5
きっちりやってきた二日酔いで痛んでいた頭は、今は酒が抜けてすっきりしている。
高く昇っていた太陽も、少しずつ下がり始めてきた。
「バイトの奴は上がっていいぞー」
大きく張り上げられたその声を、さすがに今日は聞き逃さなかった。
誰かに話しかけられないうちに監督の元に急いで、日当を受け取る。
そのついでに、明日は休ませて欲しいと言ってみた。ダメ元…というよりも、断られるに違いないと思っていた。まだ始めに言われた一週間すら経っていないし、なにより急過ぎる。正直休めるとは思ってはいなかったから、明日も普段通りバイトに来るつもりだった。
ロザリアに会いに行くのは夜だ。さすがに朝までいることはないだろうから、来ようと思えば来れる。
ただ、もしかしたら…そういうことになるかもしれない、という期待と、バイトに来る気になれないほど落ち込んでいるかもしれない、という不安がオレの口にそう言わせただけだった。
だが、監督は渋々ながらも首を縦に振ってくれた。
「その代わり、明後日は倍働けよ」
その言葉に驚くと同時に、申し訳ない気分になった。
なんとなく後ろめたい気持ちのまま、自分のバイクに跨る。
お疲れさん、と誰かに言われたが、振り返らずにエンジンをかけた。
「涼しー!」
もやもやしたものを振り払うように、大声で叫んだ。
時速は…まーいいじゃん。とにかく、自分が快適だと思ういつもの速度で走っている。
夕暮れ時の太陽には、アスファルトを照りつけるほどの力は残っていない。歩いていても生温いくらいの気温だ。バイクを飛ばすと涼しくさえ感じる。
風に煽られて汗がひいていく。少し寒気がしたが、走り始めてから5分もしないうちに心地良くなってきた。
大通りに出て商店街の前を横切ると、聞き覚えのあるメロディーが耳を掠めた。二年前に流行った曲だ。
甘ったるい歌詞が乗ったこの曲は好きではなかったが、当時は街中にこの曲が溢れていたからよく覚えている。
あの時オレは中3だった、と考えて、彼女が同い年だと言ったことを思い出した。同級生だった女子達と同じで、ロザリアもこの曲を聴いて騒いでいたのかもしれない。強引に誘われて嫌々行ったカラオケで、まるで自分自身の体験を歌っているかのように、潤んだ瞳でこの曲を熱唱していた少女を思い出して笑った。
流行ってる歌に騒ぎまくるロザリアなんて想像できねーけど…好きだったかどうか今日聞いてみっか。
速度を落として、嫌いだったはずのその曲を口ずさむ。
共通の話題を思いついたせいか、胸が躍っている。
君に会いたいから走る、か。そーいやこの歌詞、今のオレにピッタリじゃん。
いい気分で前方に意識をやると、花屋が目に入った。
なにか買っていこうかと考えて頭を振った。 いくらなんでも恥ずかし過ぎる。
浮かれすぎている自分に呆れながら、色とりどりの花が並ぶ店の前を通り過ぎたが、結局五十メートルほど進んだところでUターンした。 彼女の喜ぶ顔を想像してしまったからだった。
噎せ返るような匂いと色に囲まれているうちに、また頭が痛くなってきた。
店に入ってしばらくは真剣に花を見てまわっていたが、見れば見るほどどれも同じように見える。
唯一名前がわかる、真紅の花の前で足を止めた。薔薇だ。
ビロードのような花びらを指先で触ると、すべすべとした感触がした。
華やかで、豪華で、柔らかい。ロザリアみたいだと思った。
「あー、これ…適当に花束にしてくんねーかな」
それまではなるべく視線を合わさないようにしていた若い女の店員に話しかけた。
「花束にするならかなりの本数になりますけど…いいですか?」
言われて心配になったが、せっかくだから立派な花束をプレゼントしたい。
財布の中身を思い出しながら、オレは言い切った。なんと言っても今日は全財産を持ってきているのだ。
「ちょうどいいくれーの数にしてくれていーからよ。キレーなの、頼むぜ」
「かしこまりました」
店員はにっこり頷いて、鋏を手にとった。
手馴れた動作で動く店員の手によって、みるみるうちに花束へと変わっていく薔薇を見るのは、意外に面白かった。
しばらく見蕩れていたが、綺麗だとばかり思っていた薔薇の赤が、なぜか急に毒々しく見えた。
そのイメージと、ロザリアの顔が重なっていく。
「いかがですか?」
その声に視線を戻すと、薔薇は元通り綺麗だった。なんとなく安心したが、直後に想像していたよりも桁が一つ多い値段を聞いて、オレは飛び上がりそうになった。
食えねーどころか後にも残んねーモンなのに、と理不尽な怒りにかられたが、見栄を張った自分のせいだと思い直して、金を払って店を出た。
花束をどうやって持っていこうかと試行錯誤していると、ケータイが鳴った。家からだ。嫌な予感がする。
鳴り終わるのを待ってから液晶を見ると、着信履歴がいくつもあった。滅多に入らない留守電まで入っているようだ。
確認すると、母親のけたたましい声が再生された。
『先生から電話があったんだけど、あんた今どこにいるの!?すぐに電話しなさい!』
今はそれどころじゃねーんだよ、と電源を切った。
バイクに乗っている間は花束の形が崩れないかと気が気ではなかったから、駅に着いた時はとにかくほっとした。少し休憩したかったが、時間が惜しい。急いで切符を買う。
改札を抜けて階段を上りきると、ちょうど反対側の電車が着いたところだった。帰宅ラッシュで満員の電車から、大勢の人が吐き出されてくる。
ドアから離れるために移動した場所の前には鏡があった。何気なく自分の顔を見て、慌ててトイレに駆け込んだ。
「あー…こりゃダメだろ」
全身が映る鏡を前に、オレは絶望的な気分で呟いた。
とにかく汚い。顔も髪も服も泥だらけだ。手に持っている花束は、当然浮きまくっている。服の匂いを嗅いでみると汗臭かった。
ロザリアがいる場所にはシャワーがあったが、行ってすぐにシャワーを使わせてもらうわけにはいかない。そんなことをしたらどう思われるか知れたものではない。
焦る手で頭を洗う。洗い終わって顔を上げてから、気がついた。
「タオルなんて持ってねーよ…」
頭から水滴が顔や服の中に次々と滴り落ちてくる。中途半端に冷たい感触が、我慢できないほどに気持ち悪い。
悩んだ末、手を乾かす機械に頭を突っ込んで乾かすことにした。誰も入って来ないようにと祈りながら、ゴオゴオとうるさい人工的な風の音を忌々しい思いで聞く。
「いてっ」
何度か頭をぶつけた。痛いのと情けないのとで、知らず知らず大きなため息が出た。
なんとか乾かし終わって電車に乗り込んだ。本当は着替えもしたかったが、バッグの中には学ランしか入っていないから諦めるしかなかった。
目的の駅には五分程度で着いた。あの時と同じように街の入り口に立って、腕時計を見た。六時四十二分。
すれ違うヤツらがオレを見てにやにや笑っているのは、花束のせいだと思いたい。
道に迷うほど方向感覚は悪くない。
記憶を辿ってまっすぐにあの店に向かう。胸が丸出しの女のポスターに我知らず見入ってしまうようなことはしない。
…この前はちょっとだけ、じゃねーな、かなり見ちまってたけど。別に初めてそーいう写真を見たってわけじゃねーけど、こーいうとこで見ると余計やらしく見えるんだよな。
今日は、声をかけてくる女達も気にならなかった。気にならなかったのだが、気がついた。思わず立ち止まって強く舌打ちをする。この舌打ちは、彼女達に対してではない。自分の迂闊さにやっと、またしても!…ようやく気がついたのだ。
勝手にこれくらいだろうと思い込んでいた自分に腹が立つ。まず、確かめておくべきだったのだ。大事なことじゃねーか!
「まだ七時にもなってねーけど、もう営業してんのか!?」
色の浅黒い、大きな目をした少女は、オレの剣幕に驚いて少し身を引いた。悪いと思ったが、謝る時間はもうないかもしれない。
「変なこと聞くんだね。えっとね、アタシらの店は七時からだよ。だから今からお客さんの呼び込みやってんの」
彼女の答えに少し安心して、オレはさらに尋ねた。
「そっか。この道通り抜けたとこに昔っぽい建物がずらっと並んでるだろ?あのへんもやっぱ今くれーからだよな?」
そうであってほしいと祈りながら聞くと、少女はきっぱりと首を横に振った。
「ううん。あっちの方はもっと早いよ。昼くらいからやってるみたい」
聞いた瞬間、オレは今日一番の後悔をした。同時に、腕に添えられていた少女の手を無意識に振り払っていた。走りだす瞬間に少女の顔が目に入った。驚きと怒りが混じった表情。次に会えたらその時に謝ればいいと、オレは自分に言い訳をした。
しかし、それもこの少女の顔を覚えていればの話だった。
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