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男達が小競り合う声が外から聞こえる。続いて、車のクラクションがけたたましく鳴り響いた。その音はしばらく続いていたが、やがて消えた。「お前らそこ退けよ!」一際大きな怒声は、業を煮やしたドライバーのものだろう。安普請のせいで、外の喧騒がまるで建物の中で起きている出来事のように思える。
オレは、それらの雑音を聞くともなしに聞いていた。長引く沈黙のせいだった。
…こういう状態ってなんて言ったっけ。ああ、そうだ。”コウチャクジョウタイ”ってやつのはずだ。漢字までは思い出せそうにねーな。バカみてーにごちゃごちゃした字だった気がする。”コウ”が。
居心地の悪さと、自分の不甲斐なさを責め立てるオレ自身から逃避して、そんなことを考えた。
「あの…どうされますか?」
「へ?どうするって?」
「いえ、その…シャワーを先にお使いになりますか?」
その質問の意味くらい、オレにもわかる。
わかって、想像しちまって…とにかくオレは声を張り上げた。
「そ、そんなの使うか!何言ってんだよ!」
これ以上刺激しないでくれ、と祈るような思いで叫んだオレに、ロザリアは追い討ちをかける。
「でしたら、お布団をご用意いたしましょうか」
言って、体に巻きつけていた布団をとって立ち上がった。
ひらひらと踊るように動くスリップの裾と、そこから伸びる白い足が異様な存在感を放ちながらオレの目に飛び込む。
生唾を飲み込んで、頭を振った。視界がぶれて、気分が悪くなる。
立ち上がって、二畳ほど先で布団を敷こうとしていたロザリアの手首を掴んだ。
…すげー細い、なんて感心してる場合じゃねーって!
「違うって!やめろ!」
「やめろと言われましても…。なぜですの?」
オレの顔を覗き込んだロザリアの顔は可愛かった。が、その下にある胸の谷間がどうしても目に入る。少しでも手を動かせば、触れてしまいそうだ。
強烈にオレを惹きつけるそのふくらみを見ないよう目を固く瞑った。自分の精神力を誉めてやりたい。ハックに知られたとしたら、逆にバカにされるかもしれないが。
「オ、オレは、おめーにそんなことしてほしくねーんだ」
「ですが、その、いつまでもゼフェル様に甘えているわけには参りませんわ」
甘くもなく、悲観的でもなく、きっぱりとした口調で言う。
「とにかく、座ってくれ」
「ですけれど、ゼフェル様。わたくしにも事情がございますわ」
「じ、事情ってなんだよ」
「無為徒食のまま、いつまでも置いていただけるはずがございません」
「ちょっと待てって」
声をかけたが、ロザリアはオレの声などまるで聞こえていないように続ける。
「いずれにせよ、わたくしはお勤めをしなければならないのですから」
「頼むから、オレの話を聞けって!」
「…ゼフェル様、目を開けて下さい」
真剣な声に押されて、オレは怒鳴るのを止めた。
ロザリアはそれ以上何も言おうとせず、部屋は静かになった。
「目を開けろって…」
沈黙に耐えられずに言ってみたが、やはり返事はなかった。覚悟を決めて、オレは目を開いた。
白い太ももと、黒のレース。正視できない。
オレはじりじりと後ずさった。情けないなんて思う余裕はなかった。
挙動不審に視線を散らしながら移動するオレに構わず、ロザリアはぺたんと座った。
「いつかは、必ずお勤めをしなければならないのです」
そう繰り返して、ロザリアはオレに抱きついた。
冷たくて細い指が、オレの首に触れた。オレの体は震えた。
「ですから…ゼフェル様に、最初はゼフェル様に」
乳房がオレの胸にあたった。
「お願いですから、わたくしを」
彼女の体と触れ合っている全ての箇所と、頭が熱くなった。
当然、違う部分も熱い。むしろそこが一番熱い。彼女にそれを気取らせたくなくて、オレは腰を引いた。怪訝そうにロザリアは首を傾げた。香水の匂いがした。
オレの顔の横にある、綺麗なうなじ。理性が溶ける。
たまらずロザリアの背中に手を回すと、ロザリアはビクっと震えて、オレにしがみついた。
さらに強く体を押しつけられて、オレの背中が壁にあたった。
この部屋の音、隣とか下の部屋にも聞こえちまうのかな。としたら、なるべく静かにしねーと。聞かれると恥ずかしー…って。違う!違うって言ってんだ!
後悔したくねーんだ。こんな形じゃ嫌なんだ。抜き差しならない状況になって、やっとわかった。オレの言うべきことが。オレの望みが。
「なあ、ロザリア」
「…はい」
「おめーが好きだ。おめーは、オレをどう思ってる?」
ロザリアの呼吸が止まった。
肩を掴んで体をゆっくり離して、彼女の顔を見た。
「わたくし…」
そこで言葉を切って、彼女は押し黙った。オレは、自分の手が汗ばんでいることを知った。
顔をゆっくりと上げたロザリアは、口を開いた。
「わたくしも、ゼフェル様が好きですわ」
凛とした口調で、はっきりとそう言った。
「そう、あなたが好きだから、わたくしはあなたと…」
ロザリアの瞳は潤んでいて、熱っぽくオレを見つめている。
好きだと聞いて、オレは天にも昇る気持ちになった。確かにオレは嬉しかった。混じり気のない喜びは、しかしすぐに消え去った。オレは納得できなかった。
「おめーさ、わかってねーよ」
不安げな顔を作った彼女が傷つかないように、オレは先を急いで言った。
「好きってのは、客としてってことじゃねーんだぜ?オレは、ただロザリアって女が好きなんだ。おめーはどーなんだ?違う場所で会って、オレが客じゃなかったとしても、オレのこと好きだって思うか?」
そこまで言ったオレは、今まで見たことのない彼女の表情を見た。ロザリアは、やや不服そうに眉根を寄せていたのだ。
「おっしゃる意味がわかりませんわ」
「問い詰めてるんじゃねーんだ。ただ、こういう…その、特殊っちゃ特殊な場所だろ?だから、おめーはオレを好きだって自分で思い込んでるんじゃねー?」
何気なさを装いながら、オレは緊張していた。
理屈っぽいっつーか、こんな状況で何をうだうだと言っているのか、と思われたらと思うとやっぱり怖かった。
でも、オレは譲れなかった。
オレは、ロザリアにちゃんと好きになってほしかった。
”客として”これ以上望むべくもない男だから好き、じゃ嫌だった。
ロザリアが今言ってくれた”好き”がその範囲を超えないものであれば、今のオレの発言によって”客として”の好きすら失うに違いなかった。一種の賭けだった。
ガタガタうるさい客。客のくせに、心からの愛情を求める客。多分、一番性質が悪い客だ。
「おっしゃる通り、別の場所でお会いしていたら、わたくしはあなたを好きにならなかったかもしれません」
ロザリアの言葉が胸に刺さった。
「ですけれど、わたくしはここであなたに出会って、あなたを好きになったのですわ」
そう続けられて、オレの胸の傷は瞬時に癒えた。
「それだけでは、いけませんか?」
ダメなわけなんてなかった。
オレなんかより、ずっと冷静に考えていてくれたことがわかった。
「でも、あんたはオレと会うの二回目だぜ?そんな簡単に好きになったりって、アリかよ」
もう十分のはずなのに、質問を重ねてしまう。甘えている。彼女の想いがどこまで深いのか、オレのこの気持ちとどこまで近いのか、確かめたい。
…やっぱりオレはバカだ。なんだよ。どこまで求めるんだ?
「あなたがいらしてくれた後も、わたくしは毎日恐れていました。マリーさんのご好意でお休みをいただいておりましたから、時間だけはありました。嫌な想像ばかりが頭に浮かんで、怯えて、自分を叱咤して…やっぱり恐ろしくて」
…でも、どこまででも応えて欲しいんだ。
「考え疲れた時、自棄になりそうな時は…あなたを思い出しておりました。一度きりしかお会いしていないあなたを、わたくしの都合の良いように変えていたかもしれません。ですけれど、もう一度あなたにお会いしたい、そればかりを考えていたのですわ」
深呼吸したロザリアは、オレをまっすぐに見た。
「そして、あなたは来てくれました。それに」
「…それに?」
「ゼフェル様も、たった二回しか会っていないわたくしを好きだと言ってくださいましたわ。ですから、わたくしの気持ちも多少はおわかりになるでしょう?」
そう言って、ロザリアはにっこり笑った。晴れ晴れとした笑顔だった。
オレは嬉しさと愛しさのあまり、力いっぱいロザリアを抱きしめた。勇気ってやつが少しずつ湧いてきた。
「もう一個だけ聞かせてほしーんだけど、いいか?」
ロザリアの頭が少しだけ動いた。首をどの方向に振ったのか、わからない。
…聞いていーのか悪いのかわからねー反応だな。
そう思ったが、すぐに自分が強く抱きしめているせいでロザリアが身動き取れなくなっているのだと気づいた。
腕の力を緩めると、ロザリアはほっと息をついてから頷いてくれた。
「おめー、オレと…って思ってくれてるんだよな?」
「…ええ」
「後悔しねーか?」
「いたしませんわ」
「怖くねーか?」
「怖いですわ。ですけれど、他の方と、と考えるともっと恐ろしいですわ」
「それくらいオレのこと、好きでいてくれてんだよな?」
「ゼフェル様、質問が二つに増えておりますわ」
突っ込まれて、オレは言葉に詰まった。
怖がっているのは、オレの方だ。今オレが考えていることを言ったら、ロザリアはどんな顔をするのかと思うと、怖い。
でも、いつまでも質疑応答を繰り返しているわけにもいかない。
「わりー。はっきり言うぜ。時間もねーことだしな」
「時間はまだございますわよ?マリーさんの言葉をお聞きになったでしょう?」
不思議そうに言ったロザリアに、どう答えるべきかオレは迷った。
確かに、ただ…あー、ヤるだけだったら時間はある。初心者のオレでも、なんとかなりそうなくらいに。一度だけじゃなく、二度でも三度でもできそうなくらいに(あくまでも、時間だけで言えば、だ)。
でも、今はもう、オレは全く別のことを考えてるんだぜ?
ロザリアは困るだろうか?それとも喜んでくれるだろうか?
どっちにしても、今のオレの選択肢はただ一つだ。他には何もない。
「なあ、こっから逃げよーぜ」
そう言うと、ロザリアは目を瞠った。
先のことなんか、知るか。
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