目覚めると、明け方だった。
もう少し睡眠を取っておこうと目を閉じても、眠れそうにない。
渋々身を起こして、呟く。
「今日は何もすることがないのに…」
長い一日が始まった。
「暇ね…」
やるべきことは全て終えてしまった。
資料も見飽きたし、明日からの予定も立ててしまったロザリアは、早めの朝食を取ってぼんやりと窓の外を見た。
気分転換に散歩にでも行きたいが、守護聖達に会うのが嫌だから外には出ないことに決めたのだ。
二月十四日のことが話題になったのは、つい最近。まだ記憶に新しいだろう。
考え過ぎだと言われてしまえばそれまでだが、会ってしまえば彼らにチョコレートを渡さなければいけないような気がするから。
「無い袖は振れない、ですのに」
「ロザリア様、何かおっしゃいましたか?」
「…なんでもないの」
本当に何もない一日。 何もできない一日。
退屈で仕方がない。
「ルヴァ様にでも本をお借りしておけばよかった…」
呟いたその時、ドアのベルが鳴った。
「…守護聖様なら出かけていると言って頂戴。今日一日はどなたともお会いしたくないから」
不思議そうな顔をしているばあやに、お願いねと付け足して奥に逃げる。
「えー!?出かけちまったァ!?」
不満気なゼフェルの声が聞こえてきた。
お誘いは本当に嬉しいのですけれど、今日だけはダメですのよ。
「こんな朝早くにせっかく来たのによー。どこ行ったか知ってるか?」
ゼフェル様ったら、ちょっとしつこいですわね。
ばあやが申し訳なさそうに存じません、と言う。
「マジかよつまんねーの。じゃあよ、帰ったらオレに教えてくんねー?」
そ、それは困りますわ!今日一日はお会いしないつもりですのに!
「アイツのこったから、そんな遅くにはなんねーだろ。ま、オレはどーせ夜中まで起きてっからよ!何時でもいーから頼んだぜ!」
いったい用はなんですのっ!?明日でも構わないでしょうに!
「オレの最新式メカが完成したんだから、早く見せてーんだよな!」
ゼフェル様、心底どうでもよろしいですわ…。
言葉に詰まるばあやを尻目に、ゼフェルは去っていった。
「…お嬢様、どうなさるんですか?」
「なんだか頭が痛いわ。とりあえず少し横になっているから、また何かあれば知らせてくれる?」
”頭が痛い”というのは言うまでもなく比喩だったが、ベッドに入ってぼんやりしていると本当に頭が痛くなってきた。
規則正しくズキズキと脈打つ痛みは、ロザリアの思考能力を低下させる。
「もう、本当にどうでもよくなってきたわ。ゼフェル様のバカ…」
睡魔が手を差し伸べてきたので、ロザリアは喜んでその手を取った。
コンコンコン
…耳障りな音がロザリアの耳に入り、彼女は跳ね起きた。
頭がズキンと痛んだので、反射的に手をやる。
「いやだわ…今、何時なのかしら」
カーテンを閉め忘れていた窓から僅かな光が差し込んで、ベッドの縁を照らしている。
一度視線を外したロザリアは、何かに気がついてもう一度窓を見た。
見間違いではない。
人影が、窓の外にある。
窓から1メートルと離れていない木の枝の上に立って、こちらを見ている。
黒い影は、手を伸ばして窓を叩く。
コンコンコン
凝視しているうちに徐々に目は暗闇に慣れ、その人物の輪郭が浮かび上がってきた。
「ゼフェル様!?」
ロザリアの大声に慌てたように、窓の外にいるゼフェルは口の前に人差し指をやった。
手早くガウンを着て、窓を開ける。
「よお」
「な、何事ですの?」
「いや、おめーに用があったんだけどよ、ばあやさんから聞いてねーか?」
「…あ」
…しまった。言い訳を用意していない。
「あの、ええと…」
口ごもっていると、心配そうな顔をしてゼフェルは優しく言った。
「あーいいんだ。なんかおめー、調子わりーんだよな?さっきだって頭抑えてたし、風邪でもひいたのか?」
なんて優しい口調でお話されるのかしら…ゼフェル様。
状況を忘れてときめいてしまうほど、彼の言葉には気使いが溢れている。
「ええと、その…」
「おめーが今日出かけてた時に一回来たんだよ。帰ったら教えてくれって言っといたんだけど、体調崩してたんだな。おめー第一のばあやさんが忘れちまうのもしゃーねーし、もし思い出して気にしてるよーなら安心させてやってくれよな。オレは別に気ィ悪くしてねーから」
違うとも言えず再度謝罪すると、ゼフェルはいーから、と笑った。
屈託のない笑顔。
「とにかくよ、おめーもっかい寝ろ。そんで元気になったらオレんとこ来いよ。前におめーに話してたやつが完成したからよ!…なんでか自分でもわかんねーけど、おめーに最初に見せてやりてーんだ」
照れたように言うゼフェルに、罪悪感が募る。
「あの…申し訳ございません」
「だからいいって。オレの方こそ病人起こしちまってるしよ…悪かったな」
じゃあな、と木を降りようとするゼフェルにもう一度声をかける。
「ゼフェル様!」
「なんだ?」
「その…もしよろしければ部屋にお入りくださいませんか?気分も良くなってまいりましたし」
ああ、わたくし何を言っているのかしら。
だけど、もう少しだけ…。
「バカ、何時だと思ってんだ?って寝てたんなら知らねーか。こんな時間に来てるオレが言う台詞じゃねーけどよ、もう九時なんだぜ」
ロザリアが自分のはしたない言動を後悔するより先に、ゼフェルは続けた。
「おめーがいいっつーんなら、オレはかまわねーけど」
「は、はい!」
勢いの良すぎる返事が夜に響く。
今日のおめー、なんか変だぜ?と苦笑してゼフェルは器用に窓から部屋に入った。
電気を点けたロザリアに向かって、ゼフェルは声をかける。
「おめー病人なんだからよ、オレをもてなそーとか考えんなよ?そんなことされたらこっちが気ィ使っちまうからよ」
「す、すみません…」
「なんかおめー、謝ってばっかだな。おかしな奴」
「だって…」
「だって、なんだよ?」
どうしましょう!何も浮かばないわ!
「ですから…」
「あー、アレだな?具合わりーから上手く口がまわんねーんだろ?やっぱ無理すんなって」
ああ、このままではお帰りになってしまうわ!
とにかく何か…何か言わなくては!
「だって…わたくし、好きなのですもの…」
「あ…ああ!?」
目を見開いて、ロザリアを見る。
「いえあの…実はわたくし、ゼフェル様が好きだったりしますの…」
心の中で、もう一人の自分がめちゃくちゃに叫んでいる。
何を言っているの!?
よりによってなんなのその台詞は!
脈絡がなさすぎるわよ!
「あ…ああ…」
ゼフェルは先ほどと同じ音を呟いたが、微妙にイントネーションは違っている。
「な…なな、なんだよ、なんだよ…」
立ち尽くしたまま、ゼフェルは口をパクパクとさせた。
「そんな…好きってあれか?友達とかそーゆーんじゃねーってやつっつーか…」
胸のドキドキが納まる気配はないけれど、顔を真っ赤にさせながらあたふたしているゼフェルを見ているうちに、混乱が薄れて落ち着いてきた。
「ロザリア…えっと…おっそうだ!なんだよそれ」
テーブルの上に置いてある包みを指差した。
「な、なんか菓子みてーだけど、風邪の時は果物食った方がいいらしーぜ!」
…ゼフェル様ったら、視線があっちこっちに飛んでいてお忙しいこと。
なんだかおかしくなってきたので、ロザリアは笑いながら教えてあげた。
「それは、チョコレートですわ」
「チョコレート?ああ、そーいやアンジェリークが今日配りに来てたな…」
ルヴァが言ったことをようやく思い出したのか、言葉をそこで切ってまた顔を赤くした。
「大丈夫ですわよ。わたくし、ゼフェル様にチョコレートをあげるようなバカな真似はいたしませんから」
「…じゃーよ、そこに一個だけ置いてんのは、誰にやるんだよ」
少し不愉快そうな顔で質問するゼフェルは、自分の発言など綺麗さっぱり忘れているのだろう。
「あら、気になりますの?」
「なっなんねーよ!…なんねーけどよ、おめーがさっきオレに…あ、あんなこと言ったからよ。だから…」
くしゃくしゃと頭をかきむしり、数分動きを止めた後、ゼフェルは顔を上げた。
「あーもうわかんねー!やっぱおめーは寝ろ!オレも寝る!」
「もうお帰りになってしまうのですか?お返事も聞いておりませんのに」
「バッ…いや、…そんな急に…じゃねー!…とにかくっ、もう寝ろ!じゃーまたな!」
そして、止める間もなくゼフェルは窓から出ていってしまった。
一人残されたロザリアは、手で頬を押さえて椅子に腰掛けた。
「言ってしまったわ…」
自分の行動が信じられない。
しばらくは恥ずかしさのあまり動けなかったが、先ほどの出来事を反芻しているうちにおかしくなってきた。
「予想は、全部外れだったわね」
愛の言葉こそ聞けなかったが、嫌われた様子もなかったし落胆もされていない。
「正解は、『ゼフェル様は逃げた』。ゼフェル様らしいですわ」
喉の奥から笑いが漏れる。
チョコレートの包みを開けて一つ口に入れると、甘い味が広がった。
二月十四日。
ルヴァから聞かせてもらった『バレンタインデー』とは大きくかけ離れているように思える一日だった。
「わたくしの『バレンタインデー』が、たまたま今日だったっていう感じがするのだけど」
浮かんだ考えを何気なく口に出した後、頷いた。
「悪くないわね」
”三月十四日が『ホワイトデー』と名づけられていましてね、バレンタインデーにチョコレートを貰った男性がお返しにプレゼントを贈るのです”
「チョコレートを差し上げていないのだから、そちらもわたくしには関係ないわね」
でも、そんなことはもうどうでもいいんですの。
ゼフェル様風に言うと『バッカバカしー』といったところかしら?
「じゃーまたな、ですって。うふふ、そうですわよね?今日で終わりではありませんものね」
自分がそうであったように、彼だけのホワイトデーがいつかやってくるはず。
きっと今頃あの人も、眠れずにわたくしのことを考えてくれているに違いないのだから。
end