最終話 安定とは無縁の毎日。 それでも、鮮やかな毎日。 赤い髪。 「気持ちいいな」 夢の中にいるとばかり思っていた恋人は、目を閉じたまま口角を僅かに上げた。 「君に髪を触ってもらうと、気持ちがいい。なぜだろうな」 覆いかぶさるような格好をしているのが恥ずかしくなって、ロザリアは手を浮かせた。 「君は眠らないのか?」 時計の針は、二時を指している。 「本を読んでいたら、眠れなくなってしまったみたい」 「…本か。…君は本が好きだな」 返事をしようとしたロザリアの耳に、すう、と微かな音が入る。 音の出所は彼の唇で、再び眠り込んでしまったらしい。 「おやすみなさい」 小さく声をかけると、眉を震わせた。 「…もうすぐ春だというのに、今日は寒いな」 脈絡のない言葉を呟いて、重たげな瞼を開く。 眠れないと言った自分に、どうやら付き合ってくれるつもりのようだ。 「わたくしのことは気にせず、眠って頂戴」 「…ああ。いや…そうしたいが、そうできない」 「寝惚けているのね。とにかく、おやすみなさい」 部屋の電気を消し、ベッドから離れた。 「待ってくれ」 「なにかしら?」 「もう一度、髪を撫でて欲しい」 まるで子どもね、と微笑んで傍に寄る。 「君の姿がある時は、眠れない」 暗闇の中で、ロザリアは表情を改めた。 「なぜ?」 短い髪を手で梳いてやると、安心したように息を吐いた。 「わからないが、多分不安なんだろうな」 眠気は完全に去ってしまったらしく、はっきりとした口調で言った。 「互いに眠れないのなら、少し話をしないか?」 読書用のライトを付け、それを返事とした。 手の感触を覚えるまで、俺は夢を見ていた。 いや、眠ってはいなかったのかも知れない。 あの日を、丁寧になぞっていた。 抱きしめ返してくれた細い腕。 あいしている、と動かされた唇。 幾度となく交わしていたのに、なにかを取り戻そうとするようなくちづけ。 まるで、初めて交わすような、くちづけ。 『俺はもう、帰れない』 『では、どうなさるの?』 冷静な声が、俺を急かせた。 『一緒に逃げて欲しい』 本気だった。 二人でなら、どこまででも逃げられると思ったんだ。 『わたくしは、カタルヘナの当主です。逃げることなどできませんわ』 体を離された瞬間、目の前が暗くなった。 何度も諦められるほど強くはないと、泣き言が頭に浮かんだ。 『逃げようと言うあなたの手はとれません。でも、あなたがわたくしの手をとると言うのなら、話は別です』 試すような瞳を見て、悟った。 『わたくしと、共に生きて』 俺が、君と共にあるべきなのだと。 「以前に聖地から使者の方がいらしたことはご存知?」 「いや…知らなかった」 「知っていたら大変。厳しく口止めしているのだから」 世間話のように、軽く言う。 「あなたのことを聞かれたけれど、知らないと言ったら納得してお帰りになったわ」 ですから、大丈夫。 そう付け足したロザリアは、この話を終わらせたがっているように見える。 聖地に上がってすぐの頃に気まぐれで読んだ文献には、任期の途中で逃亡を図った守護聖は九名だと記載されていた。 守護聖の数と同じだと、おかしな感心をしたから覚えている。 逃げおおせた者は確かいなかったはずだが、こちらには自信がない。 記憶違いであることを期待してはいるのだが。 ともかく、これ以上は聞かない方がいいのだろうし、自分が聞いても意味はないだろう。 「了解だ、ロザリア」 上半身だけを起こして肩を抱くと、くすぐったそうに身を捩って笑った。 「俺と再会するまで、どんな時間を過ごしていたのか聞かせてくれないか?」 今の自分達に余裕はない。 だが、ロザリアと自分の関係に限れば、緊張感は消えている。 恐れず、必要以上に言葉を選ばなくても会話ができる権利を、今は有している。 「…充実していたわ」 「どんな風に?」 両手を伸ばして、後ろから抱きしめる。 「学んで、実践して、結果が出る。その繰り返し…オスカー、少し苦しいのだけれど」 知らず知らずのうちに、腕に力が入っていたらしい。 「悲しい女だったと思わないで。本当に楽しかったのよ。…推理小説はお好き?」 推理小説? 「…推理小説と君の人生がどう繋がるのか見等もつかない。既にミステリーだ」 「あまり読まない?」 疑問は解消されなかったが、返事をしないことには話が進んでくれないようだ。 「時々、といった程度だが…読むな。そうだな、好きだと言えるかも知れないな」 「でしたら、説明がしやすくなって助かるわ。読んでいる時って、最後がとても気になるでしょう?」 「もちろんだ。途中で終わっちまったら、消化不良でたまらないだろうな」 満足気に頷いて、続ける。 「自分の推理は当たっているのか、それとも全く違った結末なのか。常にそれが頭にある。でも、それはそれ。読んでいる最中は、物語に夢中になっている」 「俺は推理はしない。ストーリーをただ追っていくだけだな。それでも十分楽しめる」 ロザリアは、少し鼻白んだ顔をした。 思い通りに話が進まないことがもどかしいのか、わたくしはそうなの、と駄々をこねるように言った。 「で、名探偵のレディ。そろそろ謎解きをお願いしたいな」 軌道修正をしてやると、決まり悪そうに小さく頷いた。 愛らしい仕草だと思ったが、ロザリアはすぐに気持ちを切り替えたようで、静かな声を出した。 「不安と希望の中で、知識と経験を積み重ねることに夢中だったわ。…なにより結末を楽しみにしていたの」 「結末とは、どういう意味だ?」 「それはそのまま、わたくしの命が尽きる時のこと」 腕にまた力が入った。 「ん…痛いですわよ、もう」 何度も言わせないで、と言外に匂わせる。 「死を迎える時のわたくしは、何をどれだけ手にしているのか、もしくは何も持ってはいないのか。自分がどこまでやれるのか…エンディングに向かって、わたくしは努力していたの。一日だって無駄な日はなかった。本当に、充実していたのよ」 どうしてわかってくれないのかしら、と言いたげに早口で言う。 本心なのだろう。 「だが…まるで、君は…そう、君の言う通り、本を読んでいるようじゃないか」 客観的に過ぎる。 だが、それを悲しいと思うことを彼女は許してくれない。 「そうかも知れないけれど、わたくしはそれで良かったの…。でも、あの日わたくしは本を閉じた」 両手で本を閉じる真似をして、ロザリアは笑った。 「これまで築いてきたもの全てを、無に帰してしまう可能性を持つカードであるあなたを手に入れたから」 無に帰すつもりは欠片もないけれど、と言って、俺の手を押しやった。 立ち上がり、俺に向き直る。 「終わりを楽しみに、静かに人生を進めて行くことは、できなくなった」 失った生き方を惜しむように目を伏せたが、すぐに目に光を宿した。 「だけど、わたくしは生きているわ。これまでだって死んでいたわけではないけれど、違う。時々息苦しくなるほどに、生を実感しているわ」 力強く、確信に満ちた口調で言い放つ。 「今、満ち足りているの。そして、飢えてもいる。どちらもあなたという存在によって」 ロザリアの指が、俺の頬を撫でた。 「飽きるまで、傍にいて」 祈るような表情。 それに不似合いな言葉。 「共に生きろとまで言ってくれたのに、冷たいんだな」 唇へと移動を終えた手をとって見上げると、ロザリアも俺を見た。 「人は心変わりをするものだと、教えてくれたのはあなたよ。必要以上の期待は持つべきではないと、教えてくれたのも」 長い思案の後、俺は笑った。 「変わらぬ想いがあることを、教えてくれたのは君だ」 口の減らない人ね、と苦笑するロザリアを見つめながら、胸のうちで同じ台詞を繰り返す。 そして、思う。 君が俺から何を学ぼうとも、俺が信じているのは君なんだ、と。
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