最終話



 ロザリアが去った後、ゼフェルは毎日夢を見るようになった。
 それは決まって耐えられないほどの悪夢か、願望そのもののような幸せな夢かのどちらかで、心身を休める役割を果たすどころか、彼を情緒不安定にさせた。
 できれば眠らずにおきたかったが、それでも体は睡眠を求める。

 その日の彼は、とても楽しい夢を見ていた。
 ロザリアに、初めて想いを告げた時を再現したような夢だった。
 まだ少女であった彼女は、驚いて、その後真っ赤になってオレへの気持ちを教えてくれた。
 オレは、彼女の倍くらいは驚いて、バカみたいに喜んで、その後恥ずかしくなって黙っちまったら、彼女は屈託のない笑顔を向けてくれた。


 アラーム音がけたたましく鳴り響き、現実に呼び戻された。

 夢が夢であったことを確認すると、胸の中心になんともいえない感触が走る。
 何かが膨張して、その空気が抜けていくような感触。
 顔を洗い、歯を磨き、髪を整え、服を着替える。
 たいしたことはしていないのに、それだけの動作でひどい疲労に襲われた。
 とにかく執務室に向かおうと、歩き出す。
 
『きっとすぐに会えますわ』
 そう言って笑ったロザリアを思い出すと、少し心が躍る。
 こんなんじゃダメだよな、と前を向いて背筋を伸ばす。

 そして、違和感を覚えた。
 自分の体内にあるはずのサクリアが、全く感じられないのだ。
 体の具合が悪いのだろうと、初めは思った。
 サクリアが消えた、とはとても考えつかなかった。
 なぜなら、最愛の人が行ってしまってから、僅か一週間しか経っていなかったから。
「まさかな…嘘だろ?オイ」

 ――――ゼフェルのサクリアは、こうしてあっさりと消えた。





 一週間の間、腫れ物に触るようにゼフェルに接していた守護聖達は、当然だが驚き、呆れ、そして大いに笑った。

「ったくよー…こんなすぐに下界に行ったらよ…なんか気まずいじゃねーか。あっちでもまだ半年くれーか…何言われるかわかんねーぜ」
 そんなことを言いながら後任の守護聖の教育を勝手に三日ほどで終わらせて、元鋼の守護聖は慌ただしく聖地を去って行った。

「あんなに軽い足取りで聖地を出る守護聖なんて初めて見るよ」
 と、夢の守護聖。

「あー、ちょっと淋しいですねー。一応、元教育係だったのですが…一言もありませんでしたよー」
 地の守護聖は言葉とは裏腹に、穏やかな笑みを浮かべて頷いている。

「本当に何だったというのだ。…まあ、喜ばしいことだが」
 光の守護聖は困惑の色を隠さずに、愚痴とも喜びともつかない言葉を漏らす。

「でも、良かった。本当に…良かった!」
 風の守護聖が笑顔で大声をあげ、それを受けて炎の守護聖も笑った。
「まだ夢を見ているような気がするな。…幸せな夢を、な」
 そして、嘘が美しい人に露見する可能性が消えたことに思い当たり、心の中だけで安堵のため息をついた。




 小さな星の辺鄙な場所に、彼女はいるらしい。
 元補佐官の居場所は当然教えられなかったが、すぐに探し当てることができた。
 陛下とロザリアの母校だったスモルニィ女学院の大学に通っているそうだ。
 『薔薇の姫君』という通り名まで付いていて、聖地も下界も似たようなモンだとおかしくなった。

 しかし、彼女の有名さは時の流れの違いを感じさせた。
 自分にとっては、別れの日から十日ほどしか経っていない。だから、それが少し歯痒く思える。
 勝手に変なあだ名付けられやがって、と毒づいてもみたくなる。

 だが、何をどう言おうと、顔の筋肉は緩む。
 通りすがりの中年男に『兄ちゃん!見ない顔だが、恋人にでも会いに来たのか?』などと言われてしまったほどだ。
 しかも、それに照れ笑いで応えてしまったくらい、心は弾んでいる。

 エアバイクにでも乗れば早いのだろうが、一歩一歩を踏みしめながらゼフェルは歩いて彼女の住まいに向かう。

 ようやく視界にそれらしき建物が入ってきた。
 遠目から見ても小さいものだと分かる木造の家は、まるでロザリアに似合わない気がしたが、温かみがあっていいとも思った。

 家の前に人影が見える。
 金の髪と、蒼い髪。
 聖地では見慣れた光景。

 ほんの少し前まで見ていたはずなのに、なぜ懐かしいと思うのだろう。
 会えるのに、これから彼女と会えるのに、なぜ喜びよりも先に、胸が切なくなるのだろう。
 胸が痛むのは、どうしてなのだろう。

 今まで、自分は不運な人間だと思っていた。
 守護聖などになってしまったのも、彼女が自分より先に下界に降りることになってしまったことも、不幸だと思っていた。どうして自分ばかりが、と思ったことも何度だってあった。
 それなのに、不運なはずの自分が星の数ほどある可能性を飛び越して、今ここにいる。
 信じられないほどの、素晴らしい偶然。

 よく離れることができたと思う。
 胸が痛むのは、どこかでそうなるかもしれないと考えていた未来を思い出したから。
 数日前まで気が狂いそうになるほど怖れるあまり、頭から追い払おうとしていた未来。

 蒼い髪が、風になびいている。
 それらが触れあう音さえ聞くことができるように思う。

 そして、彼女の変化に気づいた。真っ直ぐに伸びたストレートヘア。

 補佐官に就任してから、急速に大人の女性になってしまった彼女。
 だからこそ、また差がついていたらと心配していたのだが、予想は覆された。
 聖地にいたころより、随分あどけないように見える。
 決して幼く見えるわけではなく、年齢相応なのだろうが、聖地での彼女はあまりにも毅然としていたから。
 実年齢より若干ではあるが若く見られるゼフェルには、嬉しい驚きだった。

 彼女の元へ走る。
 喉がカラカラになって息苦しくなり、心拍数が上がる。
 余計な考え事をする余裕が無くなるくらい全力で、ただ走る。

 ――――――ああ、目の前にあんのは、キレーなもんばっかだ。



 雲が流れて、太陽が顔を出す。

 陛下が先にオレを見つけて、高い声でロザリアを呼ぶ。一生懸命手招きをして、飛び跳ねている。
 オレとロザリアのいる方に顔を交互に動かして、焦れたように何度もロザリアを呼ぶ。 光を受けてキラキラと輝く陛下の髪は、まるでオレ達を祝福するために踊っているように見える。
 いつものようにティータイムとやらの準備にかかっているらしいロザリアは、忙しく動きながら生返事をしている。


「ゼフェルよ!」
「ロザリア!」

 オレと陛下が同時に声を発すると、ロザリアの動きが止まった。

 振り向いて、太陽の眩しさに顔を顰めた。

 手を翳して、オレを見た。

 全てがスローモーションのように、ゆっくりと克明にオレの目に映る。

 美しい唇が、オレの名を呼んだ。

「安心しろよ、逃げ出してきたんじゃねー。おめーと幸せになるために降りてきたぜ」
 そう言って大きく手を広げたオレに、宝物は飛び込んで来た。
 鼻腔を擽る匂いは十日前のロザリアのものと同じで、続いているんだ、と思うと目頭が熱くなった。
 せっかくの再会なのに涙をこらえることに精一杯だなんて、みっともないと同時になんだかもったいないとは思うが、気を抜くとこぼれ落ちそうになる。

「信じられませんわ…信じられませんわゼフェル様…!」
 何が信じられねーんだよ、と聞き返す前に、ロザリアの笑顔が零れた。
「ゼフェル様、早すぎるんじゃなくて?」
 笑って言われて怒るに怒れなくなったオレは、傷付いた表情を作ってやった。
「オレが来ねー方が良かったのか?もしそーならオレは…」
 立ち去るふりをすると、必死でオレの服の袖を掴んだ。
「ゼフェル様、お変わりになりましたわ。そんな意地悪を仰らないで下さいませ」
 プライドの高さが邪魔して謝れず、憎まれ口を叩くロザリアは、女王候補だった頃と変わらない。

「ま、でも我ながらビックリしたぜ。まさかこんな早くだなんてよ…。オレにとっちゃおめーがいっちまってからまだ十日くれーしか経ってねーんだぜ?十日会わなかっただなんてザラだったしよ。なんかありがたみねーっつったらねーよな」
 ロザリアの顔を見るのが照れくさくて、オレもまた昔のように素っ気なく返す。
 楽しい日々。オレ達が無知で、ガキだった頃。

 そして思う。これからまた、あの頃と同じ様な日々を始めようとしているのだと。
 あの頃によく似ていて、しかし全く違う要素で作られるだろう続きを。

「ありがたみがねー状態になったからこそ、”なんとなく”が取れたんだけどな」

 ロザリアが考え込むのを見て、言い直す。
「おめーにはもう半年以上前になっちまってるんだったな。あん時、これまでのことは無駄じゃなかったって…なんとなくそう思うってオレが言ったこと覚えてるか?」
 ロザリアが頷くのを確認して続ける。
「おめーとこれから一緒にいられるって確信できたから、”なんとなく”が取れたんだよ」
 ロザリアは、少し首を傾げて考えを整理しているようだ。
 オレの言葉で、様々な表情を見せてくれることが嬉しい。

 いろんなロザリアが見たい。
 オレの考えを知ってもらうだけじゃなくて、ロザリアが何を考えているのかも知りたい。
 共有できるものは、全て共有したい。

「長いこと離れてたのはやっぱり無駄じゃなかったんだよ。そりゃいくらカッコよく言ったって、できたら味わいたくなかったくらい辛かったぜ?だけどな、すげー意味があったんだよ」
「意味…ですの?」
「ああ。これから先、何があっても二度とおめーを離しちゃいけねーってこと、学んだ。オレはすぐ感情的になっちまうし、バカやっちまうことだってあると思うけどよ、おめーを手放すっていう最悪の選択だけは絶対にしねーで済むんだからな」

 十日前に彼女がしてくれたように、ロザリアの頬を両手で包んで、瞳を見つめる。
 彼女に触れることができる喜びが、じわじわと体中を駆けめぐる。

「おめーが好きだぜ。今おめーが嫌がっても、オレはもう離さねーからな。いいよな?」
「もちろんですわ。わたくしだって、もう二度とゼフェル様を離しませんわ!」
「でもよ、おめー…全然泣かねーんだな。いや、別にいいんだけど、よ…」

 ――――――― オレは泣きそーだったのによ。

「ゼフェル様ったら、わたくしを泣かせたいと思ってらっしゃるの?ひどい方ですこと」
「そーいう意味じゃねーって!なんつーか、ほら、感動して…とか、あー!もういい!」
 恥ずかしくなってぶっきらぼうに言ったオレがおかしいのか、声をあげて笑った。
 せつなさや苦しみとは無縁の、彼女のその明るい笑い声を聞いて、オレ達はやっと恋人同士になったんだと思えた。


 この先のオレ達には、もうドラマはないのだろう。
 会いたくて、抱きしめたくて、分かり合いたくて、彼女の気持ちを知りたくて、それら全てが不可能だった今までのような。

 しかし、例えば胸の中の激情が日常に埋もれて消えてしまう時がいつか来ても、彼女を離すことはない。
 彼女のいない人生を送ることがどれほど虚しいものか、嫌というほど身に沁みているから。

 何も喋らなくなったオレを心配げに見ているロザリアを引き寄せて、キスをした。
 目を潤ませてオレを見たかと思うと、顔を真っ赤にして唇を離した。
「ゼフェル様、アンジェリークが…」
「バーカ。陛下ならとっくに家ん中に入ってるぜ。気ィ利かしてくれてるみてーだ」
 もし陛下がいても同じことしただろーけどよ、と言うと、ロザリアは嬉しそうに困った顔をするという複雑なことをやってのけた。それがとてもかわいくて、もう一度キスをしようと顔を近づけた。


「ねえ、もう大丈夫?」
「あ」
 陛下が恐る恐るドアから顔を出して、ロザリアは慌ててオレから離れる。
 もうちょっとだけ待っててくれりゃー嬉しかった、とも言えずオレは頷く。
 ロザリアは決まり悪そうに咳払いを一つしてから、少し大きすぎる声で言った。
「もう!変な気使わなくてもいいの!」
 それを見て、今度はオレと陛下が笑う。

 つまらないことで、怒ったり喧嘩したり、仲直りする。
 時々、互いに相手のことが嫌になったりすることがあるのかもしれない。
 それでも、それを乗り越えて、一緒に年をとって行きたい。


 ――指輪も花束も用意してねーじゃん。そーいうの夢見てっかもしんねーのに。

  彼女とだから、そういったごく当たり前の幸せがほしいと思う。

 ――これからはいつでも会えるんだから、準備ってやつをしてからの方が絶対にいーよな。

  叶わない願いだと、この手が届くことはないと、どこかで思い込んでいた。

 ――ダメだ。今なんだ。どーしても今なんだよ。



 オレは目を閉じて、必ず彼女を幸せにすることをもう一度誓う。
 彼女の両親は亡くなっているだろうから、他ならぬ彼女自身に。

 言葉が溢れ出した。


 ロザリアは、あの日と同じように驚いて、その後真っ赤になった。
 そして……






 ――――――――――――――――――今、それに届く。














end







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