暗闇の中で、男の名を呼んだ。 「オスカー、オスカー」 返事はない。 「…オスカー?ねえ、どこにいるの?」 衣擦れの音が聞こえた。誰かが立ち上がった気配。 「オスカー!」 不安になって大きく呼ぶと、足音がした。徐々に近づいてくる。 手を伸ばすと、指先に温かいものが触れた。それを掴んで、感触を確かめる。やや骨ばった大きな手。 「もう、オスカー!」 その手に引き寄せられて、包み込まれた。自分を抱きしめる彼の体は、小刻みに揺れている。なんて憎たらしい。 「俺はここにいるぜ」 くつくつと小さく笑いながら、彼はようやく口を開いてくれた。 「どうして返事をしてくださらなかったの!」 睨みつけることができないかわりに、声に怒りの感情を滲ませた。 顔の上半分に巻かれた包帯に手をやろうとしたロザリアは、悔しげに唇を噛んで手をおろした。 女王補佐官に就任してから二ヶ月ほどが経過したある日の朝、彼女は右目の周辺に軽い痒みを感じた。顔を洗ってもとれてくれない。よく見てみると、右目の周りが微かに赤くなっている。少し考えて、ロザリアは断定した。 「蚤、もしくはダニだわ」 そして、憤然と立ち上がった。 女王の元に赴いた彼女は、起き抜けでぼんやりしていた女王を厳しく問い質した。 ”また”自分に隠れて動物を宮殿で飼い始めたに違いない、と決めつけていたロザリアは、女王の言葉に耳を貸さなかった。 そんなことしてないもん!と繰り返す女王を見ながら、まるで小さな子どものようだ、と情けなくさえ思った。 運と日頃の行いが悪かった、とはゼフェルの弁。既に前科一犯の女王の言い分には、全く信憑性がなかったのだ。 ここで言う前科とは、女王が自分の執務室で『いつの間にか仲良くなった犬』を勝手に飼おうとしたことである。巨大で獰猛なその犬の存在は一日と経たないうちに傍仕えの女官に知れ、当然のようにロザリアにも知れた。大目玉を食らったのは、わずか10日前の話である。ついでに、それは犬ではなく狼だった(補佐官の怒りは、主にこの部分に対して向けられていた)。 聖地に新製品を売り込みに来ていたチャーリーは、偶然出会ったリュミエールからその騒動を知らされた。同時に、今の自分と同じようにリュミエールからその話を聞いたクラヴィスが、口元にかなり大きく笑みを浮かばせたらしいことも聞かされた。 嬉しそうに話し終えたリュミエールに向かって「その展開、なんや一昔前のギャグマンガみたいですなあ」と思わず言ってしまったが、彼はどこまでいっても笑顔だった。 結局、それが冤罪だったとわかり、ロザリアは顔面蒼白になって謝罪した。 それを必死で止めさせようとする女王の顔色も、ロザリアに負けないくらい青ざめていた。 「心配ばっかりさせてごめんなさい!それと、お願いだからゆっくり休んで!」 念のためにと診てもらったかかりつけの医師によって、痒みの原因が『仕事によるストレス』であると診断されたからだった。 体調管理をきっちりとできていなかった自分をふがいなく思ったが、そこまではまだ良かった。 悪かったのは、我慢できずに最も痒みが強かった目の周辺に手をやってしまいがちになってしまったことだ。 さらに、寝ている間は歯止めが外れておもいきり掻いてしまっていたらしい。 そしてつい先日、医師から宣告されてしまったのだ。 「しばらく、お顔に包帯を巻かせていただきます」 触りすぎていたせいで、病状が悪化していたのだ。いつの間にか、左目の方にまで痒みは広がっていた。 当然拒否権はなかったが、口止めだけは忘れずにしておいた。 皆にはただ、空気中の雑菌を防ぐための処置らしいと言ってある。 多少医学の心得がある様子のルヴァが何か言いかけたが、願いを込めて顔を向けると黙ってくれた。 思い出すだけで顔から火が出そうになる。 このわたくしが!ロザリア・デ・カタルヘナが!! 『痒いのを我慢できずに掻き毟った挙句、掻かないように包帯を巻かれる』だなんて! 犬と狼を間違うよりはマシだけれど!わたくし、自分が信じられませんわ!あの子よりはマシだけれど!とにかく比べようもないほどあの子は恥ずかしいことをしていたけれど!そうよ! ダメだわ。いくら自分を慰めようとしても、立ち直れない。 …アンジェリーク、ごめんなさい。 「本当にあなたは悪趣味ね」 「いや、つい。何度も呼んでもらえるのが嬉しくてな…悪い」 「あなた全く反省していないでしょう!笑うのは止めて頂戴!」 そうだわ。あの時もこの人は笑ったのだったわ。信じられない仕打ち…適切な処置とも言うのでしょうけれど、とにかくそれを受けて愕然としていたわたくしを笑ったのだったわ! 包帯を巻かれたわたくしに驚いて、医務室の外に控えていた彼は心から心配げに病状を聞いてくれた。心細そうな声音にほだされて、プライドを曲げてまで事と次第を説明したというのに!この屈辱、ジュリアスならわかってくださるはずですわ…! オスカーにそう言ってやりたかったが、「なら言って、慰めていただくか?」などと返されてはたまらない。言えるわけがないのだ。 もういいですわ、と言い放ってオスカーの腕をふりほどく。 ベッドに向かって勢いよく歩を進めたところで、身体に緊張が走った。 自分の右足がある場所には、椅子があるはずだった。転倒にそなえて身を固くしたが、いつまで経っても右足はしっかりと床を踏みしめている。 「オスカー?」 またしても返事はなかった。 「…お礼を言う気がなくなってしまいますわ」 呆れて呟くと、慌てた様子で返事を返してきた。これからは会話が成立してくれるだろう。 「椅子を移動させてくれたのね」 「ああ」 短い返事。彼らしくもなく照れているらしい。ロザリアは恐る恐る部屋を一周し始めた。 「ここにあった鏡も…あら、本棚まで?」 少し笑ってロザリアは言った。 「重かったでしょう?」 「君への愛の重さに比べると、塵のようなものだったさ」 声のする方向に向かって、笑顔を作る。 「ありがとう。あなた、目を瞑って歩き回ったのではなくて?どこかぶつけたでしょう?」 「そんな想像はしなくていい」 「ごめんなさい、既にしてしまったわ」 そこで言葉を切って、笑い声を漏らした。 「あなたがとても、愛しいわ」 「…愛の言葉は嬉しい。だが、ガキに対して話しかけているように聞こえるんだが。まあ、いいか」 手をひかれてソファに座ったロザリアは、横に腰を降ろしたオスカーの肩に頭をもたせかけた。 「ねえ、手を繋いでもいい?」 言い終わるか終わらないかのうちに、手の甲が優しく撫でられ、ゆっくりと握られた。 もたせかけていた頭を、少しずつ下ろしていく。耳と彼の服が擦れ合って耳障りな音がしたが、それも楽しみながらずらしていく。最終的には彼の膝の上に落ち着かせた。 「膝枕ってとても気持ちいいのね。あなたがせがむのもわかる気がするわ」 「君が甘えてくれて、俺もいい気分だ」 この暗闇の中でも、今彼がしているだろう表情を簡単に想像することができる。 目を細めて、自分を見てくれているに違いないのだ。 そう思えることが、嬉しい。 「あら、でも…もしもわたくしがいつも甘えてばかりなら、すぐにお厭きになるのではなくて?」 わざと気取って言ってみると、近い距離で囁かれた。 「悪趣味なのは君だ。もしも、も何もない。今の俺は、ただ君に甘えてもらえるのが嬉しくてしかたないだけなんだ。そして今の俺以外の考えなど、俺にはわからない。というわけで、そんなことを君が考える必要もない」 彼の言葉を聞きながら、寝返りをうつように頭の向きを変えた。包帯の下で、いつものように目を閉じる。 「だから、どうか心配しないで甘えてくれ」 すると、望んだ通りに真上からくちづけが降りてきた。 彼女は、とても幸せだと思った。 end novel top |