強い風が何度か吹いた。
 それをきっかけにしようとするように、その度にジュリアス様は口元を動かされた。
 そして、やはりその度に俺の中で期待が生まれ、死んでいった。

 期待。
 俺の想いが受け入れられるかもしれない、という期待ではない。
 ”絶対”という言葉がどれほど信用ならないか知っているつもりだが、今目の前に立っているジュリアス様が俺を受け入れる可能性は”絶対”にないと断言できる。
 そうでないなら、俺の目は節穴だ。

 俺の持った期待とは、自分以外のなにかがこの場を進めてくれることだった。
 他ならぬジュリアス様に、この状況を打破して欲しかった。

 自分がどんな未来を望んでいるのか、俺にもわからなかった。
 思います、とつけたのは、自信がなかったからだ。
 この”自信”も、受け入れてもらうことに対するものではない。
 この期に及んで、自分の心を見極められてはいなかった。
 決定的な言葉を口にしてしまったにも関わらず、自分が本当に恋心と呼ばれるものを持っているかどうかの自信がなかった。

 そう、だから答えが欲しかった。
 結局のところ、俺はジュリアス様に受け入れてもらおうだなんて思ってはいないのかもしれない。
 万が一、ジュリアス様も俺に特別な想いを持たれているとしたら、どうだろう?
 こんな状況になるまで、考えたこともなかった。多分、考えたくなかったからだ。
 なぜ考えたくなかったか?
 答えは、どう転んでも笑えない未来しか俺たちにはないだろうから、だ。

 俺を見ていてほしい。
 俺を特別だと思ってほしい。
 俺がいないと困ると言ってほしい。

 ジュリアス様に触れたいという欲求が自分の中に存在するのを認めた今でも、ジュリアス様との性行為を上手く想像することができない。いや、想像したくもない、と言う方が正しい。
 ジュリアス様がお望みであれば、そうなってもいいとは思う。だが、俺はやはり勃たないに違いない。俺はその間中、時が過ぎるのを待つことになるだろう。
 俺は、俺の望みだけを叶えてもらいたいのだ。
 自分勝手過ぎる。

 同性でも異性でも同じことだ。
 一人では味わうことのできない幸福を作りながら、共に生きているような恋人達にはなれない。
 ジュリアス様にその片割れになる資格があっても、俺にはない。
 …ああ、こんな状況で俺は何を考えているんだ。

 わからないから、わかりたい。前置きではなく、本当にただそれが全てだった。
 

 ジュリアス様の口が音を発することもなく、完全に閉じられた。
 しばらく見つめていたが、二度と開く気配はなかった。耐え切れなくなった俺が、先に視線を外した。
 ごわごわとした塊が胸の内部を巡る。それに伴って臓器が音を立てて削られていくような錯覚に襲われた。

 俺は、諦めて謝罪の言葉を口にした。

「申し訳ございません」
「なぜ謝るのだ」
 あまりにもジュリアス様らしい第一声は、俺に安堵をもたらした。
「自分自身で解決すべき問題でした」
 ジュリアス様は俺の返答に、やや寂しそうに首をお振りになった。
「先に言っておくが、私はお前の気持ちに応えることはできない」
 辛そうに、喘ぐようにお続けになる。
「だが、謝罪するようなことではないと私は思う」

 常識人、かつ善人であられるジュリアス様は、戸惑いながらも理解しようとされているらしい。この方の核の部分は動じない。何事に対しても公正であろうとする。俺の抱く歪な想いに対しても、そうあろうとする。

「お前は長い間、苦しんでいたのだな。私が全く気づかなかったのは、お前がそうと悟らせないようにしていたから、か」

 そして、その姿に俺は救われる。

「だが、今私がお前に言わせてしまったのだな。軽挙を許してほしい」
 慎重に、言葉を選びながら話すジュリアス様は、ひどく混乱されているようだ。それはそうだろう。考えたくはないが、俺に嫌悪感をお持ちになったかもしれない。
「すまない」
 頭を微かにお下げになったジュリアス様を見て、俺は気づいた。
 ジュリアス様らしいようで、何かが違う。おそらく、ずっとこの方を見てきた俺以外の人間なら見過ごしたに違いない、小さな違和感だった。
「気持ち悪い、そうお思いにはなりませんか?」
 それを確かめたくて、俺は俺が最も恐れている答えを聞くことにもなりかねない質問をした。
「お前の望む形ではないだろうが、私はお前を信頼し、友誼をも感じている。そのようなことを思うはずがなかろう」
 俺の言葉に気分を害されたようで、ジュリアス様は目じりをお上げになった。その表情がどれだけ俺を喜ばせたかをお伝えしたい衝動に駆られたが、それを押し殺して続けた。
「過去、陛下があなたに愛を告げられた時、どのようにお答えになられたのですか?」
「なぜ…知っているのだ?」
「女王になられる前日、陛下ご自身から」
 険しい顔をお作りになったジュリアス様は、固い声音で呟かれた。
「くだらぬことを聞くな。慣れぬ環境にお心弱くなられていたのだろう。一時の気の迷いでしかない」
 それ以上の質問は許されなかったが、もうどうでもよかった。本当に知りたかった答えは既に俺の手にあった。
 公正であろうとするジュリアス様は、それが達成できてはいないことにお気づきにならないだろう。

 俺が女性で、ありえない話だが、なおかつ守護聖であったなら、ジュリアス様は今のような瞳をされてはいなかっただろう。
 あの方にそうされたのと同じように、一時の気の迷いだと切り捨ててしまわれるはずだ。
 長年付き添った部下であり、なにより同性である俺であるからこそ、真摯に俺の想いに向き合おうとされているのだ。道ならぬ恋に苦しんでいるのだと、想像されて。

 そこまで思考を進めた俺は、ジュリアス様に恋をしていた頃の彼女と俺自身を思って、やりきれなくなった。
 
「お前は『わからない』と言ったな?そして、わかりたいと」
「はい」
「お前が私に話した理由は、それだけなのか?」
「それだけ、かどうかすら、今の私にはわかりません」
 わかりません。ジュリアス様の最も嫌う言葉の一つだ。
 そればかりを繰り返す俺は、ジュリアス様の瞳にどのように映っているのだろうか。
 不安を振り払うように顔を上げた俺は、ジュリアス様の瞳を見た。優しい色をしたそれを見て、俺はなぜか悲しくなった。
 
「一つだけ、お願いがあります」
「それがお前の助けになるのであれば、聞こう」
 弱者である俺を労わるように、ジュリアス様はゆっくりとお答えになった。
「あなたに、くちづけをさせて下さい」
 俺の言った台詞を咀嚼するように小刻みに頭を揺らして、頷かれた。
 頷かれた?
「ジュリアス様!?」
「お前の助けになるのであれば、と言ったはずだ」
 引き寄せられるように、俺はジュリアス様に近づいた。
 俺の覚束ない足取りを、ジュリアス様は母親のようにじっと見守られている。
 顔を近づけると、一度だけまばたきをされた。睫毛が揺れるのを間近で見た。
 女性にするように、肩に手をおくことはできなかった。許可を得ていない部分に触れることは許されない気がしたからだ。

 唇以外に触れないよう注意しながら、自分の唇でジュリアス様のそれに触れ、強く押し付けた。

 早鐘を打つような鼓動が苦しかった。頭が麻痺して何も考えられなくなったが、その状況は長くは続かなかった。俺は冷静さをすぐに取り戻した。

 ジュリアス様の唇は、熱くも、冷たくもなく、生ぬるかった。
 ただそこにある、という印象を受けた。唇を重ねながらそう考える俺は、感動も、感激もしていなかった。…寂しくなっただけだった。
 ジュリアス様を抱きしめたかった。温かい、確かなものを心の底から求めたが、無理な話だった。
 瞼の奥にあった、一筋の光の軌道が消えていくのを感じた。
 願った時の俺は、くちづけさえ交わせば劇的な変化が訪れるとどこかで考えていた。ジュリアス様もまた、俺のそんな気持ちを見抜いていらっしゃったからこそ、頷かれたはずだ。
 だが、何も変わらなかった。絶望とはこういう気持ちのことを言うのだろうか。違うかもしれない。

 体中に充満していた、すがるような思いが抜けて行き、しぼんだ。
 唇を離して、俺は数歩ほど後退して距離を取った。ジュリアス様は遠くを見るように瞳を動かされた後、やはり視線を俺の上に留められた。
 俺の言葉をお待ちになっているジュリアス様に微笑んで見せると、ジュリアス様は緊張の糸が切れたように、大きく息を吐き出された。
 そこでようやく、ジュリアス様が両手を固く握り締められていたことに気づいた。

「…ありがとうございました」
 ふっきれたように、滑らかな口調で俺は言う。
「何かがわかったような気がします。ジュリアス様への想いによって、私が悩むことはもうないでしょう」
 ジュリアス様もまた、嬉しげな笑顔を作られた。
「そうか」

 嘘はつきたくなかったが、つかないわけにはいかなかった。俺の告白も、あなたとのくちづけも、俺の心にあるものの正体を解き明かしてはくれませんでした、とはとても言えなかった。
 それでも、後悔はしていなかった。
 どちらにせよ、取るべき行動は一つしかないのだと理解した。これは、殺してしまわなければならないものなのだと、俺はこれまでにないほど強く実感することができた。この痛みが消える日が永遠に訪れなくても、そうするしかないのだと。

 
 あるいは、この想いこそが恋だったのかも知れない。無作為に選んだ百人に俺の心を取り出して見せたら、百人中の全員がそう評したかもしれない。
 だが、もちろん心を取り出すことなどできないし、他人に見てもらうこともできない。
 名づけることができるのは、俺自身だけだった。
 結局、唯一の親である俺にも名づけてもらえず、消されてしまうだろうこの感情について少し考えたが、俺はそれをすぐに止めた。

 やはり俺を気遣われて何事かをお話になり始めたジュリアス様を置いて、逃げ出してしまいたくなったからだった。

 
 
 
 





end




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