一年目の秘密



 正しい姿勢で横を歩くロザリアは、 考え事をしているようだ。
 それでも俺のことを忘れているわけではないらしく、時折こちらの様子を窺う素振りを見せる。

 彼女は俺の恋人だ。
 そう言ってしまうと簡単だが、舞台は特殊な理が絡まり合う聖地だ。こうなるまでには映画が一本作れそうなほどいろんな事があった。
 様々な人間の思惑や、俺たち自身の葛藤。恋敵との争いに、お決まりの気持ちのすれ違い。全編を通して暗いストーリーながらも、最後は感動のハッピーエンド。愛と涙の大作だ。
 とにかく、晴れて公認の仲となれた。もう怖いものなど何もない。
「ロザリア」
 声をかけると、彼女は俺に微笑んだ。自然な笑顔を作るのはお手の物のはずなのに、その笑みには綻びが生じている。
「歩き疲れたんじゃないか?そこの店で少し休んでいこう」
 大丈夫だと首を振るロザリアの手を引いて、目に付いたカフェに入った。

「ここに入るのは初めてだけど、静かで落ち着けるお店ね。あなたは何度か来たことがあって?」
 何気ない声音で聞くロザリアは、なぜか緊張した面持ちをしている。俺も初めてだと答えると、少し嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 ロザリアがオーダーしたのは、クランベリーソーダだった。
 薄いルビー色の液体は静かに、しかしかなりの速さで量を減らしていく。
 俺の視線に気づいて、細いストローから唇を離した。
「喉が渇いていたみたい。もう半分以上を飲んでしまったわ」
 恥ずかしそうに言った彼女は、まだ飲み足りないのだろう。悪いことをした。
「いや、うまそうだと思って見ていたんだ」
「ええ、とてもおいしいわ。一口お飲みになる?」
 俺の前に置かれているのは、毎度のことながらカプチーノだ。悪戯っぽく俺を見つめている彼女に頷いてみせた。
「そうだな。頂こうか」
 そう返すと、彼女は困った表情を浮かべたが、俺の返事もまた冗談だと気づいたのだろう。
「まさかそう返されるとは思いませんでしたわ」
 耳障りにならない程度の音量で流されている音楽が耳に心地いい。柔らかな日差しを思わせる、悪くない曲だ。何より、ロザリアの声を邪魔しないのがいい。
「君のくちづけを受けたグラスだ。中身が何であれ、断るはずがないじゃないか。それに、そのソーダの色はとてもきれいだ」
 君によく似合っている。俺がそう続ける前に彼女は吹き出した。これは冗談のつもりではなく、素直な感想だったので心外だった。
「あなたの言うことは、どこまで本気なのかわからないわ」
 笑いをおさめようとしている瞳が、俺の内心を見透かそうとしているように感じた。
 数時間後、俺はベッドの上でほぼ同じ台詞を聞くことになる。

 閉じられていく唇が、本当にそうしていいのかと迷うように動きを止めた。
「ロザリア?」
 彼女の体の重みを腕に感じていた俺は、幸福な夢から覚めた気分になった。
 瞼が上がり、長い睫毛に縁取られた蒼の瞳に捕らえられる。
「ごめんなさい。何でもないわ」
 優しく微笑んで、今度こそ彼女は唇を閉じたが、もちろん俺は安心などできない。
「今夜はゆっくり話をしよう。何か気になることがあるなら、遠慮なく言ってほしい」
「…気を悪くさせたかしら」
 不安げに動く瞳と困惑したように少し下がった眉。それらが俺の胸の温度を上げる。それを隠したくて慌てて口を開いた。
「俺の気を悪くさせる要素などひとつもなかったぜ。ただ、君の心の中にあるらしい”何か”が知りたいだけなんだ」
 戸惑っている彼女のために、軽いカクテルを用意した。グラスをしばらく見つめた後、彼女はやっと話し始めた。
「何でもお見通しのあなたには気づかれているかもしれないけれど…不安なの」
 一度話し始めたら勢いがついたようで、俺が頷くのを待たずに彼女の口からは次々と言葉が零れ出した。
「あなたはわたくしにとって初めての恋人だけれど、あなたにとってわたくしはそうではないわよね?今こうしてあなたといられて、それだけで十分のはずなのに。…時々不安になるの」
 どうとでも取れる台詞に思えた。恋人としては俺しか知らないことが不安なのか、俺の恋愛経験が多いことが不安なのか。冷静に考えれば前者であるはずがないのだが。
「これまで何人の女性を愛したの?」
 その瞬間、彼女は自分の発言に驚いたように目を見張った。
 俺には安堵を、彼女自身には強い後悔を齎したこの質問を最後に、ロザリアは黙り込んだ。
「…俺は確かに何度か恋をしてきたが、それを数えるようなことはしたくないな」
 なるべく冷たく聞こえないようにと注意を払ったが、俺がどう答えても彼女の気持ちは軽くならなかっただろう。
「違うの。今のは違うの。忘れて頂戴」
 矢継ぎ早に言う彼女の頬に手を添えた。滑らかな肌は、一度触れると離すのが惜しくなる。
「俺はいつでも本気だったが、君への想いが特別なものであることはわかる」
 余っていた左手も使って、両手で彼女の頬を包んだ。そのまま顔を上げさせたが、決まり悪さのせいか俺の顔をまともに見ようとしない。
「君だけが必要で、君だけを愛している。君がいない未来を想像すると、足場を失ったような心許ない気持ちになる」
 俺の言葉に少し安心したのか、照れたように笑ってくれた。
「…わたくしは、どうしようもないほど子どもなの」
 そう言って、自分の言葉に何度か頷く。
「今声に出して、改めて実感したわ。本当に、嫌になるくらいに子どもなの。笑わないで聞いて下さる?」
 俺にはそう言っておいて、彼女はおかしそうに笑った。
「恋をしたのは本当に久しぶりなのよ。そうね…六年ぶりかしら?」
 彼女が過去の恋愛を語るのは初めてで、俺は内心動揺した。
 数分前に彼女が言ってくれたように、恋人の地位を獲得したのは俺だけのはずだ。
 だが、片思いにしても俺以外の男が彼女の心を捕らえたことがあるという事実に、俺は嫉妬した。具体的な内容をまだ聞いていないにも関わらず、だ。
 これまでの恋愛遍歴を棚に上げて表情に出しそうになったが、彼女が先を続けてくれたお陰でそうせずに済んだことに感謝するべきだろう。
「ああ、もう七年も経つのね。十一歳の夏に家族と過ごした別荘で知り合った男の子が、とても素敵な子だったの」
 そうだった。
 ベッドサイドのテーブルに体を寄せ、グラスを手にとって喉を潤す姿はどこから見ても大人の女性だが、彼女はまだ十八歳なのだ。そんな当たり前のことに気づけないほど緊張していたことと、間抜けな早合点がおかしくて笑ってしまった。
「もう、笑わないでとお願いしましたのに」
 ツンと顎を上げた彼女は、本当に幼い少女のようだ。ロザリアの話に笑ったのではないと説明したかったが、みっともなくて本当のことなど言えるはずがない。
「いや、その頃のかわいらしい君を想像して、自然と笑ってしまったんだ」
 我ながら苦しい弁解だった。
「…そんな感じの笑い声ではなかったようだけど」
 彼女の初恋の話をもっと聞きたかったが、今日のところは諦めるしかないようだ。
「本当に、あなたの言うことはどこまで本当なのかわからないわ」


 もう怖いものはないはずだった。
 共に生きたいと思える女性に巡り会い、結ばれたのだ。
 求めて、求めて、ようやく手にいれた半身。これ以上何を望むことがあるだろう。その時は心からそう思った。
 だが、確かな温もりを手に入れて、幸福だと何のてらいもなく言える今だからこそ、それを失うことが怖い。しっかりと握っているはずの彼女の手が離れるのが怖くてしかたがない。
 彼女は、自分を子どもだと言う。俺を、何事にも動じない大人の男だと思っている。
 だが、ロザリア自身が気づかないうちに、かつてそうであったはずの俺を変えてしまった。
『君が不安そうにしている時、俺は喜びを感じているんだ』
 そう言ったら、ロザリアはどんな顔をするだろう。
 彼女が俺の気持ちに対して不安を持つ時、その胸に立ち込めているだろう黒い霧を払う努力はする。
 先ほど言ったように、今の俺に必要なのは彼女だけだ。愛する女性の悲しむ顔が見たいはずがない。
 しかし、一人の女だけを必要とし、心から愛しているような男が強くいられるはずがない。
 ほんの僅かな衝撃で狼狽し、彼女の愛情を確認したくなる。彼女にも同じように俺の愛情を確認してほしいと願ってしまう。
 つまり俺は、愛する人の不安を完全に取り除くことをせず、自分の心の安定を優先させてしまっているのだ。嫌になるほど子どもなのは俺の方だ。
「俺の言うことは、半分だと思ってもらっていい」
「話半分で聞いてくれということですわね。カクテル、とてもおいしかったわ。ありがとう」
 呆れ顔で、それでも感謝のこもった礼を言ってくれたロザリアは、グラスを持って立ち上がった。長く艶のある髪が、彼女の白い腕を飾るように揺れる。

 その逆だ。
 俺が口にする言葉は、ロザリアに抱いている想いの半分にも満たない。
 それを全て言葉にしたら、君は今後俺に対して不安を抱かなくなるだろう。
 そして、雲ひとつない青空にいつか飽きて、その身を雨に濡らしてみたいと思う日が来るんじゃないか。
 …そんな馬鹿げた想像が、俺を怖気づかせているからなんだ。

 そう告白しようとしたが、言葉が続いてくれなかったせいでキッチンへと向かう彼女を呼び止めるのに失敗した。
 情けない話だが、やはり今はまだ言えないようだった。
 










end




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