翌日から、娘は連日ゼフェルの部屋を訪ねるようになった。ゼフェルは居留守を使い続けた。
消えたはずの食欲はすぐに戻り、それを抑えるには相応の努力を要した。
娘の血は吸いたくなかった。知りすぎてしまったのだ。
情を抱いた人間の命を奪えない自分を苦々しく思ったが、どうすることもできなかった。
一週間後、彼はドアを開けて怒鳴りつけた。娘の来訪はなくなった。
空腹を満たしたのは、その翌日だった。
血と恐怖に塗れて死んだのは、汚れた酒場で隣に座った女だった。
場違いなほど高級な服に身を包んでいたその女は、黒服の男を二人連れていた
。
彼らの一人に煙草に火をつけさせ、小さくすぼめた唇から煙を吹き出す。年の頃は20代の最後の階段に足をかけたくらいの、美しい女だった。
話し方やしぐさから、彼女が上流階級に位置する女であること、そしてそれに唯一無二の価値を置いている女であることがわかった。
その女は、からかいの色に染まった声をゼフェルにかけた。別段彼が気に入ったわけではなく、ただのきまぐれだった。
視線も動かさずに無視をしたゼフェルの態度がプライドに障ったらしく、高圧的な口調でサングラスを外すように言った。男達は空気のようにただ立っていた。
女の気まぐれがうつったわけでもないだろうが、ゼフェルも気まぐれを起こした。
彼は、サングラスを僅かばかり上げて女に見せた。瞼を閉じた上での行動だったため、女は彼の眼球を見なかった。彼の顔立ちは女の好みに合致していた。
かわいい坊や、と呼んだ女の声は、うってかわって艶めいていた。
意味ありげな視線をゼフェルに寄越して、男達には物を見るような目を向けて帰るように命じた。
ゼフェルは女の望みを叶えた。
女が言った台詞は「二人で店を出ましょう」というものであり、その後の予定については口にしていない。
狭く暗い路地で、女は華やかだった人生の惨めな終着点を迎えた。
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