誰も知らない




 遠くで俺を呼ぶ声がする。
 涼しげで澄んだその声は、とても心地がいい。

 しかしその声に、雑音が混ざり始める。
 機械が発する冷たい音が、徐々に美しい声を消していく。

『もっと強く呼んでくれ!』
 叫びたいのに、声が出せない。
 俺をあざ笑うように、耳障りな雑音は大きくなる。
 
 音に追い立てられながら、既視感を覚える。
 雑音に挟まって、断片的に聞こえる俺を呼ぶ声。愛しい人の声。
 俺は、この状況を知っている。過去に経験したことがある。
 それも、何度もだ。
 
 声が途切れる。…もう雑音しか聞こえない。
 お願いだ、俺を導いてくれ。
 もう一度でいい。もう一度だけ、俺の名を……

「オスカー!」

 待ち焦がれたその声が、一際大きく響いた。
 その瞬間、体中に衝撃が走り、視界が開けはじめた。
 目の前にいる女性の姿が、俺の目にはっきりと映った。
「ロザリア…」
 俺の愛する女性であり、俺の妻。
「俺を暗闇から救い出してくれてありがとう…」
 心を込めた礼を言った俺を、しかし女神は冷たく見据えた。

「…わたくし、もう行きますわよ」
 ため息をついて、小さな機械を俺の耳元の横に置く。
 その機械の発する電子音は一層大きくなり、俺の頭の中を暴れまわる。
 たまらず体を起こして、忌々しい色のそれを掴んで叫んだ。
「待ってくれ!君がいないと、どうしたらいいかわからないんだ!」
 背中を向けようとしていた彼女は、それでも俺に向き直ってくれた。
 渋面を作ったまま、水色の目覚まし時計を手にとる。
 彼女がその白い指でなにやら操作を行うと、アラーム音はピタリと止まった。

「何度言ったら覚えてくれるの…
 裏のつまみを一度押してから、時計回りに回す、でしょう?」





「本当に、あなたには呆れますわ」
 冷めてしまった朝食を前に、彼女は淡々と言う。
「朝だけはどうもだめなんだ…」
 まだぼんやりしている頭を手で押さえる。起き抜けは特に良くない。
 目覚ましひとつ止められないほど、頭が働かないのだ。
「…寝起きが悪すぎますわよ。それに、朝ごはんくらい一人で食べられますでしょう?」
 君だって朝は機嫌が悪すぎる、と俺は心の中で呟いた。
「冷たいことを言わないでくれよ…君がいないと、朝食が美味くない。一日の始まりは美味しい朝食から、だぜ?」
 事態を好転させようと、かつて多くの女性を魅了せしめたウインクをひとつする。
「あら、わたくしが心を込めて作った朝食は、一人で食べるとまずいのね」
 まずい、という部分を強調した彼女は、薄く笑っている。怖い、と心の中で呟いた。
「そういうつもりで言ったわけではないんだが…」
 悪化した事態を収拾すべく、かつて俺の私生活についての噂を耳にし、お怒りになられたジュリアス様さえ上手くごまかせた…ではなく、それが根も葉もない噂であると理解していただくことに成功した、真摯な表情を浮かべて謝った。
「ふまはい」
 上手く発音できなかった。
「先に口の中のパンを食べてしまってちょうだい」
 言われた通りにして、格好がつかないのは承知で、もう一度同じ顔で謝ってみた。
「…すまない」
 その途端、ロザリアは吹き出した。
「口にものを入れてのお喋りはだめですけれど、そんなに真剣な顔して謝らなくてもいいのに…オスカーったら」
 そう言って笑うロザリアに、釈然としないながらも俺も笑顔を返した。
 いつもこんな調子なのだ。
 つまり、俺は子ども扱いされている。

「さあオスカー、早く身支度を整えて下さいな。一緒に聖殿まで行きましょう」
 ロザリアは、先ほどの薄い笑いとは大違いの、優しい微笑みを浮かべた。
 俺は、一瞬にしてにやけてしまった顔を見られないよう、急いで立ち上がった。
「ああ、すぐに用意する」
 子ども扱いされるのも、そう悪くない。





 朝露に濡れた木々の緑を楽しみながら、聖殿へと向かう。
 並んで歩く俺達に、挨拶の声が次々とかかる。

「おはようございます。良い朝ですね」
 公園を走る青年は、いつも爽やかな挨拶をしてくれる。
「おはよう。本当に気持ちの良い朝だな」

「毎朝ご一緒に家を出られるなんて、本当に仲がおよろしいのねえ」
 散歩をしているご婦人が、頬に手をあてながら微笑む。
「私と彼女は、二人でひとつなものでね。一人でいると、違和感を感じるくらいなのですよ、マダム」

「補佐官様!オスカー様!おはようございます!」
 聖殿の門に立っている年若い衛兵は、俺達を眩しそうに見て、元気に敬礼をする。
「ああ、おはよう。今日もお互い職務に精励しようぜ」


 ふと隣を見ると、ロザリアは俺を観察するように見つめていた。
「補佐官殿、どうされました?」
 気恥ずかしさを隠すため、冗談めかして聞いてみる。
「家の中と外では、大違いなんだから」
 そう言う彼女は、少し意地悪な表情を浮かべている。

「…いいじゃないか、少しは格好をつけさせてくれよ」
 まったく、君こそ家の中と外とでは大違いじゃないか。
 




 ベッドサイドのライトを消して、彼女は思い出したように呟いた。
「あなたがわたくしと結婚するまで、朝の時間の執事達は大変だったでしょうね」
 明日、彼女は陛下と共に主星に赴かなければならない。
 彼女の起床時間がいつもより一時間ほど早まるため、今夜はおとなしくしておこうと健気にも考えているところにこれだ。

「非常事態が起きた時に限れば、いつだって俺は誰より早く行動できるんだがな」
 抗議のつもりでそう言ったが、俺の声は拗ねている子どものそれに近かった。
「ばかね。そんなことはわかっていてよ」
 なめらかな手のひらに、頬を撫でられた。俺と同じボディソープの香りが、鼻先を掠める。
「俺だって、俺がこんなだとは知らなかったさ」
 ロザリアを抱き寄せると、彼女は体から力を抜いた。
 くにゃりとした感触を楽しみながら続ける。
「君とこうして暮らすようになるまでは、まったく手のかからない男だったんだぜ」

 そうなのだ。
 どれほど深酒をしようと、朝はきちんと決まった時間に起床していた。
 そして、誰の手を煩わせることなく出勤の準備をしていたのだ。
 だからこそ、屋敷で働く女性達も俺に憧れていてくれた…おっと、これは余計だな。

「君に甘えているんだろうな」
 わざと起きないでやろうと思っているわけではない。
 しかし、結婚してから寝起きが悪くなった理由が他に考えられない。
 ロザリアの手を煩わせたい、構ってほしい。
 …自分としては否定したいが、心のどこかでそう願っているせいなのだろう。

 いささか暗い気分でためいきをつくと、ロザリアは俺の耳に唇を寄せた。
「ありがとう」
 そう言って、ロザリアは俺の耳に軽くキスをした。
「…なぜ礼を?」
 次に、俺の頬にキスをして、ロザリアは小さく言った。
「あなたが甘えてくれるから、わたくし、いばっていられるのですわ」
 いばる。
 予想外の言葉だった。
 しかし、彼女が言うと、なんて愛らしく聞こえるのだろう。
「オスカーの器量が大きいから、安心してあれこれ言えるのですわよ?」
 暗闇の中で目を凝らしても、彼女の表情は見えない。
 だが、彼女の声には嬉しさが滲んでいて、俺の暗い気分は瞬く間に晴れた。
 彼女を抱く腕に力を込めると、ロザリアも俺の背に腕を回した。
 キスの雨を降らせるために、唇を彼女の頬に寄せようとした…が。
「オスカー、明日は…」
 遠慮がちなロザリアの声で、俺は思い出した。
 …そうだった。今日はおとなしく寝るつもりだったんだ。
「そうだな。明日はいつもより早いものな」
 名残惜しさを隠して体を離そうとした時、ロザリアの腕に引き寄せられた。
「違いますわよ。わたくしは大丈夫。問題は、あなたよ」
 頬を両手で挟まれて、顔を覗き込まれた。
 ついさきほどキスをしたのに、顔の距離が近すぎるように思える。
「…あの忌々しい目覚ましをセットしておくさ」
 胸の鼓動の速さをごまかそうとして、早口になった。
「裏のつまみを一度押してから、時計回りに回す、ですわよ?」
 対照的に、彼女はゆっくりと言う。
 その優しい声に、俺は素直に頷いた。
 そして、改めてキスの雨を降らせるために、俺も顔を近づけた。

 やはり、君の方が一枚上手だ。
 




  end   









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