10
サラリーマンらしき中年の男の肩が、ロザリアにあたった。
「失礼」
肩がぶつかった時の衝撃より、男の声の方に彼女は反応したようだった。
「いえ、こちらこそ」
彼女が慌てたように言った時には、男はもう駅に吸い込まれていた。
「あー、とにかく帰りませんか?通行人の迷惑になりますし」
ルヴァは眉を顰めて言ったが、その声は弾んでいる。よほど嬉しいのだろう。
彼の言葉を受けたロザリアは、逃げ道を探すように左右に視線を散らした。
「お話は家で聞きますから。ね?」
「でも、わたくし」
ロザリアは、ふと口を噤んでオレを見た。何か言わなくてはと思っているうちに、ルヴァが先に口を開いた。
「この街で…どういうお店にお世話になっていたのか、私にもだいたいはわかります。いえ、知っています」
ルヴァの声は、いつの間にか快活さを失っていた。
「あなたを連れていた男の身元が、今日わかったのです」
ロザリアの顔が羞恥のために赤く染まるのを見て、悲しそうな目をした。オレは、彼女のために弁明をしてやりたかった。だが、どう言えばいいかわからなかった。
「でも、私はただ嬉しいんです。あなたが見つかって、本当に嬉しいんですよー」
ルヴァは、本当にそう思っているようだった。オレは、とにかくホッとした。
「ですから、お願いです。私と一緒に帰ってください」
懇願するように言うのを見て、こんなに良さそうな兄貴がいるのに、どうしてロザリアは家を出たのだろう、とオレは初めて不思議に思った。
「ロザリア」
ルヴァではない男の声が彼女の名を呼んだ。金髪の男…ジュリアスの声を聞いたロザリアは、恐れるように視線を地面に落とした。
「…私が、そんなに嫌だったのか?」
「いいえ、いいえ、違いますわ」
声を震わせて、ロザリアは小さく言った。
一歩、二歩。ジュリアスはロザリアに向かって足を進めた。
ジュリアスとロザリアの間には、オレがいる。だから、オレとジュリアスの距離も縮んだ。
兄だと思われるルヴァが彼女を探していたことは、理解できる。
しかし、この男がルヴァと行動を共にしていることがわからない。
ただ、彼らが無関係でないことだけはわかる。
ロザリアの青ざめた顔色。ジュリアスの視線。そして、なによりも先ほどの言葉だ。 ”そんなに嫌だったのか?”…どういう意味だ?
「あんた、何モンだ?」
自分でも驚くほど、オレの声には敵意がこもっていた。
ジュリアスは、初めてオレを見た。こんなところに人がいたのか、とでも言うように眉が軽く上がった。気に入らないと思うと同時に、オレは既視感を持った。
オレはどこかでこの男を見ている。目立つ男だから、どこかで見かけたのかもしれない。
「この少年は?」
オレにではなく、ロザリアに聞いた。オレはそれも気に入らなかった。だいたい、背の高い男は嫌いだ。何もかも気に食わねえ。
「ゼフェル様です。わたくしを助けて下さった方ですわ。…この方のおかげで、わたくしは今ここにいるのです」
そう聞いた途端、意外にもジュリアスはオレに笑顔を向けた。それどころか、頭を下げた。
「そうだったのか。感謝する」
ルヴァは、オレに近づいて帽子を取り、やはり頭を下げた。
「あー、妹を助けて下さってありがとうございます。なんとお礼を言っていいのやら…」
感極まったようにオレの手を握り、勢いよく上げ下げした。
「そんなことより、あんたはロザリアの兄貴なんだよな?で、そっちのあんたは?」
手を押しやって、オレは気になっていたことを聞いた。
「私は…彼女の従兄弟だ」
歯切れの悪い口調が、それだけではないことをオレに教えた。
「そんで?他にもあるだろ」
「……婚約者でもある」
体の汗が、一度にひいた。オレは、眩暈を覚えた。恋人だと言われたらどうすればいいだろうか、と考えていた。そう言われたら、オレは傷つくだろうと思っていた。
しかし、もしそうだとしても、オレは絶対に退かないつもりだった。いくつも台詞を考えていた。
『ロザリアを追い詰めるような恋人なんて、認めない』
『オレの方が、ロザリアを想っている』
『ロザリアは、オレを好きだと言ってくれた』
婚約者。高校生の自分には縁のなかった言葉だ。重すぎる言葉だった。
オレは、思わずロザリアを見た。
彼女は伏せていた顔を上げて、ジュリアスを見ていた。
「ジュリアス様を厭うてはおりませんわ」
そんな言葉は聞きたくなかった。
それから続いた彼らの会話で、オレにも事の次第が少しわかった。
ロザリアの家出の理由は、婚約者であるジュリアスに、他に好きな女がいることだった。
相手の女はロザリアもよく知っている女(ロザリアは、”ディアお姉様”と呼んでいた)だ。ジュリアスとロザリアは、ルヴァを介してその女と知り合ったらしい。
ロザリアとジュリアスは従兄弟同士で、双方の親は親しく付き合っている二人を見て、良かれと思って彼らの婚約を決めた。その時点では、ロザリアはジュリアスがその女に好意を持っていることを知らなかったのだが、しばらく後に、偶然知ることになった。
ジュリアスとの婚約を破棄できないかと父親に言ったが、理由を問う父親に何も言えず、逆に宥められた。
思い余って、彼女は家を飛び出した…のだそうだ。
全く理解できなかった。
どうしてたったそれだけのことで、家出をしたのか。親ともっと話し合えばどうにかなったはずだと思った。
とにかく家に帰ろうというルヴァの提案は忘れ去られたようで、ロザリアとジュリアスは重い空気の中で会話を続けている。
「ジュリアス様は、ディアお姉さまをお好きなのでしょう?なぜそれをお父様に仰らないの?」
「私の一方的な想いにしか過ぎない。彼女は何も知らないのだ」
ロザリアは、彼の言葉を吹き飛ばすように、強い口調で続けた。
「お好きな方がいるのに、わたくしとの婚約を守り続けることはないでしょう!?」
「もうよいのだ。恋などというすぐに冷めてしまう一時の感情を、私は信じてはいない。それに、私はロザリアを実の妹のように愛しているのだ。大切なロザリアの名に、傷をつけたくはない」
親同士が決めた婚約というのも時代がかっていて、ピンとこなかった。
婚約を解消することが、ロザリアの名に傷をつける、ということも、よくわからなかった。大げさだと思った。
『婚約者』という言葉は、オレにショックを与えた。
だが、それとは違う事実こそが、オレから言葉を奪っていた。
オレは、打ちのめされていた。
オレだけがまるで別世界の人間のようだったからだ。
ついさっきまで、オレとロザリアを中心に世界はまわっていた。オレの胸は、高揚感とロザリアへの想いで満ちていた。これからどうするかなんてまだ考えてなかったけど、ロザリアと二人で生きていくんだと思っていた。
それなのに、今はオレだけが蚊帳の外だ。オレを抜きに、世界がまわっている。
ロザリアの瞳は、ジュリアスを見ている。ロザリアの口は、ジュリアスのために動かされている。オレの存在を忘れたように、彼女はジュリアスへ向かって、必死に何かを言っている。
時折ルヴァが会話に加わる。二人をよく知る人間として、彼らの仲裁に入ろうとする。カタルヘナ家がどうの、という言葉が耳に入って、オレはロザリアのフルネームを知った。
そして、オレは気がついた。
ロザリア…ロザリア・デ・カタルヘナ。
カタルヘナ財閥。
世界屈指の大財閥だ。オレの身の回りにも、”カタルヘナ”と名のつくものがたくさんある。銀行、自動車会社、保険会社、不動産会社。
オレが学校で使っているシャーペンにも、前に乗っていたバイクにも、”カタルヘナ”のマークが刻まれていた。カタルヘナのマークは王冠だ。
家の前に建っているマンションにもそれがついていて、オレは毎日見ている。クラスのヤツが、兄貴がカタルヘナ系列の会社に採用されたことを自慢していた。
今日運んだセメントにも、現場の前に止めてあるトラックにも、王冠のマークはついていた。
ロザリアという名の一人娘がいると、いつかテレビで言っていたことも思い出した。ジュリアスの顔に見覚えがあったのも、多分テレビで見たんだろう。『若き経営者』とかいう番組を、オレの母親は好んで観る。
パズルのピースが組み合わされていく。
同世代なら誰でも知っているはずの歌を知らなかったロザリア。飲みかけのペットボトルを渡そうとした時の反応。丁寧すぎる彼女の話し方。ジュリアスとルヴァの着ている、見るからに高そうな服。
そして、今の彼らの会話。婚約者。名に傷がつく。
小さな家の中で、貧しい生活をしているロザリアを想像するより、大邸宅で優雅にくつろぐロザリアを思い描く方が簡単だ。
オレを好きだと言ったロザリアが、消えてしまったような気がした。
彼女は、本当に別世界の人間だったんだ。
「こんなのってねーだろ」
誰にも聞こえないように、小さく呟いた。小さく言わなくても、どうせ誰も気づかないだろうと思うと、余計にせつなくなった。
辛くて、寂しくて、なにより裏切られた気持ちで、オレは下を向いた。
いつの間にか近づいていたらしいルヴァが、オレの肩に手をおいた。
「とにかく、ロザリアは連れて帰りますね。ゼフェルくん、でしたね。連絡先を教えて下さい。後で必ずお礼に伺いますから」
その声に、ドタドタとうるさい足音が重なった。いたぞ、という叫び声が続いた。
追っ手だろう、とオレはぼんやりと思った。複数の男に囲まれたが、オレは顔を上げなかった。
彼女はもう大丈夫だ。オレの出る幕はない。
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