後編
付き合い始めてから一ヶ月ほどして、ロザリアがマリーに謝りに行きたいと言い出した。
オレも気になってはいたから、次の日行ってみたが、店は工事中だった。
その時は、年が明けてからまた来ようという話になったのだが、新しい年が来てもしばらく予定が合わず(オレはわりと暇だったが、ロザリアが忙しそうだった)、二月も半ばを過ぎた今日、オレ達はようやく再び来ることができた。
とは言っても、年が明けてから一度もロザリアに会っていなかったというわけではない。
…なんつーか、初詣とかバレンタインデーとかって結構イイモンなんだな。
とにかく、オレ達が出会った店は、えらく立派になっていた。大規模な改装が行われたようだ。
マリーは、オレ達を覚えていた。
あれだけのことがあったのだから、当然と言えば当然だ。
オレ達に茶を出してくれて、自分は酒を飲みながら、マリーはコトの顛末を話してくれた。店の改装資金は、ロザリアの家から出た『御礼金』だそうだ。
「あんた達のおかげで大変だったけど、チャラにしといてやるよ」
本当に大変だったのかと疑いたくなるような軽さで、マリーは笑った。
「何言ってんだよ。店とは別に金もらってんだろ?つりが出るくれーの大金だったんじゃねーの?」
「あんた達が逃げる時間を稼いでやったんだ。時は金なりって言うだろ?」
恩着せがましく言うマリーに、厭味ったらしく返してやる。
「でもよ、結局追っ手が来たじゃねーか。知らせたのはあんただろ?」
「そりゃ兄ちゃん、私も雇われてんだからしょうがないじゃないか。でも、あん時の十分はでかかっただろ?」
言われて、確かにそうだと思った。
ルヴァとジュリアスに会う前に追っ手に見つかっていたら、どうなっていたか。
まず間違いなくオレはボコボコにされていただろう。それだけならまだしも、ロザリアにも危害が加えられていたかもしれない。
「自分達じゃ何もできないのに逃げ出して、馬鹿な子達だと思ったよ。でもさ、手に手をとって走る姿を見て、なんかねえ…あの時は、逃げきってほしいって思ったんだよねえ…私も焼きがまわったモンだよ」
嫌な想像を振り払うために頭を振って、話を変えることにした。素直に礼を言うのはシャクに触る。
「金が入ったんなら、新しい服くらい買ったらどーなんだよ」
マリーは、ムッとした顔で毛玉だらけのセーターをつまんだ。
「兄ちゃんは黙ってな。このセーターにはねえ、いろいろ思い出があんだよ。男のくせに無神経だね。そんなんじゃロザリアに嫌われちまうよ」
当のロザリアは、オレとマリーのやり取りがおかしいらしく、くすくす笑っている。
「男のくせにってなんか変じゃね?フツー、男の方が無神経だろ」
マリーは、ふふんと鼻で笑った。
「わかってないねえ。男の方が繊細で、ロマンティストなんだよ」
マリーの前では楽しそうにはしゃいでいたのに、店を出てからのロザリアは、どこか上の空だった。
「おい、どーしたんだよ?」
肩を軽く叩くと、ロザリアはオレの顔を見た。
「…わたくし、お話がありますの」
いつになく真剣な表情に、オレの胸は嫌な感じにザワザワした。
「な、なんだよ改まって。じゃーそのへんの店にでも入るか」
「いえ、人に聞かれたくない話ですから、外で結構ですわ」
”別れ話”という単語が頭に浮かんだ。まさか、急すぎるだろ。
「このクソ寒いのに外かよ。だったらよ、いつもの公園でいーか?」
ロザリアは、目を伏せて頷いた。
”別れはいつでも突然訪れる”
…どこかで見た台詞。小さな不安が、どんどん膨らんでいく。
公園に着くまでの間、ロザリアはオレを見ようとはしなかった。
足を前に踏み出すたびに、小さく縮んだ心臓に冷気が吹きつけられていく。
少しずつ時間をかけて、それは凍り付いていった。
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公園には、誰もいなかった。犬の散歩をするには遅すぎる時間だからだろう。
無言で、並んでベンチに座った。
「で、話ってなんなんだよ」
ロザリアは、困った顔で俯いた。
ふと、クリスマスを思い出した。あの時…そう、この公園でだ。
恥ずかしそうにくれたマフラーは、息子の部屋に勝手に入るのが趣味になったらしい母親が感心するくらい、編み目が綺麗に揃っていた。もちろん、今日も首に巻きつけている。
オレにはもったいない子だと繰り返すのがうるさくて部屋から追い出したのだが、言われなくても、誰よりもオレがそのことを知っていた。
家柄云々は抜きにしても、ロザリアはオレにはもったいない女だ。
オレだってそう悪い方じゃないと思うが、ロザリアは人目を惹くほど整った顔立ちをしている。オレより物識りで、オレより世間知らず…これは誉め言葉になっていないかもしれないが、オレの目には美点に映る。
声だって綺麗だ。その上、オレのことを好きになってくれた。
「…あの、わたくしが何を言っても驚かないでほしいのだけれど」
先を促すため、オレは首を縦に振った。
”オレのことを好きになってくれた”が”オレのことを好きだった”に変わっても、オレはロザリアを嫌いにはならないだろう。でも、憎むようになるかもしれない。少しの間でも、楽しい時間を過ごせて良かったとは思えない気がする。
「ゼフェルは…わたくしと…」
オレは、息を止めた。マフラーの端を握り締めて、次の言葉を待った。
「わたくしと…」
待った。
「ああ…いえ、なんでもないですわ」
気が抜けた。止めていた息を一気に吐き出して、吸い込んだ。
「ここまで来てそりゃねーだろ!オレのためを思ってんならさっさと言えよ!」
やっちまった、とオレが思ったのと同時に、ロザリアは立ち上がった。
彼女の前で大声を出すことなんてなかったから、驚かせたのだろう。
オレも立って、ロザリアと向かい合った。
「わりー。でも、言ってくれよ。こんなところで止められたら、蛇の生殺しってやつだ」
「へびのなまごろし…」
ロザリアは、なぜかその言葉をゆっくりと繰り返し、オレの顔を見た。
「やっぱり、そうでしたのね…」
肩を落としたかと思うと、俺に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「はあ?」
「友人に言われるまで、全く想像もしていませんでしたの!…ずっと我慢をしていたのでしょう?」
「…我慢?なんの?」
「わたくしのこと、好き?」
普段だったら嬉しくなるような質問だが、この状況ではそうもいかない。鬼気迫る、といった彼女の表情と、この質問が彼女の中でどう結びついているのかさっぱりわからない。別れ話じゃないのか?
「そりゃ…もちろん好きだけどよ。あのよー…」
事の次第をはっきりさせようとしたオレを制して、泣き出しそうな顔で小さく呟いた。
「…わたくしと、ひ…ひとつになりたいと…」
「ひとつ?」
よくわからなかった。
「男性は、その欲求が強い傾向があると。特に、好きな相手とはそうなりたいと思うものだと…。わたくしも、一度あなたに…お願いしたことがありましたわ。それなのに、思い至らなくて…」
そこまで言われて、やっとわかった。
「そうではない人もいるのでしょうけど、ゼフェルは…そうなのでしょう?だって…いえ、とにかく、そうですわよね?」
オレは、さっき二人で行った店…つまり、ロザリアと初めて会った場所を思い出していた。ロザリアも、おそらくそうだろう。
「いや、そんな…そりゃ、オレは…そーゆー…よ、欲求?そ、それがねえってことはねーんだけど…いや、なかったんだけどよ…」
ロザリアは、理解しかねるように首を傾げた。
「最初は…こんなこと言ったらケーベツされるかもしんねーけど、ど…童貞を捨てちまいたいって思って、勢いであの店に行ったんだけどよ…」
「ど…!ああ、ええ…」
「おめーを好きになって、おめーと一緒に逃げて、そんで…一度はおめーとは二度と会えなくなったと思ったって前に話したよな?」
カタルヘナのお嬢様だと知ってからした勘違いを、付き合い始めてすぐに話していた。
「それからおめーと付き合えることになって、こんなこと言うのは恥ずかしーんだけど、なんか夢みてーに嬉しくて…そっからは、そーゆーことは頭から抜け落ちてた」
そうなのだ。オレはすっかり忘れていた。
もちろん、性欲がないわけではない。
昨日だって一人でした。
しかも、前に見たロザリアの太ももとか胸とかを思い出しながらだ。
でも、それはただの習慣で、いつかはロザリアとやりたいとは思うが、今すぐにという考えはまったくなかった。
…なんか、性欲強いのか弱いのかわかんねーな。
それはともかく、学校のヤツらには彼女ができたことを内緒にしているから、冷やかされも焚き付けられもしない。
夏に童貞を捨てたヤツらの何人かは既に別れている。そういう話を聞くたびに、オレはロザリアと付き合っている自分を幸せ者だと思った。
唯一、ハックにだけは、日ごろあまり会わない気楽さもあって言ったが、ヤツはそういう話をオレにふらなかった。多分、前にロザリアがヤリマンだと言われた時に、オレが怒ったせいだろう。
ちなみに、彼女ができた祝いにと連れていかれたのは、またあの居酒屋だった。
「なんて言えばいーのかわかんねーけど、オレはおめーと一緒にいる時間が好きなんだよ。答えになってねーかもしんねーけどよ、とにかく、そーゆーことで我慢はしてねー」
オレが言い終わると同時に、ロザリアはとびきりの笑顔を見せた。
「馬鹿なことを言ってごめんなさい!ゼフェルはやっぱり特別な人ですわ!」
よほど嬉しかったのだろう。ロザリアは、マフラーを握り締めたままだったオレの手をとった。
「一般的な男性像なんて、ゼフェルには当てはまらないとクリスマスの時にわかりましたのに…わたくしったら…わたくしったら…」
喜びと反省を交互に顔に浮かばせるロザリアをぼんやりと見ていると、視線に気づいた彼女が手を離した。
「ごめんなさい…不愉快でしたわよね」
そう言われて、ようやく別れ話ではなかったことがわかって、オレは安心した。
「そんなことねーよ。色々考えてくれたんだろ?」
しょんぼりしているロザリアを抱きしめた。
本当に、別れ話でなくて良かった。
「ゼフェルもわたくしと同じ気持ちでいてくれていたのに…わたくしったら先走ってしまって…」
不安が消えて、喜んでいたオレは、そこでふと思った。
「なあ、もしオレがよ、その…したいって言ってたら、どーしてた?」
ロザリアは、少し体を強張らせて、黙り込んだ。
そして、オレの胸に顔を押し付けて、くぐもった声で答えた。
「…そ、それはっ…あの、もちろん…ゼフェルがそう望んでいたのなら…わたくし、ゼフェルの希望にお応えしたと思いますわっ」
一度意識してしまった欲望は、後悔を連れてきた。
「あのよ、オレ、…したくねーワケじゃねーんだぜ?っつーか」
ロザリアは、顔を上げて頷いた。
「わかっておりますわ。わたくしだって、いやというわけではありませんもの。その時期が来たら、きっと自然にそうなりますわよね」
先を言えなくなったオレに、ロザリアは罪のない笑顔を向ける。
「ゼフェル…ありがとう」
幸せそうに言ったロザリアがかわいくて、愛しくて…それが辛かった。蛇の生殺し。
バレないように腰をひきながら、ロザリアを抱きしめる手に力を込めた。
end
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