9
猥雑な景色が流れていく。
原色と肌色で彩られた汚れた町並み。好奇の目。揶揄の声。不規則な口笛。
追っ手が来ていないか確認するために後ろを振り向こうとしたが、上手く首をまわすことができず、青い髪が見えただけだった。立ち止まろうかと思ったが、結局その勇気は出なかった。
心もとなく乱れている自分達の足音が、オレの心にあった小さな不安の種に水をやる。心臓がどくどくと鳴る。見つかった時のことを考えて、空恐ろしくなった。
汗にまみれた手のひらに意識を集中する。繋いだ手に力を込めて、嫌な考えを振り払った。
逃げ出す直前に、オレは時間を確認していた。走りながら腕時計を見ると、それから十五分ほどが経過している。
ロザリアの足音が軽快さを失いつつあることには、少し前から気づいていた。
男で、しかも最近はバイトで少しは鍛えられた自分ですら息が上がっているのだ。
彼女はもっと苦しいだろうと思った。
店にあった薄汚れたスニーカーは男物だ。紐をきつく縛ったが、足に合わず走りにくいだろう。べたべたと鳴る彼女の足音によって、彼女の疲労がピークを迎えていることがわかる。
だが、駅までは止まりたくなかった。もう少しで駅に着くのだ。電車に乗ってしまえば少しは安心できる。
『それからどうするんだ?』
頭に浮かんだその質問を、意図的に無視した。
人と色と金の匂いで溢れ返っている街を抜けて、大通りへと続く道に入った時、強く手が引っ張られた。重心が後ろにずれたと思うと、繋いでいた手がずるりと離れた。
ロザリアが転倒したのだ。
「ロザリア!」
大きく開けた口を慌てて閉ざした。ただでさえ目立っているのに、大声はまずい。
「ごめんなさい」
小さくそう言って、ロザリアは立ち上がった。服についた砂を払う。
「ゼフェル様のお洋服を汚してしまいましたわ…」
申し訳なさそうにそう言いながらも、彼女は砂を払う作業を熱心に続けている。彼女の白い手で撫でられると、元々ついていた汚れも払われてしまいそうな気がした。
いつの間にか彼女の手とその動きに見蕩れていたオレは、慌てて言った。
「どーせ前から汚れてんだから気にすんなよ。それより、大丈夫か?」
「わたくしは大丈夫ですわ。足をひっぱってしまって、申し訳ございません」
「いや、オレが悪い。ロザリアのこと考えねーで走っちまってた」
本当にそうだ。ただ逃げることだけで精一杯で、追っ手の存在を恐れて、彼女を気遣ってやれなかった自分が悪かったのだ。情けなかった。
「わたくしのことを考えて下さっているからこそ、懸命に走って下さっているのでしょう?」
思いやりに溢れたロザリアの言葉で、さらに自己嫌悪が募った。
まだ追っ手の姿は見えない。もしかして、誰も追ってきてはいないのかもしれない。
そうだ、オレは心配し過ぎなんだよ。そう思うと、普段のふてぶてしさが蘇った。
いくらか余裕を取り戻したオレは、大きく深呼吸した。それからバッグの中を引っ掻き回して、ウーロン茶のペットボトルを取り出した。
「これ、すげーぬるくなってっけど」
その後に続けようとした『飲んでくれ』という言葉は、口の中で消えた。
飲みかけのペットボトルを見た途端、ロザリアが動きを止めたからだった。
中途半端に伸ばした腕を引っ込めることもできず、オレも手の中にあるペットボトルを見た。
走ったせいで泡だっている茶色い液体が、とんでもなく汚らしく見えた。
「…あの、わたくしに下さるのですか?」
小さな声で言われて、オレはやっと頷いた。
「嫌ならいーけどよ」
オレはペットボトルをロザリアに手渡した。逡巡した挙句、彼女は蓋を開けた。
こわごわと飲み口を見るロザリアは、回し飲みをしたことがないように見える。これまでの彼女は、どんな生活をしていたのだろう。少なくとも、自分とは全然違った暮らしをしていたことは確かだろう。
ジュースも買えないほどの貧しい生活?今の時代にそんなもの、あるのだろうか。
そう考えているうちに、オレはあの歌を思い出した。
「なあ、この歌覚えてるよな?」
いきなり歌い始めたオレに、ロザリアはペットボトルを眺めるのをやめて、戸惑った顔を見せた。
サビの部分を歌い終わっても、ロザリアは何も言わなかった。そして、残念そうに首を振った。
「覚えてねーのか!?すげー流行ったじゃねーか」
「わたくし、流行事には疎くて…」
少し、いやかなり寂しい気持ちになってロザリアを見ると、意を決したように目を瞑ったところだった。そして、彼女はペットボトルに口をつけた。喉が上下に動いて、眉が寄った。
「まずいんなら、飲まなくていーんだぜ」
オレは自分が拗ねていることを自覚しながら言った。女々しい自分が恥ずかしかったが、どうしようもなかった。ロザリアはぶんぶんと首を横に振って見せた。
「まずくはないですわ!喉がからからでしたから、助かりましたわ」
オレは、その返答に少し気を良くした。
「オレは喉渇いてねーから、全部飲んでいーぜ」
そう言ってみると、ロザリアは嬉しそうに笑って、今度はためらわずに口をつけて勢いよく飲み干した。
オレの機嫌は簡単に良くなった。恋する男は単純だ、と思った。そして、今度はそんなことを思ったことに恥ずかしくなった。こんな風に恥ずかしい思いをするのは何度目だろうか、とも考えた。
空になったペットボトルをバッグに入れながら、もう少し休んでいこうと提案したが、却下された。
「わたくしを案じて下さっているなら大丈夫ですわ。行きましょう」
強く輝く瞳に気圧されて、オレは頷いた。手を取り直して、再び走り始めた。
気のせいか、体が少し軽くなったように思える。ペースを緩めているからか、先ほどまでと違ってロザリアの足音とオレの足音は重なっている。なんとなく、爽快な気分になる。手はすぐに汗ばみ始めたが、どちらの汗なのか区別がつかない。
季節は、少しずつ夏から秋へと移動している。涼しい風を受けて、自分が生きていることを実感した。
考えてみれば、あの部屋以外でロザリアといるのは初めてだ。好きな女と二人で何かをする−それがあてのない逃避行であっても−ことが楽しいことを、オレは知った。
今は並んで走っているロザリアの顔を盗み見ると、目が合った。ロザリアは、恥ずかしそうに笑った。ロザリアも自分を見てくれていたことがわかって、オレは喜んだ。
息を切らしながら、オレ達は笑い合った。
同じ頃、店は大騒ぎになっていた。
体格の良い男達がマリーを囲んでいる。リーダー格の角刈りの男が口を開いた。
「女が逃げたのはいつ頃だ?」
「逃げてすぐにあんた達に連絡したんだから、そんくらいだよ」
「十分経つか経たないか、か。お前の話によると、男は歩きだったな。駅に向かってるとしたらまだ間に合う」
携帯電話を取り出し、呼び出し音を聞きながら、男はマリーに再び話しかけた。
「女の髪の色は青だったな。男の特徴は?」
マリーは遠くを見るような目で、気のないように答えた。
「銀髪だったね。背は低くてまだ若い。坊やだよ」
「怖いモン知らずのガキか。…他になにかないか?どんな服を着てたか覚えてるか?」
視線を男に向けて、マリーは鼻を鳴らした。
「そんなとこまで覚えてないよ」
マリーがそう言うと同時に電話が繋がったらしく、男は指示を下し始めた。1分も経たないうちに男は電話を切った。
「駅前でブラブラしてる奴に行かせたから安心しろ。大事にはならんだろう」
皮肉そうに頬を歪めた男に、マリーはうんざりした顔で返した。
「なんであたしが安心なんかするんだよ」
「お前のミスだろう」
「女一人で止められるわけないじゃないか。だいたいあたし一人に店任せてるのが悪いんだよ。人件費ケチりやがって」
非生産的なやりとりをしていると、外を見回っていた男が店に戻ってきた。
「角のババアがそいつらを見てました。ちょうど時計を見てたらしいんですが、二十分ほど前に通り過ぎたそうです」
短い沈黙の後、角刈りは苛立たしげにマリーに言った。
「おい、時間は正確に言えよ。二十分も経ってんじゃもう駅に着いてるだろ。お前は十分間何やってたんだよ!」
マリーはうるさそうに眉を上げて、言い放った。
「さっきも言ったけどねえ、あたしはすぐにあんたに電話したよ。角のバアさんボケてるって有名じゃないか。あんたはあたしよりもボケたバアさんを信じるのかい?長いつきあいになるってのに」
「…それならいい」
マリーの視線を避けるように椅子に腰を下ろした男は、再び携帯電話を取り出した。
駅前に着いて、オレ達は立ち止まった。
四方八方を見回してみたが、追っ手らしき人間の影はない。
「こっからは走らなくていーな」
そう言って、オレはロザリアの手を離した。ずっと繋いでいるわけにもいかないし、オレは手を繋いで歩くカップルが嫌いだった。でも、彼らがなぜ手を繋いで歩いていたのか、少しだけわかるような気がした。正直に言うと、もう少し繋いでいたかったのだ。
「どうかなさいましたの?」
内心でいろんなものと戦っていると、ロザリアに声をかけられた。
「な、なんでもねーよ!それより、行こうぜ」
駅構内へと続く階段を見上げた。もう少しで電車に乗ることができる。この街ともおさらばだ。
オレは何段か階段を駆け上がった。だが、ロザリアは動かなかった。階段の下から、呆然とした表情でオレを見ている。
「おい、どーしたんだ?」
大声で言ってみたが、まるで聞こえていないようだ。
彼女の元へ戻ろうとして、彼女が自分を見ていたわけではないことに気づいた。自分を通り越して、オレの後ろの何かを見つめている。嫌な予感がした。まさか。
オレが後ろを振り向こうとした時、ロザリアはやっと声を発した。
「ルヴァお兄様。…ジュリアス様」
呼びかけられた男達もまた、呆然とロザリアを見ていた。
白い帽子を被った優しげな雰囲気の男と、金色の髪が印象的な、顔立ちの整った長身の男。どちらも二十代半ばくらいに見える。
仕立ての良い服を身にまとっている彼らは、この街にまるで似合わなかった。
「ロザリア!探しましたよー」
帽子の男は、間延びした声で言った。
「ルヴァお兄様、どうしてここに」
ルヴァと呼ばれた男は、おろおろしながらも大きく笑顔を作った。
「この街であなたを見たという報告を受けてから、ずっと探していたんですよー。でも、見つかって本当に良かった」
胸を撫で下ろして微笑んでいるルヴァとは対照的に、金髪の男は厳しい顔のまま、無言を通している。
お兄様、そう彼女が呼ぶということは、この穏やかそうな男はロザリアの兄なのだろう。代わる代わる見てみたが、二人は全く似ていない。むしろ、ジュリアスと呼ばれた男の方が近い。オレはなんとなくそう思った。
緊迫する雰囲気の中でそんなことを考えるほど、思いもよらなかった展開に混乱していた。
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