アンタは、とても素敵な女の子だ。本当にそう思ってる。
ワタシに好意を持ってくれていることは、わかってたよ。
でも、あんなに激しいものだったってことは、知らなかった。
憎からず思ってる子に、あんな風に言われて嬉しくないわけなんてない。
だから、ワタシは戸惑った。
ロザリアは、緊張した面持ちで、夢の守護聖の執務室に入室した。
「呼びつけちゃって悪かったね」
オリヴィエもまた、彼らしからぬ硬い表情で出迎えた。
「いえ…とんでもない。わたくしは…」
言いかけて、口を噤む。
「…とりあえず、座ってよ」
彼は、ややぎこちない動作で彼女をソファに案内した。
「お茶を淹れるから、ちょっと待ってて」
「あの…いえ、わかりました」
ロザリアは、オリヴィエの背中で揺れる髪を見た。
『ワタシの髪って細くて絡まりやすいから、手入れは丹念にしてるんだ』
彼女は、いつかその髪に触ってみたいと思っていた。
その願いは、昨日叶えられた。
いや、そうではない。
彼女が手を伸ばして、自分自身で叶えたのだ。
昨夜の同じ時間も、ロザリアはこの部屋にいた。
「お待たせ」
ロザリアの前に、ティーカップが静かに置かれた。それを見たロザリアの顔に、悲しげな表情が浮かんだ。
次に、オリヴィエは自分の前にティーカップを置いた。
テーブルとカップの底が触れ合う音が、静かな部屋に響く。
大理石で作られたこのテーブルは、彼の自慢の品だった。
彼らしくない乱暴さが、ロザリアに彼が平常心ではないことを伝えた。
驚いたロザリアに向かって、オリヴィエは苦笑して見せた。
「…昨日はごめんね」
そう言って、オリヴィエは口元を引き締めた。
今日の彼は、まるで知らない人に見える、と彼女は思った。
気持ちをほぐしてくれるために、笑みを浮かべている彼。
軽妙な話をしながら、楽しそうに笑っている彼。
ロザリアの中にあるオリヴィエの映像は、そのほとんどが笑顔だった。
彼の口から出るのは、耳障りの良い言葉だけではなかったが、厳しい意見を言う時でも、彼は優しく笑っていた。
だから、笑顔ではないオリヴィエには慣れていなかった。
笑っていないオリヴィエを見て、彼がこれまで、自分に気を使い続けてくれていたことを、ロザリアは改めて知った。
いつも、いつも、いつも。自分といる時はいつも…同じ目線の高さで向き合ってくれたことがなかったのだと、思い知った。
もちろん、守護聖と女王候補は対等な立場にはない。
だが、彼はそれを徹底していた。
舞台の上で踊る弟子を見る師のように、彼は客席から見守ってくれていたのだろう。
『一秒たりとも、同じ場所に立つことができなかった』
浮かんだ考えは、彼女にとって悲しいものだったが、事実だった。
テーブルの上の紅茶には、どちらも口をつけようとはしなかった。
長い沈黙だった。
訪れたばかりの悲しみに耐えていたロザリアは、彼が口を開くことを恐れた。
目の前にあるティーカップは、ロザリアもよく目にしていたものだった。
だが、三ヶ月ほど前に彼女が新しくティーカップを贈ってからは、食器棚の奥深くにしまわれているはずだった。
使うたびに自分を思い出して欲しいと願いを込めて贈ったティーカップ。
金の縁取りの下に、深紫のライン。その下に細い金のラインが引かれている。
深紫の部分には、繊細な作りの小さな羽のモチーフが飾られ、白地の部分に生い茂る蔓の模様が細工されていた。オリヴィエは、その美しい品を喜んで受け取った。
そう、たった三ヶ月前の話だ。
今日、それが使われていないのが、きっと答えなのだろう。
ロザリアは、思考を進めていく。
ティーカップだけではない。彼の表情も、動作も、全てそれを指し示している。
『わたくしは、今から失恋をする』
失恋…恋を失う。
誰にそんな権利があるだろう。この恋を失わせる権利など、誰にもないはずだ。
ロザリアは、胸の内でそう呟いた。
この人と共に歩いていけたら、他には何もいらないと思えるほどの想いを持ったのは、初めてだった。それは、彼女の人生観を覆すほどの強い想いだった。
大切なものを失うことに対する恐怖から、彼女は逃げたくなった。
「オリヴィエ様…言いにくければ、無理に仰らなくとも結構ですわ。わたくしは、今のままでも構いませんわ」
ロザリア、ロザリア。ワタシのかわいいロザリア。
ワタシは、その瞳が好きだ。
ワタシは、その唇の形が好きだ。
なにより、ロザリアの賢さが好きだ。
答えを見つけた時に、瞳に宿る光が好きだ。
子どもらしいわがままを言われるのも好きだ。
その後に、後悔して俯く姿を見るのも好きだ。
公式な場で見せる、完成された美術品みたいなロザリアも好きだ。
だけど、アンタは喜んでくれないだろう。
アンタが望む言葉は、アンタが知らない人にしか捧げられない。
少なくとも、今はまだ。
「オリヴィエ様…?」
顔に不安の色だけを浮かばせて、ロザリアは呼びかけた。応えるように顔を上げたオリヴィエを見て、彼女は名を呼んだことを後悔した。彼の口が開いたのを、彼女は見ることができなかった。目を閉じたからだ。
「ごめんね。ワタシはアンタの気持ちに応えることはできない」
その声に、彼女の瞼は彼女の意思を裏切った。瞼が開き、辛そうな表情のオリヴィエが目に入った。自分の唇が震え始めたことを自覚しながら、視線を大きく逸らせた。
『オリヴィエ様は、わたくしが諦めることを望んでいる』
自分自身を痛めつける言葉ばかりが、意識に上ってくる。
ロザリアの唇の震えは、止まない。
「なぜ…ですの?」
理由が必要だと、ふと思った。
だが、本当はそんなものはいらなかった。ただ思いついただけだった。
必要なものは、納得できるだけの理由ではない。
「わたくしが、お嫌いですか?」
「…そんなワケないだろ?」
「嫌いではないけれど、お好きではない…?」
重ねて問うと、オリヴィエはなにかに気づいたように体を震わせた。
「…もう女王にはなりたくないの?」
予想はしていたが、ロザリアにとって最も痛い言葉だった。
『わたくしは、女王になりますわ』
これまで何度も高らかに宣言してきた台詞が、彼女の脳裏を掠めた。
恥ずかしさといたたまれなさで、ロザリアの心臓は縮んだ。
意思が弱い人間だと思われたくはなかった。誰にもそう思われたくなかったが、彼には特にそうだった。
「オリヴィエ様をお慕いするようになってから、わたくしは悩みました。夢が…恋に負けそうになっていることを恐ろしく思いました」
話しながら、彼女はオリヴィエを盗み見た。彼は、痛みに耐えているような表情を浮かべていた。
「そのうち、自分の気持ちを告げることによって、オリヴィエ様に軽蔑されるのを恐れるようになりました。それに気づいた時、わたくしは自分の望みを正しく知りました」
ロザリアの視線が移動していく。自分を鼓舞するように、まばたきをした。
「わたくしに必要なのは」
言葉を切ったロザリアの目が、オリヴィエの目を射抜いた。
「なによりも、オリヴィエ様なのですわ。そうなってしまったのです」
オリヴィエは、思わず喘いだ。
新鮮な痛みが、彼の胸に走った。
心の中でも、同じように「ああ」と喘いだ。
ああ、ああ、この子は自分の欲しいものがわかってる。それを手に入れるために、様々な種類の痛みを引き受けている。
手を伸ばせば…この子を抱き寄せたら…出口の見えないトンネルに、光が差すかもしれない。
それでも…やっぱりダメなんだ。
「ワタシは今、アンタの勇気と聡明さに感動してる。軽蔑なんてできるはずないよ。でも…ごめん」
ロザリアの目が、絶望に覆われていく。二度の拒絶に、彼女の心は折れた。
「…わたくしが、女王候補だからですか?」
オリヴィエは、首を縦に振りたかった。それができたら、自分もロザリアもどれだけ楽になれるだろう、そう考えたが、気力を振り絞って堪えた。
彼は首を横に振った。ロザリアの目に涙が溢れ出した。
結果が同じなら、少しでも彼女の傷を浅いものにしてやるべきかもしれなかった。
だが、オリヴィエはこれまで誰にも言わなかったことを、口にした。
「…ワタシには、好きな人がいるんだ」
この時オリヴィエは、彼女の保護者の役割を放棄した。
ロザリアは永遠に知ることはないが、最後に彼女は彼と同じ舞台に立つことができたのだ。
マリオネットのような動きで一礼した彼女が、部屋を出て行くその瞬間まで。
まだ部屋にはロザリアの残り香がある。それを胸いっぱいに吸い込んだ。
今からでも、彼女の元へ行きたかった。
ありのままに、ワタシの気持ちを話したら、ロザリアはそれでもいいと言ってくれたかもしれない。
今とは違った形の愛情…ロザリアが望む形の愛情を持つようになれるかもしれない。
…けれど、保障はない。
軽い気持ちで始めた恋が、いくつかあった。
ワタシの心を傷つけたものも、全く傷つけなかったものもあった。
そのうちの一つが、ワタシを今も縛り付けている。
もう二度と、手に入れることはできないのに。その人に会うことさえできないのに。
便宜上、ワタシが囚われている女性を”好きな人”と言ったが、本当はよくわからない。
この想いは、まだ恋心であってくれているのか。それともただの執着なのか…自分でも判別がつかなくなっている。長い間考えすぎたせいだろう。
はっきりわかっているのは、ロザリアの気持ちを受け入れることは、どうあってもしてはいけないということだけだった。
どれほど愛し合っている恋人達でも、明日のことはわからない。
それはそれでいい…というより、それが自然だと思う。
しかし、最初からロザリアを悲しませることになるかもしれないと思っている状態で、新しい関係を築き始めることはできなかった。
…アンタが大切なんだ。アンタの心が、ワタシの宝物なんだ。
辛さを知っているワタシが、かわいいロザリアに同じ気持ちを味あわせることなんてできない。
この苦しみは、片思いの末の失恋とは違う。少しずつ時間をかけて、心の芯が冷たくなって、疲労しきってしまう。そして、後には混乱だけが残る。
今も抱え続けているこの冷たい石が、ロザリアの胸にも生まれることになったら。ワタシは自分を絶対に許せない。
だから、その芽を摘み取った。
想像するだけで背筋が凍りつきそうになる未来を消すために、もうひとつの未来も殺した。
これから、ロザリアはどうするだろう。女王になるのだろうか。
どちらにせよ、これからは、彼女がワタシに相談することはないだろう。死んだ未来。
「もう、終わったんだね」
無意識のうちに呟いた。喪失感に潰されそうになる。
ソファに腰掛けると、体が深く沈んだ。もう立ち上がることなどできないような気がした。
そう感じるのは、人生で二度目のことだった。
end
novel
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