7



 世界は形を変える。


「急に来ちまって、わりー。こんな時間に迷惑だとは思ったんだけどよ」
 それだけ言うと、ゼフェルは俯いた。
 初めて見るゼフェルの態度に、少なからず驚いている自分がいる。
 恋人同士になる前…いや、初めて顔を合わせたあの日から、遠慮をする彼の姿など見たことがなかった。
 この人は、いつだって自分の感情をぶつけてきた。

『オレはおめーが嫌いだ』
『お嬢様ぶったその態度が腹立つんだよ』
 女王試験が始まった当初は、ただ恐ろしかった。
 賛辞の言葉には慣れていたが、罵倒されたことなど一度たりともなかったのだ。
 自分を守る為に、彼を避け続けた。
『意外とおもしれー奴だな、おめー』
 笑顔を見せてくれるようになった頃には、もう恐ろしいとは思わなくなっていた。
『見直したぜ。…今まで悪かったな』
 これは確か、休日を共にするようになった頃に言ってくれた言葉だ。
 自分の認識を改めることも、そしてそれを謝ることも、自分にはできないかもしれないと、彼の素直さに憧れた。

『おめーが好きだ』
 ああ、そしてこの時、わたくしはどう返事をしたのかしら…思い出せない。

「おい」
  声をかけられて、我に返る。
  彼に椅子すら勧めていない。
「大変失礼致しました。どうぞお掛けになって下さいませ」
  慌てて言ったが、ゼフェルは首を横に振った。
「そんなに長い間はいねーから気にすんな」
 何気ない一言で、心臓が軋む。
 浅ましい自分。
「…そうですの。ではお茶もよろしいですか?」
「ああ、いらねえ」
 こんな言葉は聞きたくない。
 自分勝手なわたくし。彼に少しでも否定されたくないわたくし。
 遙か昔のように思える、彼がわたくしを『嫌いだった』時期にだって、痛んだのはプライドだけだった。
 彼が自分を見つめた時に強く願ったことは、跡形もなく消えている。
 かき乱さないでほしかった。

 どうして彼の手を離せたのか?
 …それは、熱病に浮かされたような欲望があればこそだった。
 どうして離したままでいられたのだろう?
 …それは、あれから彼と関わらないでいられたからだった。

「おめーはもう、新しい道を歩き始めてるんだよな」
 顔を上げられない。
 新しい道など歩き始めてはいない。
 ただ、考えることを止めていただけだ。迷いや苦しみから目を背けていただけだった。
 あの日…別れを告げた日、この人から離れることを選んだ。
 それは確かだ。
 だが、一方の道を塞いで、見て見ぬふりをしてきたのだ。
 選び取ることなど出来なかった。だから逃げたのだ。

「オレのことなんて、もう何とも思ってねーんだよな」
 辛そうな声音に、耳を疑った。
 まだわたくしを想ってくれているの?
 信じられない。彼はまた、もう一度手をさしのべてくれようとしているのだろうか。
 涙腺がゆるみそうになったが、なんとかこらえた。

 答えられない。
 選び取れない。
 できない、できない…わたくしには何もできない。

「…オレの場所は、もうあいつのもんなんだよな」
「違いますわ!」
 思わず声が出て、手で口を押さえる。
 それを受けて、ゼフェルが身じろぎする。
「違うって…?」
 そう、違う。あなたはわたくしの心の中に今でも住んでいる。
 オスカーとは違う場所に。
 わたくしの心には二人の男性が住んでいる。
 あなたが消えてしまったわけではないの。
 …そう言いたかった。
 しかし、もちろんそんなことは言うべきではない。
 言ってどうなる?

「…違いませんわ」
 ありったけの気力を振り絞って顔を上げる。
「失礼いたしましたわ。わたくし、少し動転してしまって…ゼフェル様の仰る通りですわ」
 ゼフェルの胸の辺りを一心に見つめながら、口を動かす。
「突然いらっしゃるから…深夜に女性の部屋をお訪ねになるなんて、少々非常識じゃございません?守護聖ともあろうお方ですのに。恋人ならいざ知らず、同僚とはいえ、呆れましたわ」

 優しいゼフェル様。
 …今でも愛しいゼフェル様。
 あなたの顔を見てしまうと、わたくしはどうなってしまうのかわからない。
 だからお願いです。

「本当に困りますわね。これですから野蛮な方は嫌なのですわ」
 『お嬢様ぶった』態度を取って見せながら、ロザリアは強く願った。
 逃がして下さい。そう、何度も胸の中で繰り返した。

 ゼフェルは何も言わない。
 怒りのためなのか、それとも落胆のためなのかはわからないし、わかりたくもない。
 口を開く気すら起きないのかもしれないが、それならそれでいい。
 このまま出ていってくれさえすれば、いい。
 彼の手に縋りつきたいと思うこと自体、罪なのだから。
「早くお帰りになってくださいませんこと?」
 自身の言葉に深く傷付く。
 もうこれ以上、罪を重ねたくはない。
 それなのに、ずっと見ないようにしてきたものを目の前に突きつけられている。
 耐えられそうにない。

 息を吐く音がした。
 思わず耳を塞ぎたくなったが、自分にそんな資格はない。
 もう二度と、夢を見る権利がないことを知らしめる言葉を聞かなければならない。
 最後の判決を待つ死刑囚のように、ロザリアは待った。

 そして、それは下された。










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