愛の賛歌 -ゼフェルの不純な純愛-



1



 オレは今日、童貞を捨てる。
 そう勢い込んで乗り込んだ色町の入り口に立ったオレは、早くも後悔し始めていた。

 高校二年の夏休みが終わって、一週間が経つ。
 日焼けした顔のクラスメイトが興奮気味に話すことと言えば、女の話ばかりだった。
 やったやらないの話ばっかしやがって…つーか、なんで皆やってんだよ。
 どーやったらそんな展開になんだよ。わけわかんねーよ。
 仏頂面で話を聞き流していると、一人がオレの表情に気づいて遠慮がちに聞いてきた。
「ゼフェル、もしかして、お前ってまだ童貞だっけ?」
 普段は遠慮なんてしねーヤツにそんな顔されて、やたらと腹が立った。
「そんなわけねーじゃん」
 思わずそう言っちまったのも、しょーがねーよな?


 舌打ちをして、日が落ちかけた町を眺める。
 ギラギラと点滅を繰り返すネオンと、下着とも薄いドレスともつかない布を纏った女達の隙間を縫うように歩くにやけた男達。

 待ち合わせをしているような素振りで、腕時計を見る。
 七時ジャスト。
 羞恥心に命令されて、意味もなく時間を確認させられた目は、まるで復讐をするようにそこから動いてくれなくなった。
 恥ずかしくて死にそーだ。なんでオレはこんなとこに来ちまったんだろう。
 鼻先をアルコール臭が掠めた。酒は好きだが、酒臭いのは嫌いだ。チクショウ、マジでオレ何やってんだ。

 高校生丸出し。そして童貞丸出しの自分を皆が笑っているような気がする。
 とにかく、動かなければ。このまま尻尾を巻いて逃げ帰るわけにはいかない。

 嫌になるくらいギクシャクとした動作で一歩踏み出した足に、痛みが走った。
 細いヒールが、スニーカーの上からオレの足を踏みつけている。
「あら、ごめんなさい」
 その声をきっかけに、ようやく顔を上げることができた。
 綺麗な女だった。作り物めいた派手な顔立ちと甘ったるい香水。V字型の切り込みが、白い胸元を見せつけている。
「君、行く店決まってるの?決めてないなら、うちに来ない?」
 頷きたかった。願ってもないチャンスだ。それなのに、口が勝手に拒絶の言葉を吐き出した。
「いや…わりーけど」
 女から離れる瞬間に顔を見ると、彼女は柔らかく微笑んでいた。恥ずかしかった。

 手に胸を当てて、動悸を鎮めようと深呼吸する。
 自動販売機で買ったウーロン茶を一気に飲み干すと、少し落ち着いた。


 目的は一つ、女を知ること。
 オレも、オレを見てる奴らもわかってることだ。
 ポケットにある札の感触を確かめながら、歩き出した。

  センスの悪い法被を羽織った呼び込みの男は簡単に無視できるが、店の前で声をかけてくる女達を振り切るにはかなりの努力を要する。
 媚を含んだ目と、纏わりつく白い腕に頭が麻痺してしまいそうになる。
 でも、もうちょっとゆっくり見て回ってからだ。
 こんな思いまでして来たんだ、悔いは残したくない。まだ夜は長いんだ。
 強張った表情のままで真っ直ぐに進むうちに、周囲の風景が変わった。先ほどまであちこちに貼られてあった、挑発的なポーズをとった女のポスターがなくなっている 
 蛍光色の文字で書かれた、どぎつい煽り文句が踊る看板もない。人は歩いているが、妙に静かだ。
 前を見ると、道の両側に白い小さな看板が連なっているのが見える。小料理屋かなにかだろうか。
「おっかしーな」
 来た道を戻ろうと思うが、引っ込みがつかない。
 しばらく歩いてからこっそりUターンしようとそのまま足を動かしているうちに、状況が飲み込めてきた。
 長屋のような作りの小さな建物の群れは、小料理屋ではなかった。
 広く開けられた間口に、若い女が腰掛けている。どの店を覗いてもそうだった。残暑が厳しいというのに、ひざ掛けをかけている。まるで人形のようだ。
 強い照明に照らされた女と目が会うと、にこっと微笑まれた。慌てて視線を外す。

 先ほどまでの風俗街とは趣向が異なってはいるが、やはりそういう類の店なのだろう。直接的ではないところが、余計にエロティックだ。
 開けっ放しの店先に立つ中年女が声をかけてきた。何度も洗濯されてくたびれきった綿のワンピースの襟ぐりを指で摘んで広げているのは、風を入れたいからなのだろう。
「お兄ちゃん、見ていきなよ。いい子しかいないからさ」
「なあ、ここって」
「兄ちゃんかわいいから、安くしとくよ」
「…遊郭ってやつか?」
 中年女は、口を大きく開けて笑った。
「古い言い方するねえ。ま、そんな感じだよ。兄ちゃん、初めてかい?」
 肩に手を置かれたが、不快ではなかった。
「ああ…まあ」
「それならなおさらうちにしなよ。今流行ってるようなさ、最初っから裸みたいな女ばっかの風情もなにもない店より、うちみたいなとこの方がいいよ。このへん一帯は全部そうなんだけどね、うちはその中でも違うよ。なんたって創業百年以上」
 誇らしげに百年以上分の歴史を話し始めた女から目を離して、改めて建物を見上げる。しかし、こういう店が初めてだ、というつもりで言ったのに、バレているあたりが悔しい。
 周りの店とそっくり同じ形の小さな白い看板に、黒い文字でそっけなく書かれた屋号。改築を繰り返しているのか、ところどころ木の色味が違う。情緒がないこともない。
「でもよ、その…女、いねーんじゃねーの?」
 彼女の後ろにある椅子には、誰も座っていない。
「営業中なんだよ」
 絶句したオレを気にする様子もなく、女は続けた。
「ちょっと待ってくれたら、うちで一番人気の子を出せるよ。絶対に損はさせないからさ」
 ここでいいかと思ったが、違う不安が頭をもたげ始める。
「でも、たけーんだろ?」
 渋面を作って、女は頷いた。
「まあね、そりゃ安くはないよ。一流の子だからね。予算はいくらなんだい?」
「…三万」
「うーん、その子は三十分で四万なんだけど、最初だからねーちゃっちゃといかないだろーし、やっぱりいい思い出にしてあげたいから急かせるのもねー」
 歯切れよくポンポンと言う口調のせいか、全く卑猥な感じがしない。親しみやすいこの女のお陰で、緊張も消えている。
「しゃーねーか。他当たるわ」
 礼を言って立ち去ろうとすると、女に手を掴まれた。
「ちょっと待ちな!予算は三万なんだろ?だったら、今日入った新しい子がいるんだよ。ちょっと気性が荒いんだけどさ、とびきりの別嬪」
 今日入ったばかり、気性が荒い、という言葉にひっかかった。優しくて、手馴れた女がいいような気がする。
「でもよー」
「その子、まだ若いんだよ。なんかいいとこの子っぽくてさ、最初っから狒々爺の相手させるのも可哀相だと思ってたんだ」
 客に狒々爺。あまりな言い方に苦笑したオレに、女は畳み掛ける。
「ね?人助けだと思ってさ。二時間で三万。破格だよ?慣れてくりゃうちの…いや、この街の看板娘になりそうなくらいの器量の娘の水揚げだ。本当なら五倍はもらいたいとこだけど、兄ちゃん気に入ったから、特別サービス!」
 分厚い手に背中を押されて、店に押し込められた。




 案内された二階の部屋は、小さな和室になっていた。
 六畳一間、といった広さだ。卓袱台の向こうに敷かれた布団を見た途端、緊張が戻ってきた。
 座布団に座ると、酒とつまみが出された。十代だろーとなんだろーと、一旦ここに入っちまえば関係ねーみてーだ。
「じゃあ、連れてくるよ」
 そう言うと、中年女は襖を閉めて部屋を出て行った。

 どんな女が来るんだ?
 気性が激しくて、若くて、美人、だということだが、どこまで信用できるかわからない。
 頭が冷えるにつれて、座り心地が悪くなってきた。
 バカみてーだ。こんなとこで童貞捨てたって、結局素人童貞だしな。
 止めるんなら今のうちだ。顔見てから帰るって言うのも、なんかわりーし。
 あーでも、やっぱもったいねーよーな気もする。

 悶々と考えていると、騒々しい音が聞こえてきた。
 なにやら、言い争いをしているようだ。叱咤する中年女の声と、嫌がる若い女の高い声。
「あんたのためを思ってやってんだよ!早く入りな!」
 大声が響いたと思うと襖が開かれ、色鮮やかな物体が転がるように入ってきた。
「ひどいですわ!」
 声を上げたので、それが若い女であることがわかった。
 勢い良く起き上がったその女は、腕を畳につき、横座りのような格好をしている。そして、なぜか着物姿。黒地に朱色の大きな花があしらわれた高価そうなものだ。金色の帯も美しく、華やかな装いだ。
 紫色の飾りがついたかんざしが落ちて、青い髪がふわりと広がった。緩やかなカールがかかっていて、柔らかそうだ。足を見ると、ご丁寧に足袋まで履いていた。

「その兄ちゃんなら優しくしてくれるはずだから、あんたもがんばるんだよ!」
 中年女ががなり立てる。
「いやですわ!家に帰して!」
 若い女が必死の形相で叫ぶ。

 時代劇の一幕のような光景だ。テレビを見ているような気分で、酒を飲みながら眺めていると、肩が揺さぶられた。腕が卓袱台にぶつかって、つまみのスルメが飛んだ。
「頼んだよ!女にしてやっとくれ!」
 そう言い放って、中年女は逃げるように出ていった。

「なんか、逆になってねー?」
 ドタドタと階段を降りる音を聞きながら、オレは思わず呟いた。









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