帰り道




 帰路を歩く彼女の足取りは、とても軽快だ。
 両足が共に地に着いている時はないのではないか、と物理的に不可能な考えが浮かぶほど、ふわふわと宙を蹴るように飛び跳ねている。
 思いを巡らせながら眺めていたレイチェルの右足が、公園の入り口に着地した。
 小高い丘の上にあるこの公園は、かなりの広さがある。迂回を余儀なくされるルートではあるが、公園を通り抜けて帰るのが二人の日課だった。

「エルンスト、遅いヨ!」
 振り向いて手を振るレイチェルは、満面の笑みを浮かべている。
 半年ほど前に、二人は婚約をした。と、レイチェルは言い張る。
 二人の希望が一致していることが判明した。と、エルンストは言う。
 つまりは、寝物語において結婚の話題が出され、それについて互いが前向きに検討していることを確認し合ったのである。

『私は結婚を視野に入れていますが、レイチェルはどう考えていますか?』と言ったエルンストに、レイチェルは頬を膨らませた。
 プロポーズにしては、ロマンティックさが足りない、というのが彼女の言い分だった。
 結婚とは、双方が望んで初めて遂行されることであり、片方が頼み込むものではない、とは彼の言い分。プロポーズというほどのものでもない、とも。

 間を取りましょう、と呟いたエルンストは、眼鏡をかけ生真面目な顔で言った。
『私はいずれレイチェルと結婚したいと考えています。あなたも同じ考えであれば、私はとても幸せになれると思います』
 納得いかない、というように嘆息して、レイチェルは言った。
『…ワタシも同じに決まってるじゃない。アナタのこと、すっごく好きだし』
 そしてすぐに、悔しそうに大声を出した。
『もう!ワタシまた余計なこと言っちゃった!スキって言わせようとしたのに、ワタシが言っちゃうなんて!』
『ああ、私ももちろんあなたが好きですよ。ですから、そんな顔をしないで下さい』
『なんか違うの!先にエルンストに言わせたかったの!』
『そう言われましても、時間は戻せません』
『バカ!』
 エルンストが”バカ”と言われたのは、人生において九度目である。
 そのうち実に八度は今正にその単語を発した人物から放たれたことに思い至って、彼は少し笑った。
 不思議そうに見つめるレイチェルに向けて、『私は幸せですが、レイチェルはどうですか?』と問うと、十度目を言われた。

『婚約したとしか言えないヨ』と、レイチェルは笑う。
『それはいささか大げさではないかと思うのですが』と、エルンストは不服そうに言う。
『そんなこと言って、そんな顔作ってても、ホントは嬉しいんでショ?わかってるんだから!』と、レイチェルはからかう。
『わかっているのであれば、わざわざ言わないで下さい』と、エルンストは仏頂面を作る。



「帰りたくないな」
 突然小さく呟かれて、エルンストは驚いた。
 研究院ですれ違う時、必ず彼女は『早く帰って二人っきりになりたいな』と言ってくれるからだ。
 仕事中に何を、と目で諌めてはいたが、聞いてしまうと調子が狂う。
 そわそわと浮き足立ってしまう自分を確認しては、気恥ずかしくなるのだ。嬉しいから、なのだが。
「帰りたくないのですか?」
 二人の家に、と続けそうになったが、堪えた。
 レイチェルの言う”婚約”をして以来、彼女はエルンストの家に住み着いていた。
 口には出せなかったが、”二人の部屋”だと考えていたから、レイチェルの言葉は自分自身が驚くほど、エルンストに大きな寂寥感をもたらした。

「あ、ナニナニ?エルンスト、怖い顔してる」
 レイチェルは、陽気に言って、「あ!」と声を上げた。
「もしかして、不安になってるー?嬉しいー!珍しいー!」
「……レイチェル、あまり大声を出すと近所迷惑ですよ」
「近所も何も、ここ、公園だヨ?ヘンなエルンスト」
 かわいさ余って憎さ100倍、とは、このような気持ちの時に使用すべきなのでしょうね、とエルンストは心の中でため息をついた。そして、どうやら特に憂慮すべき発言ではないらしい、と判断して冷静さを取り戻した。
「帰る前に、どこか寄りたい場所でもあるのですか?」
「うん。ちょっと川沿いを歩きたいんだけど、付き合ってくれる?久しぶりに涼しいし、家に帰るの、なんだかもったいないでショ?」
「寄り道がしたいのですね?」
 わかりきったことを確認するように口に出して、改めて気温に意識を集中させた。
 確かに、心地良い風が吹いている。
 頷いたエルンストの手を取って、レイチェルは道を右に折れた。






 川べりで息を吸い込むと、良い匂いがした。
「こういう日の川の匂いって、いいよネ。夏の匂いって感じがする」
 正しくは、水と土と草が混じった匂いだと思ったが、エルンストは何も言わずに頷いた。夏の匂いという表現が、消えかけていた子供心を呼び覚ましてくれた気がした。
「この匂いって、わたしをドキドキさせるんだ」
 ひくひくと鼻を動している彼女は、過去女王候補だった。それを知る者はいないが、誰かに言ってみたとしても、信じてはくれないだろう。
 それどころか、研究院始まって以来の天才であるという事実ですら、忘れてしまいそうになる。忘れたとしても、問題はないが。
「何かが始まるって気がするんだ。でも、結局夏の終わりには今年も何もなかった、ってため息をつくんだけどネ」
 レイチェルの言葉は漠然とし過ぎていて、エルンストにはその気持ちを理解することはできなかった。それどころか、ここ数年は研究に明け暮れていたため、四季の移り変わりを実感することもなかった。

「自分で始める勇気がナイ、とかそんなんじゃないヨ。始めたいことは始めちゃうし。でも、思いもよらない”何か”が、始まる気がするんだ」
楽しそうに話すレイチェルだったが、やはりエルンストには理解できない。寂しく思いながら聞いていた彼の頭に、妙案が浮かんだ。
「では、私がその”何か”を提案させていただきましょう」
「良い意味での胸騒ぎっていうのかな?そーいうの、ない?……え?」
「ありません。結婚しましょう」
 そっかーワカンナイか。と言って、レイチェルは固まった。そして、目を見開いて叫んだ。
「エー!?」
 腹の底から出したであろう大声に、エルンストは顔を顰めた。
「声が大きすぎますよ」
「だって!そんな…フツービックリするよ!」
 慌てふためくレイチェルに向かって、エルンストはあっさりと言った。
「ですが、私たちは婚約をしているのでしょう?ごく自然な流れかと思いますが」
「エルンスト…本気だったの?」
 独り言とも質問ともつかない呟きが、彼の胸にどっしりとのしかかった。
「……ひどい人ですね」
「大げさだなんだって言ってたじゃナイ。だからビックリしちゃって」
「ですが、あなたが婚約という言葉を口にするたび、私が嬉しく感じていたことを知っていたのでしょう?」
 そりゃそーだけど、となぜか口を尖らせたレイチェルだったが、エルンストが黙っているのを見て、観念したように口を開いた。
「だって、そう思いたくて言ってただけなんだもん。頷いてくれるアナタが見たくて、本当はアナタからいろいろ言って欲しくて、だから言ってただけなんだもん」
 拗ねたように横を向いたレイチェルを、彼は目を細めて見つめた。
「私があなたに合わせていたと思っていたのですか?」
 横を向いたまま、レイチェルは決まり悪そうに頷いた。

「ですが、結婚する意志があることを先に言ったのは、私ではありませんでしたか?」
 大きな目を輝かせて、レイチェルは首を縦に勢い良く振った。
「そうそう!だから、ホントはあの時、すっごく嬉しかったの!だけど、時間が経つにつれて不安になってきちゃってさ。責任感じてるから言ったのかな?なんて…」
「責任とは?一体どういう意味ですか?」
「だから!嫁入り前のワタシと…ね?」

 頬を薄く染めて、古風な言い回しをしたレイチェルをしばらく眺めたエルンストは、ポンと手を打った。

「なるほど、そういう考え方もできますね」
 唸って、眼鏡の縁に手をやりながら、続ける。
「しかし、疑問があれば直接聞けば良いと思うのですが。今思えばあなたは頻繁に、えー、愛の言葉、と言うのでしょうか?そういった台詞を言わせたがっていたように思いますが、ごく軽い口調でしたから、気づきませんでしたよ」
「冗談っぽくしか言えないに決まってるじゃない。無理に言わせても意味ナイし。繊細な乙女心がワカンナイ恋人を持つワタシって不幸」
 嫌味を言いながら横目でエルンストを見たレイチェルの耳に、聞き捨てなりませんね、という台詞が入ってきた。
 怒らせただろうか、とやや不安になった彼女だったが、どこか嬉しげな彼の表情を見て安心すると同時に、訝しく思った。
「私はあなたのような恋人を持つことができて幸せだと感じているのに、不公平です」
 嬉しげな表情をはっきりとした笑顔に変えて、エルンストは芝居がかった仕草で、レイチェルの前まで進んだ。

「手を繋ぎたいのですが、いいですか?」
 呆気に取られながらも、頷いたレイチェルの手を大切そうに取り、顔を少し下げる。
「あなたにくちづけをしたいのですが、いいですか?」
 顔を真っ赤にして、レイチェルは慌てた。
「な、なんでそんなコトいまさら聞くの」
 言い終わらないうちに顔を覗き込まれて、レイチェルは思わず口を噤んだ。
「あなたが好きだからですよ。不意を衝かれたあなたは、特にかわいらしいですから。これからもずっと、あなたと手を繋いで、くちづけをして、同じベッドで眠って、起床時に挨拶を交わしたいのですが、いいですか?」

 立て板に水の勢いで言葉を重ねるエルンストを呆然と見つめたレイチェルは、一度俯いて、顔を上げた。
「無理してるでショ?」
「いえ、今は全く。これからもなるべく感情を口にするように心がけます」
「いいのに」
「あなたを不幸から救えるのであれば、お安いものです」
 どうかあなたを幸せにさせて下さい、と付け足したところで、眠り込んでいた羞恥心がようやく目覚めたらしく、顔を赤くした。
「…レイチェル、返事をまだ頂いていませんが」
 赤い顔のまま不安げに聞くその様子がかわいらしくて、笑ってしまった。
「モチロン、イエスだよ」
 言った瞬間、強く抱きしめられた。


 腕の力を感じながら、自分に向けて照れ隠しをするように、レイチェルは思っていた。
『突然の、しかも風変わり過ぎるプロポーズを、意地悪しないで素直に受けてあげたワタシを誉めてあげなきゃネ』と。
 そして、やはり声に出さずに『今は、ネ』と続けた。

 彼女の胸のうちなど知る由もないエルンストは、ありがとうございます、と言って顔を綻ばせた。
 数年後、目に入れても痛くないほどにかわいい息子の口から『アリマセンケッコンシマショウ』という台詞が飛び出すことも、当然知らない。












end




novel  top