残り時間が五分を切ったところで、オレは重い腰を上げた。
 本当はギリギリまで一緒にいたかったが、いつ終わりの声がかかるかわからない状態でじりじりしていたくなかったのだ。急かされて、慌てて出て行くなんてカッコ悪いことはしたくなかった。
 おかげで、別れの挨拶はみっともないものにならなくて済んだ、はずだ。

 後ろ髪を引かれる思いで階段を降りきったオレの目に、中年女の姿が映った。うろうろと落ち着かない様子で玄関を歩いていた中年女…マリーは、顔をみるなり近づいてきた。
「どう…だったい?」
 真剣な顔。本気で心配していたに違いない。
「確かにとびきりの女だった。また来るぜ」
 満足したように笑ってやると、マリーは大きく頷いた。
「そうかいそうかい。やっぱりあたしの目に狂いはなかった。ありがとよ、兄ちゃん」
「でもよ、なんかすげーショック受けてるみてーだったぜ。オレが言うことじゃねーだろーけどよ、しばらく休ませてやった方がいーんじゃねー?」
「ああ、そうだろうねえ。三日くらいは客取らせないでやった方がいいかもねえ」
 神妙な表情を作ったマリーは、読み通り人情家のようだ。
「いいとこの子なんだろ?もう少し時間やらねーと心の整理ってやつがつかねーかも」
「こっちも商売だからねえ…あれだけの器量だし今後がんばってもらうことを考えても、休ませてやれるのは四日が限界だねえ」
 彼女の言葉を頭に叩き込んだ。猶予をどうやら四日は作ってくれるらしい。
「しっかし、やっぱあれだね、男になったら違うね。余裕があるよ今のあんたには」
「ありがとよ、じゃーな」
 
 見送ってくれたマリーの姿が見えなくなるまで歩いてから駆け出した。
 走る必要があるのだと思った。強い使命感に、体中が熱く燃えていた。
 走りながら、ただの高校生である自分に何ができるのかと考えた。とりあえず、まずは金がいる。
 闇雲に走って、着いた場所は自分の家だった。これが現実だよな、と呟いた。
 


 いろんな意味で興奮し過ぎているせいか、眠れなかった。
 日課である、とある行為に及ぼうとしたが、どうしてもロザリアの顔が浮かんでくる。
 彼女の映像は普段よりも強くオレを煽ったが、彼女に申し訳なくてできなかった…というより、必死で我慢したという方が近かった。
 結局、AVの力を借りて一通り済ませた。なにか物足りなかった。
 それでも、ありがたいことに気だるい眠りを運んでくれた。

 起きたのは昼過ぎだった。
 空腹を覚えてキッチンを覗いたが、母親はいなかった。休みのはずの父親もいないところを見ると、どうやら二人でどこかへでかけてしまったらしい。
 渋々インスタントラーメンで腹を満たしてから、コンピュータの電源を入れた。膨大なネットワークの海に飛び込んだ理由は、バイト探しのためだった。
「やっぱ力仕事しかねーかなー…」
 向いているとは思えないが、結局土建屋に電話を入れた。機械いじりが趣味のオレにとっては、時給の高さだけが魅力だった。
 
 面接の予約を入れるため、掲載されていた番号に電話をかけた。
 人事担当者を呼んでくれと言うなり、明日から来てくれと言われた。履歴書もいらないそうだ。
「とにかく一週間はみっちり仕事してもらうぜ。その後があるかどうかはお前次第だ」
 学校、と言いかけたのを遮るようにがなって、男は電話を乱暴に切った。
 なるようになれと呟いて服を着替える。
 適当に作ったゲームソフトの海賊版の詰め合わせを手に、外に飛び出した。
 一本二千円で思いつく限りの人間に売り歩いた。売上金の二万六千円を握り締め、棒になった足を引き摺りながら帰宅して自分の部屋に籠もった。
 新しいコンピュータを買うつもりで貯めていた五万円と合わせて、何度も数える。
「あー!何回数えても七万六千円しかねーー!足りねーよ!」
 大声で叫んで、思わず札を握り潰した。くしゃりとした感触に慌てて、広げて皺を丁寧に伸ばした。大事な軍資金なのだ。
 とりあえずしまっておこうと引き出しを開けると、手が切れそうに新しい一万円札が目に付いた。
 それは、帰りがけにロザリアから無理やり押し付けられた金だった。何もできなかったから、と泣き出しそうな顔で渡された一万円を撫でた時、ドアが乱暴に開けられた。

「ちょっと、あんたまた工具箱からドライバー持ってったでしょ!使ったら直しなさいって何度言えばわかるの!」
 ノックもせず、突然入ってきた母親に「勝手に入ってくんなよ!」と怒鳴ると、気持ち悪そうに言われた。
「…さっき、変に幸せそうな顔してたけど、どうしたの?」
「息子が幸せそーな顔してんの見て、そんな表情作んなよ。ったく、なんて親だよ」
 言い終わってから、自分が幸せそうな顔をしていたらしいことに気づいた。
「で、どんな幸せなことがあったの?」
 死に物狂いで誤魔化した。



 翌日の早朝。
 夫の弁当を作っていたゼフェルの母親は、後ろから声をかけられた。
「飯くれよ」
 振り向いた彼女は息子と時計を交互に見て、ようやく返事をした。
「…あんたがこんなに早く起きてくるなんて。なにかあるの?」
「今日から一限の前に予習とかってのをするんだってよ」
 妙に素直に返事をした息子に、母親は鋭い視線を向けた。
「嘘ついてもすぐわかるわよ。だいたい、あんたがそんなのに参加するはずないじゃないの」
 焦りの表情を浮かべた息子に一歩近づいて、低い声で聞いた。
「本当のことを言いなさい」
 睨んでやると、彼は観念したように口を開いた。
「オレの担任、国語教えてるだろ?で、オレこないだの抜き打ちテストん時に寝ちまったから答案白紙でよー。月曜から八時に来いって言い出しやがったんだよ。行かねーと三年にしてくれねーとか言いやがるし」
 母親は頭を抱えて、ため息をついた。
「だから嘘じゃねーだろ?オレにだけ特別指導ってやつをしてくれるんだってよ。あーウゼー」
 バン、と大きな音を立てて、彼女は箸をテーブルに置いた。
「早く食べてさっさと行きなさい!留年なんて許さないからね!」
 肩を竦めて席に着いた息子は、しばらく動かなかった。
 箸と湯のみ、他には白いご飯を山ほど盛った茶碗だけが並んだ食卓に、呆然としているに違いない。
 既にできあがっている味噌汁の匂いがキッチンに充満しているはずだったが、何も言わずに食べ始めた彼の姿にやや良心が痛んだらしく、母親は思案顔を作った。だが、結局梅干すら出してやらなかった。



 駅前のトイレで動きやすい服に着替えて、止めておいたバイクで現場に向かった。
 駅二つ分ほどの距離を走って着いた指定の場所は、老朽化したアパートだった。
 仕事は想像していたよりずっとキツかった。剥ぎ取られた板や道具を運ぶだけの、最も簡単で楽な作業を任せられたのだが、指示通りに動くことすら満足にできなかった。
 舌打ちや罵声を浴びせられるたびにキレそうになったが、その度にロザリアを思い出してこらえた。

「何やってんだ新入り!ぼやぼやすんな!」
 いくつも年が離れていないような、若い男が怒鳴る。睨みつけることもできず、頭を下げた。
「ったく、使えねーヤツばっか入れやがって」
 聞こえよがしにそう言われて、思わず拳を握り締めた。
 言われたら言い返す、殴られたら殴り返す。これまでずっとそうしてきた。
 それどころか、何も言われなくても自分から喧嘩をふっかけるのが当たり前だった。
「なんだよ、なんか文句あんのか?」
 よく日に焼けた顔を嫌な感じに歪ませて、男は笑った。唾を吐きかけてやりたくなるような笑い顔。

 彼女の笑顔とは大違いだと、ふと思った。
 すぐに会いに来ると言ったオレに向けてくれた、嬉しそうな微笑み。
 連鎖的に、その笑顔を消して「本当に、無理はなさらないで」と呟いた寂しげな表情を思い出す。胸に冷たい風が吹きこんだ。

 ここで辞めちまったら、オレはいつも通りの生活に戻っちまうんじゃねーか?
 そのまま、ロザリアとのことも甘くて優しい思い出にしちまって、時々思い出すだけで満足するようになっちまうのかもしれない。
 
 彼女はきっと、結局会いに行かなかったオレの言葉を社交辞令として片付けちまうんだろう。
 嘘をつかれたなんて欠片も考えないで、オレに感謝するんだろう。
 …そんで、いろんな男に抱かれて、たった一回だけ会ったオレのことなんか忘れちまうんだ。

 絶対に、嫌だ。
 一昨日初めて会って、昨日は会わなかった。
 そのはずなのに、とんでもなく長い時間が経ってしまったような気がする。

「いえ、別に」
 そう答えると、男は何も言わずに自分の持ち場に戻って行った。
 オレの沈黙が長過ぎたせいなのか、どうでもよくなったようだった。

「…すぐに会いに行っから、忘れねーでくれよな」
 誰にも聞こえないように呟いて、オレも仕事に戻った。










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