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たっぷりと湯を入れたバスタブに体を浸すと、心地よく残った疲労がゆるゆるとほどけていく。
オスカーとの遠乗りは楽しかった。
彼は優しく、逞しく、異性としての魅力を完全に備えている。
溶けてしまいそうなほどに甘い口づけを思い出すと、彼の腕に抱かれる日をどうしても想像してしまう。
ざわざわと鳥肌が立つ。
オスカーへの嫌悪からでも、身を委せることに対する恐怖でもない。
ただ、なぜだか自分がだらしない女のように思えて仕方がないのだ。
「あまり長く入ると、体に悪いわね」
嫌な思考を振り払おうと、一言呟いて浴室を後にした。
性行為について、過大評価も過小評価もしていないつもりだ。
彼を欲しいと思う。おそらく彼もそうだろう。そこに何の問題がある?
欲望だけを見ていようと決めたはずなのに。
それを食い尽くした後のことは、今考えるべきことではないのに。
髪を乾かす。
肌の手入れをする。
いつもと同じ手順を正確になぞる。
部屋に備え付けてある小型の冷蔵庫から水を取ろうとしたが、思わず手を引く。
就寝前に紅茶を飲んでいた自分を見て、水を飲んだ方がいいと薦めてくれた人物の面影が頭に浮かびそうになったからだったが、もう一度腕を伸ばして水を取り、喉を潤した。
突然、音がした。
声が出ないほど驚き、混乱に襲われる。
何が起こったのか分からない。
耳が痛くなるような静寂。
自分の呼吸する音が耳障りで、反射的に息を殺す。
また音がした。
それをノックだと理解したロザリアは、補佐官の顔を作った。
「夜遅くに、どなたですの?」
訪問者は沈黙している。
「お名前を頂けないと、困りますわね」
険のある声音で言ってやると、今度はすこし苛立たしげにノックされた。
その途端、胸が絞られるように痛んだ。口が自然にその名を呼ぶ。
「ゼフェル様…?」
そう、喧嘩した夜や何かの記念の日の夜には必ず聞いた音。
思わず大きく頭を振って自分に言い聞かせる。
まさか、そんなことがあるわけがない。
その思いを裏付けるように、扉の向こうからは何の返事もない。
口さがのない女官であれば大変なことになる、と焦ったが、馬鹿な考えだとすぐ思い直す。
女官が深夜に、しかも声もかけずにノックをするなど、それこそあり得ないことだからだ。
自分の部屋を夜遅く訪ねる可能性が最も高い人物が頭に浮かび、ロザリアは自分の軽率さを呪いたくなった。
彼だとしたら、今の言葉をどういう気持ちで聞いたのだろう。
強い後悔の念が押し寄せたが、彼なら笑って許してくれるかも知れないと思うと少し気が楽になった。
ちょっと、甘えすぎかしら?
そう考えて、小さく笑った。
気を取り直して、扉の方を見る。
今度こそオスカーの名を呼ぼうと口を動かしかけたが、声が出ない。
もう一度、ノック。
オスカー…じゃない!
やはり耳慣れたあの音に聞こえる。ゼフェルなのだろうか。
怖い。
ゼフェルなのであれば、一体何の用なのだろう。
最後の日から二ヶ月ほどが経っているが、その間は顔をまともに合わせていない。
見かけることはあったが、目を逸らしてきた。
顔を見る勇気なんてない。
怖い。
やり過ごしてしまいたい。
彼は自分とオスカーとのことを、もう聞いているだろう。
咎められる事ではないと思っている。
それなのに、彼にはそのことについて触れてほしくない。
怖い。
けれど、このまま誰かわからぬまま帰すわけにはいかない。
…ゼフェルなら、なおさらだ。
鳩尾のあたりがキリキリ痛みだした。
緊張に耐えきれなくなって、ロザリアは扉の前に立つ。
鍵を外す音が響いた。
ノブに手をかけてゆっくりとまわすと、扉はこれ以上ないほど緩慢に開いた。
「ゼフェル様…!」
初めてこの部屋を訪れた日と同じように、憮然とした顔で立っていたのはその人だった。
「邪魔していいか?」
沈黙を怖れるように、間髪入れず言葉が発せられた。
かつて最も愛した赤い瞳に、まっすぐに見つめられる。
夢かと思った。
もう二度と起こり得ないはずの幸福が、ロザリアに舞い降りたのだ。
彼が今から何を告げようとも、今この時、彼の目には自分だけが映っているのだと思うと身震いした。
「ちょっと話があんだけどよ…ここじゃ都合わりーよな?」
初めて思いを告げられた日と同じような台詞を、それに気づく様子もなく口にする
。
夢なら、一秒でも長く見ていたい。
だから覚めないようにと願いながら、ロザリアは言った。
夢ではないと、本当はわかっている。
あの時と同じではないこともわかっている。
だから、少しでも長くこの幸せな錯覚を味わっていたくて、ロザリアは言った。
あの頃と同じように微笑みながら。
「どうぞお入りくださいませ、ゼフェル様」
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