とにかく初日は最悪だった。バイトを上がる頃には足腰がガクガクで、座り込んだ後はしばらく立ち上がれなかった。それでもなんとか家に帰って風呂に入ると、知らないうちにできていたすり傷にシャワーが沁みまくった。
 体力と一緒に食欲もなくなっていたが、無理やり胃に詰め込んで、ベッドに倒れこんだ。

 二日目は、マジで限界だと思った。…ってことは、初日が”最悪”じゃなかったってことか?いや、どっちも最悪だったってことだ。
 とにかく、ひどい筋肉痛で起きるだけでも一苦労だった。痛くない場所を探す方が難しいほど、まんべんなく身体全体が痛んでいた。顔だけは筋肉痛から免れていたが、日に焼け過ぎたせいでヒリヒリしていた。
 手すりにしがみつくようにして階段を降りながら、半端じゃない筋肉痛の時は階段を上るよりも降りる方が大変だということを知った。
 家にいるだけでこのザマだ。後は適当に想像してくれ。バイトは地獄だった。

 そんで、三日目の今日だ。
 ようやくコツらしきものを掴み始めて、一緒に働いてる奴らとも少しずつ話をするようになった。筋肉痛も治っている(現場監督には若さの証拠だと言われた)。たった三日働いただけのくせに、自分がたくましくなったような気がした。
 でも、そんな気持ちと裏腹に、オレは自分の無力さを痛感していた。
 炎天下の下で動き回っていると汗が止まらないが、それとは別に、胸の中に冷や汗が流れているような厭な感じがする。とにかく焦ってしかたない。

 マリーの言葉を信じるなら、ロザリアはまだ客を取ってはいないはずだ。
 …だけど明日からは違う。

 結局、何も思いつかないまま今日まで来てしまった。
 とにかく、明日は彼女に会いに行く。それだけは決まってる。
 でも、それからオレはどうすればいい?
 会いに行って…オレは何をすればいいんだ?

 今日が終わらなければいい。
 昨日と一昨日はとにかく帰ることだけを考えていたのに、オレは何度もそう思った。


 いっそ危ない橋でも渡ってやろうかとも考えたが、下手して捕まっちまったらそれこそ終わりだ。ゲームソフトをコピーして売った時点で犯罪だった。そんなことは前からわかっていたし、あの程度のことで警察沙汰になるとも思えない。
 それなのに、今のオレは万が一の事態をどうしても考えてしまう。
 実際のところ、刑法なんて全く知らないからどうなるのかよくわからないが、とにかくロザリアに会いに行くどころではなくなってしまうだろう。
 
 そして、その万が一の事態が、それこそ万が一ロザリアに知れたとしたら。
 きっと悲しんで、自分を責めるに違いない。
 たった一度きりしか会っちゃいない。しかも、話ができたのは一時間だ。
 思い込みだと笑われるんだろーけど、勝手でもなんでも、オレは彼女をそういう女だと思ってる。
 …だってよ、あんなにキレーなんだぜ?

   
 ヘルメットの中では、汗にまみれて髪がぐしょ濡れになっている。今日は特に日差しがキツイ。
 ロザリアは、今何をしているのだろう。彼女に会いたい。
 来てほしくないはずの明日にならないと会えない。当たり前の事実に思い至って顔を顰めた。上手く働かない頭でまた考えはじめる。もちろん、手足は休めない。

 せめて、初めての客になる?いつか彼女があの場所から出られるまで、できるだけ通い続ける?
 体と心は別。そう簡単には割り切れないオレが、彼女の支えになってやれるのか?
 だけど、”二度と会わない”という選択肢は、自分の中にはない。
 つまりは、そうするしかないんだ。割り切るしか。

「ゼフェル!そこの電ノコ片付けといてくれ!」
 顔を上げると、空は見事な夕焼けに変わっていた。
 言われた通り電動ノコギリを軽トラの荷台に積んで、改めて空を眺めた。
 今にも沈みきってしまいそうな太陽を引き止めたくなる。
 まだ沈むなよ。時間が欲しいんだ。それよりも金だ。なにもかも足りない。
 …覚悟なんかできちゃいない。


「おい、今日は終わりだぜ?」
 一瞬、心の中を覗かれでもしたのかと思った。死ぬほど驚いた。
 動揺を隠して顔を下ろすと、見覚えのある男が立っていた。周りを見回すと、皆帰り支度を始めている。どうやらバイトの終わりを知らせてくれたらしかった。
 もう一度男の顔を見て、やっと気づいた。
「お前、ゼフェルっていうんだよな。今日時間あるか?」
 初日に絡んできた若い男は、気安げに言った。
 質問の意図を測りかねていると、男は機嫌を取るように笑って続けた。
「俺はハック。この前は悪かったな。お前結構がんばってるみたいだし、飲みに連れてってやるよ。どうせ暇なんだろ?」


    




「すっげーワガママなんだよアイツ。お前もそう思うだろ?あ、生中おかわり!ゼフェルはいらねー?」
 茶色く変色したメニューを手渡されて聞かれたが、いらないと言った。

 当然、一度は断った。
 結局誘いに応じることになった理由は、しつこく誘われるうちに断りの台詞を捻り出すのが面倒になったってこともあったが、なにより気力が尽きていた。
 どうせ、どれだけ頭を痛めたところで明日取るべき行動なんて思いつけない、と半分自棄になってしまったのだ。後は勢いだった。

 今は、その勢いも消えている。連れてこられたのは、店内の広さと料金の安さが売りらしい、小汚い居酒屋だった。
 油でてかったテーブルの上に並んだ料理を見つめて、何度目かのためいきをついた。先ほどから延々と、愚痴とものろけともつかない話を聞かされ続けているのだ。
 オレは、ハックについてきたことを後悔し始めていた。
 
 ハックはとにかくよく喋る。
 『結構がんばってる』という台詞は、現場監督の親父が言っていたのだそうだ。それを聞くまでオレを見もしてなかったハックは、周りにも受け入れられ始めた(らしい)オレに気を使うようになった。
 もちろんそう言われたわけではないが、多分そういうところだろう。
 調子が良くて小心者だが、底抜けに明るい、どこか憎めない男だ。

「で、お前はなんでバイト始めたんだ?」
「あー…そっちは?」
「俺か?俺は彼女のためだよ。もうすぐ誕生日だからな」
「…まあ、オレもそんなとこだ」
 酔いも手伝って、口を滑らせてしまった。
「なんだよ、ゼフェルも女いたのかよ!なんで黙ってたんだよー」
 今日まで会話らしい会話もしていなかった上に、ハックが絶え間なく喋り続けていたから言う暇がなかった、というのがその答えだ。
「で、どんな子なんだ?つきあってどれくらいだ?」
 矢継ぎ早に質問されて、基本的なことをようやく思い出した。
「彼女じゃねーんだ」
「あ、そーなの?片思いってやつか。青春っぽいな。相談に乗ってやろうじゃない」
「いや、別に乗らなくていーって」
 つまんねーこと言っちまった、と思いきり後悔したが、勢いづいたハックは止まらない。
「人生の先輩がアドバイスしてやるって!で、今どんな感じなんだ?お前が好きだってこと、向こうは知ってんの?」
「……多分」
 ん?オレ、ロザリアにそういうこと言ってたっけ?
「なんとなくそれらしいことは伝えてるってわけか。で、彼女はお前のことどう思ってんだ?」
 うわ、オレ何も伝えてねーじゃん!…で、どう思われてるんだ?
「マジで、どうなんだ…?」
「なんだよ、わからないのかよ。手出せねーの?お前ぐらいの年だったらヤりたい盛りだろ?ヤれねーのは辛いよなあ」
「いや、ヤろうと思えば…」
 ヤれるんだよな。
「え!?ヤれそーなんだったらヤりゃーいーじゃねーか!つーか、その子ヤリマン?」
 歯切れの良いハックの口調につられてなんとなく返事をしていたが、聞き捨てならない台詞に思わずカッとなった。
「ロザリアはそんなんじゃねー!」 
 騒がしかった店内が静まり返ったが、すぐに喧騒は戻ってきてくれた。唖然としているハックに一言詫びると、逆に申し訳なさそうな顔で謝られた。
 気を取り直すようにビールを飲んだハックは、ロザリアっていうんだな、と呟いて続けた。
「なんか、綺麗な名前だな」
 静かにそう言われて、オレはすごく嬉しくなってしまった。もっと言うなら、ハックを少し好きにもなった。
 単純過ぎる理由から生まれたハックへの好意は、オレを少し恥じさせた。そんな心の動きを知られたくなかったから、オレは否定も肯定もせずに曖昧に濁しておいた。
「その子がヤリ…じゃなくて、あー、軽いってわけじゃないのにヤレそうなんだよな?普通に考えて、うまいこといきそーじゃん!」
 答えが出た、という感じで顔をパッと明るくさせたハックは、オレを見て顔を曇らせた。ハックの言葉で気づかされたオレは、笑顔なんて作れなかった。

 ロザリアにとってオレは客だ。だから金さえ出せばいつだってヤれる。でも、それは彼女の意思じゃない。オレに心を許してくれたように見えたが、それは多分『他の男よりはマシ』程度だ。
 彼女の前にある選択肢は、限りなく少ない。どう考えてもフェアじゃない。
 
『それに、もしかすると』
 それを思いついた時、背筋が寒くなった。
『……あの夜に見た彼女は、全て嘘でできていたのかもしれない』

 ただの悪戯心か、新手のサービスか。
 とにかく、全部演技だという可能性もないとは言えない。
 マリーがオレに声をかけた、あの時から。

 忘れていたが、オレは客だった。そう、ただの客なんだ。騙されていたとしても文句は言えない。むしろ、騙される方が悪い。

 いや、そんなはずはない。あれが演技のはずなんてない。
 そんなはずはない?オレに何がわかるんだ?平凡な人生を生きてきただけのオレを騙すくらい、ああいう場所にいる女なら簡単だろ?

 …ああいう場所にいる女、か。オレって最低だな。

「ゼフェル、大丈夫か?具合悪いなら帰るか?」
 遠慮がちに声をかけられて、オレは頭を跳ね上げた。
 こんな気分のまま家に帰るのはご免だ。全部明日に持ち越しだ。明日になってから考えりゃいい。
「今日は飲むぜ!付き合ってくれんだろ?」
 大声で言うと、ハックも威勢の良い返事を返してきた。切り替えの早さに内心呆れたが、少し救われた。










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